子爵夫人は怒りっぱなしである 6
エヴァと殿下の婚約式はそれからひと月経った、蝉が喧くなく時期になった。本来式は午後からだったが、エヴァが殿下と話す機会が欲しいと言うので、午前中に王宮へ行くことにした。殿下は自分に割り振られた仕事は早い時間に終えてしまえると聞いていたし、婚約の話をなかったことにするためには機先を制する必要があると思ったので、敢えて知らせずに王宮に向かった。無礼なことではあると百も承知していたが、そもそも婚約の申込みについて型破りなことをしたのはあちらである。しかも、エヴァが目を覚ました後はあちらからの訪問は一切なかったので断る暇もなかった。だから文句は言わせないし、絶対に時間を作ってもらうと思っていた。
それなのに馬車のドアを開いたらそこには嬉しそうに微笑む殿下がいらした。殿下は嬉しそうに微笑むとエヴァをエスコートすると手を差し伸べた。そしてまるで宝物に触れる様に優しくエヴァに触れた。話があると言うエヴァに殿下は二人で話がしたいからと私たちに断って王宮の庭へ向かった。
本来なら婚約を断るつもりの男性と二人きりになることはよろしくないことである。エヴァはこっそり断るためについて行ったのだろうが、私達も同席すべきであった。
けれど、殿下のエヴァを見る目に既視感があった。あれは大切な相手を見る目だ――ヨアキムが私を見る目にとてもよく似ていた。殿下とクラフト伯爵令嬢の話は公然の噂だったが、殿下の忘れられない初恋の相手とはエヴァではないのだろうかと思った。
だからつい殿下に流されるまま、エヴァを預けたが、一時間後に私はその判断を後悔することになる。殿下について行ったエヴァは気を失った状態で私達の元に戻り、あれほど「お断りする」と言っていたのに殿下はエヴァから了承をもらったと言い、婚約式は殿下一人で恙無く行われた――その間エヴァは王宮の一室で寝かされていたが翌日まで目を覚ますことはなかった――その様子は異様としか思えなかったことを付け加えておく。
翌朝目を覚ましたエヴァに私たちは安堵しながらも何があったのかを聞いたが、エヴァは目を伏せて赤面しながら、何もなかったと繰り返した。何もなかったはずなんてない、と思うもののあまり突っ込むのはエヴァが可哀想である。あの王太子、うちのエヴァになんてことをするのかと頭にくる。最近の私は頭にきてばかりだ。
「お義父さま、お義母さま。殿下に責任を取っていただかなくても良いとお伝えしたのですが、それでも婚約を望まれましてお断りできませんでした。
けれど二年もしないうちにこの婚約は解消されることになると思いますので…」
私達が何度聞こうともエヴァの答えは常時その返答だった。たしかに殿下のエヴァを見る目はヨアキムが私を見つめる瞳と同じであり、さらに言うなら獲物を狙う肉食獣の様な眼でもあった。どう見てもエヴァのことを大事に想って――狙って?――いるようにしか見えなかった。なのでヨアキムと話し合い、様子を見ることにした。
それから、エヴァは王宮にお妃教育に通うことになった。殿下とは三日に一度はお茶をする取り決めになったらしいが、その日は気を失った状態で帰ってくることが多かった。目覚めたエヴァに心配のあまり詰め寄っていつも判を押した様に、目を伏せ、頬を赤らめて「何もなかった」と繰り返すだけだった。本来なら目を瞑ってはいけないところなのだが、そうやって繰り返すエヴァはどことなく嬉しそうだったので、深く追求しなかった。
そして殿下は今までの婚約者と違い、エヴァに大量のプレゼントを贈ってくる。それはどれもエヴァにとてもよく似合うものばかりで、殿下自らが選んでいると専らの噂だった。そして毎朝花や小物に直筆のメッセージを付けて贈ってくれていた。
物に釣られたのかと謗りを受けるかもしれないが、物とは相手にも他者にも伝わりやすい愛情の証である。今までの婚約者が何もしてくれなかった分、殿下の対応はエヴァを大事にしてくれている様に思えた。
ただし、あのデビュタントのドレスは正直どうかと思った。デビューする令嬢は簡素な白いドレスを着用するのは暗黙の了解である。それにもかかわらず、殿下は自分のものと示す様に、エヴァに自らの目の色の青いドレスに髪色と同じ金色の刺繍をした豪奢なドレスを贈ってきた。誰も触れるな、と言わんばかりのドレスに私たちは困惑した。エヴァが急いで手違いでないかと問い合わせだが、返ってきた答えは間違えていないというものだった。仕方なくエヴァはそのドレスを着てデビュタントに出席した。たしかにそのドレスはエヴァにとてもよく似合っていた。けれどもこんな型破りをしても良いのだろうか、と不安になった。貴族とは見えている足を引っ張らずにいられない生き物だ。何か悪いことが起こらなければ良いのだが…と願わずにはいられなかった。