王太子は動き出す 9
陽気で陰りなく笑うグリシャの周りには、同じような人間が集まる。彼の周りには美しく着飾った女達や、グリシャ同様へべれけに酔った男達が楽しげに笑っている。グリシャが僕に近づいて来たから、それを好機と感じたのか、彼らも近づいて来た。
女たちの甲高い声も、男たちの酒臭い息も、癇に障る。キーランがグリシャに向かってなにやら怒鳴っているようだが、グリシャは聞く耳を持つつもりはないようで、へらへらと笑っている。
キーランの取り巻きの中の何人かはグリシャの取り巻きの父親らしく、子供たちに向かって唾を飛ばす勢いで怒鳴っているが、彼らもグリシャ同様、笑っているだけだった。見苦しいことこの上ないので、お説教は帰ってからにしてほしいものだ。まあ、帰ってから怒鳴りつけても、この軽薄そうな面々がこたえるとは思えないが。……恐らく徒労に終わるだろう。
ぎゃんぎゃんと騒ぐ鬱陶しい輩を見て、どこか違和感を覚える。なにかが引っ掛かる。内心首を傾げながら、グリシャたちを見回して、ようやく違和感の正体に気づいた。さて、聞いて良いものか、否か……いや、酔っ払いに気遣いなど不要だろう。そもそも僕と会ったことですら、明日覚えているか否かも怪しい。 それに、覚えていたからと言って、グリシャが僕に何ができるというのか。むしろ、何かできるのならば、褒めてやってもいい。
「ところでグリシャ、ディラード嬢はご一緒ではないのかい?」
「リーリア?彼女は十日ほど前から急病さ。明日も明後日も、ずっとずっと急病さ。急病記念にかんぱ~い!」
そう言うなり、グリシャはばっと両手を広げて、あははははと大きな声で笑い出した。何も考えていなかったのだろう。彼の手に持っていたグラスからワインが飛び散った。
周囲の女たちが「きゃあ」「ドレスが」と姦しく騒ぎ、血相を変えて、我先にと化粧室へと駆け出していく。グリシャはそんな女達を見て、更に大きな声でに笑った。男たちは辛うじて逃げてはいないが、グリシャの行動が引っ掛かるのだろう。顔を顰める者、ハンカチでワインを拭う者と様々だ。
ワインを被った男たちも、運よくワインを被らなかった者たちも、被害を受けまいとでも言うように、ジリジリとグリシャから距離をとり始めた。彼が手に持つグラスの中にはワインがまだ残っているから、当然だろう。
キーランやディーンも顔を顰めると、取り巻きどもを連れて離れていった。僕にひと言もかけないあたり、舐めているのか……いや、もしかしたら、よっぽどワインで汚されたくないのかもしれない。
まあ、どちらにせよ、仲良くしたくない相手だということは間違いない。まあ、あの馬鹿な王妃とつるみ、杜撰な密輸をする人間だ。とんでもなく狡猾で傲慢な自信家か、浅はかな人間かのいずれかだろう。だからと言って油断するつもりも、放置するつもりもないが。
「なんだなんだ、皆、ノリが悪いなぁ。ワインの雨なんてすばらしいと思わないかい?……ねぇ、殿下」
グリシャは自分と距離をとる人間たちに向かってため息交じりにこぼしながら、グラスを持った手で僕の肩を抱いた。そうして、そのまま真っ赤な顔を近づけて来る。酒臭い息が顔にかかって、どうにも不愉快だ。身を引こうとした僕に、囁くような声でグリシャは耳打ちしてきた。
「気をつけなよ、殿下。『空位になった王太子妃の座をリーリアなら狙える』って、彼女自身もディラード家の人間もそう考えているようだ。早めに手を打った方が良い」
その声は、いつもの能天気なものでも、酒に酔っ払ったものでもなかった。僕が何かを言うよりも先にグリシャは大仰な身振りで僕の前に回り込み、僕の腕を掴んだ。酔っているとは思えないほどの身のこなしだ。
「おぉっと、殿下にワインをかけてしまったようです。申し訳ない、代わりの服をご用意いたしましょう。私の服で申し訳ないが、袖を通していないものがあります」
そう言いながら、ハンカチで僕の服を拭い出したが、拭き方が雑なせいで汚れはどんどん広まるばかりだ。先ほどまでなら、そこまで目立たなかっただろうに、グリシャのせいで、とてもこのまま過ごせる状態ではなくなっている。夜会に留まるのなら着替えが必要だろうが、目の前の男を観察する。
グリシャは僕よりも十センチ以上背が高いので、サイズが合わないだろう。なによりも、グリシャと僕とでは、服の趣味が違う。……いや、この際はっきり言わせてもらうと、フリルやレースがひらひらついたグリシャの服はどうにも悪趣味だ。思えば、いつもこんな服装をしている。父親によく似た、すっきりとしたグリシャの顔に、その服は似合わないでもないが、僕が着るのはごめんだ。
「いいや、それには及ばないよ。けれど、汚れたままの衣服でいるのも、見苦しいね。今日は失礼することにしよう」
そう、父とキーランの思惑通り、王家とルーク家の友好関係が続いていると、貴族達に見せつけてやったのだ。これ以上長居をしなくても良いだろう。いや、駄目だと言われても、これ以上、付き合うつもりはない。それに、先ほどのグリシャの言葉についても考えたい。早く対処が必要ならば、特に。
ハンカチを持つグリシャの手を軽く押しとどめると、グリシャは僕の顔を見つめ、ヘラリと笑った。いつもの能天気な笑いのようでいて、なにか含んだような笑いだった。
「そうですか?申し訳ない、では馬車までお送りしましょう」
グリシャは僕の手を引こうとして、僕がまだグラスを持っていることに気づいたようだった。
「さぁさぁ、行きましょう、これはもういりませんね」
グリシャは薄く笑うと僕の手から、グラスを奪い取るようにして取り上げ、給仕に渡した。お目付け役なのか、それとも、いつもこれだけ飲んでいるからなのか、いつも都合よくそばに居る給仕にひと声かけて会場を後にする。
手を引かれなくとも馬車止めの場所は分かるし、他の場所に行くつもりはないのだが、グリシャは僕の手を離さない。さて手を振り払うべきか否かを考えている僕に向かって、グリシャは楽しげに口を開いた。
「いやあ、思ったよりも濡れてしまいましたね、どうか風邪をひかないようにお気をつけください。今年の風邪は南東から流行るようです。今日は北西回りでお帰りになるとよいでしょう。」
そう言うと、グリシャはようやく、僕の手を離した。これではっきりとした。グリシャはわざと僕にワインをかけ、僕が退場しなければならない状況を作ったのだ。さて、どんな思惑があるのか。今まで十何年とグリシャに接していたが、彼がこんな顔を見せるのは初めてだ。
できれば、グリシャと話がしてみたいが、ここは敵の本陣だ。どこで誰が僕らの会話を聞いているか分からない。今ここで迂闊なことは言うべきではない。僕がなにか言いたげにしているのを気づいたのだろう。グリシャは僕を目でなにやら訴えてきた。恐らく『しゃべるな』と言いたいのだろう。
その後は僕もグリシャも口を開かなかった。僕が馬車に乗ってもグリシャは頭を下げるだけで言葉を発さなかった。少しばかり残念だが、次の機会を待つことにしよう。
扉が閉まり、馬車が動き出し始め、ようやく息がつけた。まだまだ修行が足りない。手駒も足りない。どんな時でも状況を楽しめるくらいの力がほしいものだ。
「殿下!後日、お詫びに伺います」
思わずタイを緩めた僕の耳にグリシャの声が響いた。




