王太子は動き出す 8
「やあ、親父。麗しの殿下を爺が独占するのはいただけませんね。殿下も、このような席で爺どもばかりとお話するのはいただけませんね。美しい花が咲き乱れている園では花のこと以外を考えるべきではありません」
さて、こいつらをどう料理しようかと考えている僕に、後ろから抱きついて来た男がいた。そう、キーランの長子のグリシャだ。僕の手の中のグラスが空であることを見て取ったグリシャはボーイに空いたグラスを渡し、新しいワインを差し出して来た。ワインを受け取りながら、グリシャの様子を窺ったが、ヘラヘラと笑う男の顔は赤く、もう十分に酔っているようだった。
唐突に現れた長男に、キーランは顔を歪ませるが、十二分に酔っているグリシャはそんな父親に構う様子は全くないようだ。正直、延々とイヴの悪口――ひいてはクラン家の悪口を呪詛のように言い続けるキーランたちの話を聞き続けるのには、少々辟易していたので、グリシャの登場は歓迎すべき展開だろう。
「やあ、グリシャ。壮健そうで何よりだ」
「はーい、殿下、お久しぶりです。ご機嫌麗しく…はないようですね」
酒に酔ってフラフラしながらも、的確に僕の気持ちを掴んでいるグリシャはキーランよりもよっぽど観察眼に優れている気がする。それとも、キーランはわざと気づかないふりでもしているのだろうか?それならそれで、なかなか楽しいが、あの母とつるんでいる人間だ。鈍感の阿保だったとしても一向に驚かない。
「さて、どうかな?けれど、これから先を考えると頭は痛いね」
「これから先?そんなものは考えても仕方がありませんよ!何より美しく着飾った花々の前で考えることではありません。全てのことは、なるようにしかならないのです。今は夜会を楽しむべきですよ、殿下」
そう言ってグリシャ・フォン・ルークは酒臭い息を振り撒きながら笑う。享楽的で、思慮が足りない。僕の側近決めをするときには、すでに、そう囁かれていた。そのため、グリシャは僕の側近候補に挙がらなかった。当主であるキーランもグリシャには期待していないのか、それとも自分が王妃の側に侍っているからから必要ないと思ったのか、無理やりねじ込んでくることも無かった。
その代わりにグラムハルトが僕の側近として送り込まれて来たが。
僕の周りの人間によく思われていないのは本人が一番よく知っているだろうに、グリシャは僕を見かけると、今日のように声をかけに来る。最初はご機嫌取りかと思ったが、次第にそうではないとわかった。なにせ、グリシャは自分を売り込もうとしない。
今一番権勢を誇っている家の嫡男だから必要ないと言われればその通りなのだが、なんというか……いやらしさや驕りがないのだ。粘着しているようなところが無いというか、あっけらかんとしているというか……。
僕に話しかけにくると言ってもずっと側にいるわけではなく、二言三言話すと軽やかに去っていく。話す内容も今みたいに『楽しんでいるか?』もしくは『楽しもう』というものがほとんどだ。
享楽的な性格と言われればそうなのだろうが、どうにも憎めない。とはいえ、親が親だ――母の懐刀であるキーランは信用ができない男だ。今も何を考えているか分からない――。警戒すべきで、あまり親しくしない方が良い相手だ。だから、僕から近づくことはなかったし、少々避けていた。
それなのに、グリシャは全く気にせず、今と同じように笑顔で寄ってきた。それを繰り返されると、もうお手上げだった。彼自身に悪意がないせいか、どうにも邪険にしづらく、結局、こうして会話をしている。
「そうかもしれないね」
僕の言葉にグリシャは「そうでしょう、そうでしょう」と何度も頷き、手に持っていたワインをグッと飲み干した。そうして、給仕に空のグラスを渡すと新しいものを手に取る。
「夜会で顔が赤くなるほど飲むなんて」と、周りは眉をひそめているが、本人は気にしておらず、まだ飲むつもりのようだ。今日の夜会での失態はルーク家の今後の進退にも関わるのだから、失敗はできないはずなのに、ちっとも構う様子はない。
仮にもルーク家の嫡男の行動ではないと思うのだが……。自分の家が置かれている状況もわかっていないのか、それともルーク家なんかどうでも良いのか。キーランの意図を、グリシャは気にする必要がないとでも思っているように見えた。
王家の評判が落ちている今、ルーク家が無事でいられる保証はない。貴族たちは注意深くルーク家の動向を見ている。王妃と一緒に地に落ちるのではないか、と彼らは思っているのだ。
そんな周囲にルーク家の権威は保たれているのだと喧伝したいのだろう。あの裁判から一週間も経っていないというのに、盛大な夜会を開いている。今は大人しくしておくべきだと僕は思うのだが、父とキーランの考えは僕と異なるようだ。
キーランはすでに自分達から離れていった貴族家を呼び戻す為に、父は母の窮状を救う為になんとかしたいと思っているのだろう。出席するつもりのなかった僕まで引っ張り出して来たのだ。奴らが焦っていることがよくわかる。
それなのに、ルーク家の嫡男、次期当主であるグリシャはヘラヘラ笑いながら酒を飲んでいるだけだ。アスランとは同年代というのに、気楽なものだとは思うが、それもまたグリシャらしい。
リザム子爵夫妻が爵位を返上したうえ、王都から去ったことはもう既に殆どの貴族に知られている。僕の婚約者の座が空いたことを幸運だと思っている馬鹿もいるが、リザム子爵家の現状を見て、王家とは距離を置きたいと思う者も少なくない。確かに、僕の婚約者になったからと言ってイヴは何も得ることがなく……むしろ失ってばかりだった。
僕とリザム子爵夫妻の会話を知る貴族は王宮に出入りできる、ほんの一握りの上位貴族達だけだ。大半の貴族達は、僕とイヴのことは伝聞でしか知らない。何も知らない貴族たちの目には、『イヴを利用するだけして目的を達成したら捨てた、酷い王太子』だと映っているのだろう。
賢明な貴族や、中位から下位貴族達が僕の動向を注意深く見守っているのは当然のことだろう。むしろ、好機だと思う貴族たちの頭の方がどうかしている。
何百年も何千年も、爵位を守ってきた貴族たちは臆病で、狡猾だ。自らの家が潰れるようなことをするつもりはないが、あわよくば美味い汁を吸いたい。彼らはそう思っている。だから、王家に不信感を抱きながらも離れられない。
じゃあどうするのかと言うと、僕を遠巻きに見るだけだ。話しかけることすらない。話しかけたら得をするか、損をしないか判じかねているのだ。
だから、怯えと欲望が混じった目で僕を見つめる。その目はどこか薄暗く、ねっとりとしたものを感じさせられて、可笑しくなる。僕の周りの人間はいつもこうして醜い視線を僕に投げてよこす。
今、無性にイヴに会いたい。彼女の周りの清廉な空気を吸いたい。残念ながら、彼女の瞳に、僕に対する熱が灯ることは無かったが、それでもこいつらみたいな薄汚い目で僕を見ることはなかった。
イヴの目はどこまでもまっすぐなのに、どこか怯えを含んでいた。涙目で僕を見つめるイヴを何度めちゃくちゃにしてやろうと思ったことか。いずれ、自分のものになると思って我慢したが、そんなことするんじゃなかった。例え、婚姻時に文句を言われたとしても、そんなやつらは全て消せば、そのうち、だれも何も言わなくなっていたものを。
イヴをきちんと僕のモノにしておけば……いや、子供の一人でも作っておけば、逃がさずに済んだはずなのだ。逃げた小鳥を捕まえたら、今度こそ、逃げ場は残さない。すぐに寝室に連れ込んで、子供ができるまで寝室から出さない。
そうしたら、万一、彼女が処女でなくても、誰にも気づかれないだろう――もちろん、その場合、彼女には色々とお仕置きが必要だろうが。
それでイヴが妊娠したら、周りと……彼女が何と言おうと、それは王家の子だ。王家の子供を産んだイヴを絶対に王妃にする。
万一イヴが結婚していたり、すでに子供を孕んでいたりしたら……その時は仕方が無い。彼女にはすべてを諦めてもらおう。
どちらにせよ、イヴの未来は僕の隣にしかない――他の男の隣で生きて行くなんて絶対に許さない。イヴは僕の気持ちを思い知るべきだ。理解ができないと言おうものなら……いや、それならそれで良い。僕が、身体に教え込んでやる。
気づくと、僕の思考はイヴへと向かう。けれど、それは仕方が無いことだろう。どうやっても、僕の人生には、彼女が不可欠なのだから。
可愛い小鳥のことを考えている僕に纏わりつくような視線を向ける貴族に苛立ちながらも――ここでこいつらを皆殺しにできればどれだけすっとするだろう――横を見やると、グリシャは僕の隣で陽気に笑っている。彼の翳りのない笑顔に心が波立つ。欲望に満ちた目で僕を見てくる人間には苛立つが、陰りなく笑う人間にも腹が立つ。僕を利用しようとする人間は言うに及ばず、幸せそうに笑う人間も周りにいてほしくない。だからと言って不幸だという顔をしている人間も気に食わない。
あぁ、そうか。つまり、僕は、貴族達が――周囲の人間が、殺したいほど、憎いのだ




