王太子は動き出す 3
「まあ、そういうわけで下位の人間に接触しても何の意味もありませんし、上位の人間はこちらに寝返る利点はありません。そんなわけで、こちらに引き込むことができる人間を探すのはまず、不可能でしょう。
次にこちらから人を送り込む方法ですが……これもまた、難しい。そもそもサリンジャに辿り着くのが我々平民にとっては難しいんですよ。サリンジャに行くには許可証が必要ですが、私たちに許可が下りることはまずありません。この国は民が国外へ出ることをよく思っていませんからね。
よしんばあなたのお力で許可をいただいたとしても、サリンジャまでの道のりは危険です。サリンジャ法国はダフナ領に面していますが、ダフナ領――特にピスバーグ地方はややこしいことになっているでしょう?」
ザインの言葉で議会に上がっていた問題を思い出した。残念ながら、まだ王太子の僕はこの問題に関与できなかったので、議会に出席しているだけなのだが……あれはとんでもない問題だ。議会でも紛糾の種になっているが、未だ止める法案は可決されていない。父も勅書を出せばいいものを放置しているので、この事態は収拾がつかなくなっている。
イヴが向かったサリンジャ法国はわが国の隣国で、ダフナ家が治めている西部地域に隣接している。問題はダフナ領の最西部――サリンジャとの国境沿い、ピスバーグ辺境伯領で起こっている。
ピスバーグ地方の領主たちの一部は自らの領土を、国の許可なくサリンジャに寄進をしている。そのせいで国境が変動していて、あのあたりの地図は現在作成できない状況なのだ。ダフナ公爵はこの問題への関与を認めていないが、知らないはずがない。
「寄進された土地に住む民たちはいきなり、サリンジャの国民になるんです。そう、勝手にランク付けされて、いきなり不自由な生活に放り込まれるわけですよ。それが嫌で逃げ出した人間たちや、サリンジャに向かう難民を狙って人買いがうろうろしています。それに対抗すべく武装した国民たちは自分たちが食っていくために旅人や、村を襲います。あの辺りはいまや無法地帯ですよ」
「人身売買か……僕たちが片端から潰したと思っていたが」
「ええ、王都ではそんな馬鹿なことをしようとするものは、もういませんね。以前は貴族たちも噛んで、こそこそやっていましたが、あなたが統制するようになってはそんなやつらへの配慮も必要なくなりましたからね」
「遠くなればなるほど、目は届かなくなるものだが……そんなに大規模でやっていて問題にならないのか……。一応建前ではクライオスは奴隷制度を廃止しているんだがな」
「それが、捕まった人間たちの販売先はクライオスじゃなくて、サリンジャらしいですぜ。神に愛された人間が集う神殿とやらが、裏でいったい何をやっているんでしょうやね」
僕の言葉に答えたのはザインではなく、同席していたザインの側仕えだ。年若い男で、今回初めて見る顔だ。ザインの護衛をかねているらしく、そこそこ腕は立つようだが、許可なく話に割り込んでくるあたり、少々鼻につく。ザインに免じて一度は見逃してやろうと男を無視したが、それが気に食わないのか、男は舌打ちをすると唾を吐いた。
「おい、勝手に口を開くな、黙ってろ。申し訳ありません、つい最近そばに置いたせいでまだ躾ができておらず……」
「構わない、続けてくれ」
「ありがとうございます。それで、こちらから人を送る話ですが……正直、辿り着くのも難しいといったところです」
「馬車を借りていくというのは?」
「やめておいた方がいいでしょう。馬車で行くにしても、人数を集める必要があります。それに馭者が裏で誰と手を組んでいるか分かりませんからね。馬車を手配したにも関わらず、消えた人間も少なくないんです。我々平民が旅をするのは命がけなんです。サリンジャに辿り着いても、護衛するためには入殿の必要がありますし、入殿したとしてもリザム嬢の護衛になれるかもわかりません」
「そこまで危険なのか……」
ザインの言葉に驚きを禁じ得なかった。そんな危険な旅に出てイヴは大丈夫なのだろうか?心配で胸が潰れそうだ。今からでも、彼女を追いかけるべきかもしれない。
「リザム嬢の心配は無用でしょう。神殿が大切なハルトを危険に晒すはずがありませんし、神殿の馬車は武装しています。アレに手を出す馬鹿はそういませんよ」
ザインの言葉に飛び出すのだけは、なんとか我慢したがやはり納得できないものが残る。小さく息を吐いた僕にザインが苦笑する。いけない、感情を表に出してはいけないと思うのに、つい以前と同じような行動をとってしまう。
他のことを考えねばなるまい。例えばザインの話だ。対処せねばならないことが山ほどあった。
クライオスに住む殆どの人間がハルトの治療を受けられないことは初耳で、驚愕に値するものだった。
この世界の最高峰の治療は神殿のハルトが行うものだ。どこの国にも医師はいるし、名医と呼ばれる人間もいる。けれど、医師は薬草や手術で治療するので、治癒魔法に比べると、時間がかかるし、完治率も低い。比べると、どうしてもハルトの魔法には劣ってしまう。医師よりもハルトに治療してもらいたいと思うのは当然のことだろう。
しかし、ハルトの治療は有料で、しかも『あまり裕福ではない伯爵家』ですら支払えないほど高額だ。つまり、殆どの国民は神殿の治療を受けることは無理ということだ。
それでも、どうしてもハルトの治療を受けたければ、一年に一度開催される誕生祭に行くしかない。誕生祭であればどんな人間でも無料で治療してもらえるからだ。しかし、出国許可が下りないのであればハルトの治療は諦めざるを得ないだろう。
しかも、許可が下りたとしてもサリンジャに行くのは命がけという言葉に驚く。僕たちがサリンジャに行くときは、視察や観光、依頼が主だ。行ったら、帰ってくることは僕らにとっては当然のことだ。 一年に何回も神殿に参拝に行く貴族なんて珍しくない。だから、辿り着けずに死ぬ人間がいることを僕は知らなかった。僕は知らないことばかりだ。
そんな頼りない僕だから、イヴはあの気障野郎の手を取ったのだろうか?
スライナト辺境伯からイヴが入殿することを聞いて調べたが、イヴからの出国申請はなかった。入殿するためにはサリンジャにある大神殿に赴かなければならないのにも関わらず、だ。しかも、本来なら、貴族が王都を出るだけでも申請が必要なはずなのに彼女は問題なく王都を出たと、彼女につけていた影から報告があった。
どうも、あの気障野郎が手を回したらしい。彼女が手の届かない場所へ行ってしまうと絶望したことをよく覚えている。
イヴに頼られ、イヴの望みを叶えた、得意げな男の顔が目の前にちらついて、いやな気分になる。確かに、あの男は落ち着いていて、余裕があった。精神の安寧を保つのならば、考えなければいいのだろうが、思考はどうしてもイヴとあの男に戻る。
イヴはあの気障な男のことをどう思っているのだろうか――僕のことをどう思っていたのだろうか。あの男の瞳の色をした指輪を、どういうつもりでつけていたのだろうか。考えれば考えるほど苦しくなる。胸がどうしようもないほど痛む。
これ以上考えてもきっと答えは出ないだろう。大きく息を吸って静かに吐く、それだけで少し気分が落ち着いた。
あの気障な男は気に入らない。けれど、あの男には僕が迎えに行くまでイヴを守ってもらわなければならないのだ。エンデの口ぶりから言っても、あの男の様子から見ても恐らく抜け目はない人間だろう。それにあの男の態度から鑑みるに何かあれば喜んでイヴを守るに違いない。
そう思ったら安心するよりも先に殺意が湧いた。僕以外の男がイヴの傍にいるのは実に不愉快だ。何よりもイヴを守るのはいつだって僕でありたい。それに、女性は守られるのに弱いという。イヴを連れ去ったあの男がイヴを守るのは当然のことなのだが――当然のことをしているやつに、イヴが奴に惚れたらどうしてくれよう……。




