王太子は動き出す 1
まず、抑えるべき駒は三つ。アスランと元リザム子爵夫妻。彼女が最後まで気にかけていた三人。その三人を手に入れておけば、万一の時に使える。
アスランはもう僕の手中だ。彼は僕から離れられない。クラン家はまだ嵐の中にいる。禿鷹のように利権や金を狙う親族を抑えつつ、家を建て直すには個人の能力だけではどうにもならない。権力が必要だ。つまり、僕に阿るしかない。
リザム子爵夫妻――いや、今はトラン子爵夫妻と呼ぶべきか――も問題ない。子爵夫妻は、今はスライナト辺境伯領にいるけれど、彼らの庇護者は僕の味方になり、『イヴを僕へ差し出す』と言っていた。本心がどうかは知らないが、あの様子から裏切ることはないだろう。まぁ、裏切ったところで特に問題はない。ただ叩き潰せば良いだけだ。
次に僕がすべきことは…。
「ジェイド……」
執務室で書類をさばきながら考えていたら、書類に影が落ちた。この部屋の中にいたのは僕だけだったし、扉が開いた感じもしなかった。それならば、該当する人間は一人だけだ。そう思って顔を上げたら、案の定、サラが机の前に立っていた。俯いているから顔は良く見えなかったが、纏う雰囲気はどこか暗い。そういえば一昨日の裁判以降顔を合わせていなかったなと、ぼんやりと思った。しばらくサラの様子を伺っていたが、サラは俯いたまま、何も言わない。
サラが僕の執務室に来る時は何か用事がある時だ。いつもなら、早々に要件を切り出す彼女が何も言わないのはなんだか不自然だ。それでもしばらくはサラが話を切り出すのを待っていたが、サラが口を開く気配はない。さて、どう対処すべきか。謹慎していた分、仕事は山積みになっているし、することも考えることもまだたくさんある。いつまでもサラに構っている時間はない。
「どうした?何かあったのか?」
そう問いかけるも、サラは頭を振るだけで何も言わない。珍しい彼女の様子に首を傾げつつも、少しイライラする。無駄にしていい時間なんて今の僕にはない。
「ごめんなさい」
僕の問いかけにもしばらく黙っていたサラがぽつりと呟いたのはそんな一言だった。
「うん?何が?どうかしたのかい?」
サラが謝っている理由が、よくわからず、サラの顔をまじまじと見た。ようやく顔を上げたサラは僕の顔を見て顔色を青くする。そうして、あわあわと慌てたように手を目茶苦茶に振り回すと、机を飛び越して来た。そうして僕の隣に立つと、僕の頭を掴んで自らの硬い胸に押し付けた。優しさのかけらもない乱暴な手つきだ。
……色々と突っ込みたい。どうやったらドレスを着た状態で机を軽々と飛び越せるのか。しかもドレスの裾を机の上の書類をひっかけることすらしていない。さすがはサラ。知ってはいたが、まるきり野猿だと、つい感心してしまう。例え簡単に机を飛び越せる能力を持っていたとしてもドレスで実行する女性はサラだけだ。例えばイヴならばそんな能力を持っていても絶対にしないだろうと思うのだ。いや、イヴがこの部屋にいたなら仕事なんてしていなかっただろう。他にすべきことがある。
サラは僕を胸に抱いたまま、万力のような力で僕の頭を締め上げてきた。実に痛い。これは何の拷問なんだろう。
そして、押し付けられている胸も硬い。どうしてこんなに硬いのか、不思議に思う。こんな立場に生まれ、長いこと婚約者を決めていなかった僕は色々な女性に迫られた経験がある。色々な特徴を持った女性がいて、サラと同じような体型の女性もいた。けれど、どんな体型であろうと皆、これほど硬くははなかった。そりゃ大きいほうが柔らかかったが、小さくてもそれなりに柔らかかった。
つまり、これは胸筋だろうか?鍛えているな。
「サラ、硬くて痛いよ」
この体勢をどうにかしたくて、茶化すように言ったが、サラは離す素振りを見せない。いつものサラなら、こんなことを言ったら襲い掛かってくるのだが、今日のサラはなぜか大人しい。何か悪いものでも食べたのだろうか。その割には力強いが…。本気で痛いので早いところ、開放してほしい。
「サラ?」
「なんで?」
「『なんで』って何が?」
単語しか発さないサラに少し辟易する。幼いころからサラは自分の意思表示はしっかりしていたから、駆け引きのようなものをしたことはない。だから気を遣わずに済んでいたし、サラの隣は居心地が良かった。
それなのに、今、サラは『察しろ』とばかりに、何を思っているのか口にしない。常時ならまだしも、今の僕にはサラに気を遣う余裕はない。それなのにサラは僕の頭を抱えたまま黙ってしまって動こうとすらしない。
「悪いけど、サラ。急ぎの用事じゃないなら後にしてくれないか?」
「ねえ、少しは休んだほうがいいんじゃない?顔色が悪いし、何より少し変だよ、ジェイド」
「そうはいかないさ。しばらく謹慎していたから、仕事が山積みだ。それに変って何がだい?」
「だって…ジェイド、笑っているのに、笑ってないもの。今日だけでも良いから…」
「何が言いたいか、よく分からないよ、サラ。僕のどこがおかしいって言うんだい?きちんと栄養は取っているし、ベッドにも決められた時間に入っている。大丈夫、サラが心配するようなことはないよ。それに僕よりもサラの方が変だよ。いつも言いたいことは、はっきり言うだろう?今日はどうかしたのかい?」
サラの手をぽんぽんと叩くとようやく僕の頭を解放してくれた。サラから離れようとした時、頬に何かポツリと当たった。それが何か察した僕は、サラにハンカチを差し出した。サラはハンカチを受け取ることなく、いやいやするように首を振ると、泣き続けた。最近サラの泣き顔をよく見るなと思って、ようやく、サラが僕とイヴの婚約解消を気に病んでいることに気づいた。
どうしてサラが謝るのか、よくわからなかった。だってサラが謝ることなんて何もない。あの事件は僕の見通しが甘かったせいで起こってしまったことだから、サラには何の責任もない。
婚約に関してだって、僕とイヴの問題で、サラは関係ない。だからサラが泣く理由はないと思うのだが……。さてどうしたものか。慰めるべきなのだろうか?しかし、サラが何を気にしているのか分からないから何も言いようがない。はっきり言ってものすごく面倒だ。
「大丈夫かい?」そう言ってハンカチを再度サラに渡そうとしたが、やはりサラはハンカチを受け取ろうとしなかった。ますます面倒だ。そんな僕の気持に気づいたのか、サラは顔をごしごしと擦った。涙を拭う仕草すら色気がなくて、それが何よりもサラらしい。
「ごめん、困るよね。ねぇ、ジェイド、私でも何か役に立てることがあったら遠慮なく声をかけて」
そう言って僕を見上げたサラの顔は全体的に赤くなっていた。自分の顔ですら力任せに拭いたのだろう。
「ああ、何かあったら声をかけるよ」
サラの言葉に頷いたというのに、何が不満なのか、サラは顔を歪めた。また泣き出すのだろうか?思わずこぼれかけたため息を飲み込んだ。サラは信じられないものを見るような目で僕を見た。そうして僕の顔を見つめながら後退ると、震えながら口を開いた。
「ごめん、今日は帰る」
そう言うなり、サラは扉を力任せに開けると――ものすごい音がしたが扉は大丈夫だろうか?――部屋を飛び出していった。
いったい何をしに来たのかと思ったけれど、すぐにどうでもいいかと思った。サラには「気にしなくていい」と裁判の後に伝えている。いや、伝えてなかったか?まあ、どちらでも構わない。あの様子を見た感じ、サラは何かを気にしている。今更、僕がひと言ふた言、声をかけたところで、あの頑固なサラが耳を傾けることはないだろう。それならば、言っても言っていなくても同じことだ。
それにサラは強い。放っておいても適当に立ち直るはずだ。何よりも、今の僕にそんな余裕は無いし、サラのフォローは僕の仕事ではない。僕が気にかける女性はイヴだけで良い。




