令嬢と神官 6
冷水を浴びせられたかと思うほど、熱に浮かれていた頭が一気に現実に引き戻された。
そうだ、セオはサラのことが未だ好きなのだ。他の女性のことを考えられるはずがない。だから、同じくジェイドに失恋して他の男性のことを考えられないはずの私に婚約を申し込んだのだ。セオにとっても自分の気持ちを知っている私が偽装婚約の相手として一番都合が良かったから。
今思えば、セオは私のジェイドへの気持ちを知っていた。つまり、セオにとっても私は安全牌だったということだ。
確かに、こんなに素敵なセオだ。他の人に偽装婚約を申し込んでも、きっとその相手も私の様にセオが好きになってしまうに違いない。だからこそ、安易に誰にでも偽装婚約を申し込むことはできないだろう。
こんな事態になってようやく、私は自分の浅ましさに気づいた。
そう、いつの間にか私はセオに安らぎを覚えていた。いつも誰よりも大事にしてくれて、婚約者だって紹介してもらえて、もしかして本当にセオに好かれているんじゃないかって、勝手に期待していた。いや、別にセオと恋人同士になりたかったわけじゃないと思う。だって、私はセオに迷惑しかかけない存在だから。
今、落ち着いて考えたら、自意識過剰としか思えず、顔から火が出そうだ。
先ほど押し倒されて、確かに困ったし、どうして良いか分からなかったし、もう勘弁してとは思ったけれど、でも……ドキドキした。私なんかを好きになってくれたのかもと思うと本当は嬉しかった――もしかしたら彼に少しだけ、本当にちょっとだけ惹かれ始めていたのかもしれない。
でも、私のこの想いはまず間違いなく、彼にとって迷惑にしかならないだろう。だって彼に惹かれない数少ない人間だから、セオは私を契約相手に選んだのだから。
先ほど押し倒された時だって、セオは傷ついた様な瞳をしていた。きっと彼はあんなことをしたくなかったに違いない。恐らくセオは『もし、婚約解消したら、こんなことをされるぞ』と、私に忠告をしてくれただけなのだろう。自惚れてはいけない。だって、もし彼が本気だったのなら、あんなに簡単に止めなかったはずだ――多分。喪女の私には詳しくはわからないけれど、前世の知り合いがなんだかそんなことを言っていた気がする。
『殆どの男はヤることしか考えてないし、チャンスさえあれば誰とでも簡単にできる。自分は大丈夫だとか思ってたら痛い目にあうぞ。そんな事態に陥ったら、いくら懇願してもやめてもらえないからな』
なんでこんなこと思い出したんだろう。うん、前世の私には関係のない忠告だったけれど、今世の私にも関係のない忠告だ。全く役に立たない。もっと良いこと教えてくれれば良かったのに。美味しい豆腐料理のレシピとか。
何を思ってそんな忠告をしたのだろうか、未だによくわからない。まあ、奴とはもう二度と会うことはないだろうし、今更気にしても仕方がない。
取り留めのないことを考えていたら、段々と頭が冷えてきた。
今思えば、セオからは『特別』とか『君だけ』とか『側にいたい』とか、意味深なことを何度か言われたけれど、決定的なことは一言も言われたことがない。今だって、セオは私にキスのひとつもしてこなかった。
なんだったかな、『唇は好きな人の為にとっておくもの』。これも件の知り合いが言っていた。何だろう、私よりも奴の方が乙女度が高い様な気がする。
確かに奴はリア充だった。幼馴染だから実家ぐるみの付き合いがあったけれど、もしそうでなかったら縁のない人物だったと思う。面倒見が良い男で、今思えばそんなところはセオに少し似ているかもしれない。いや、セオの方が段違いで格好良いし、優しいけど。
前世のことを思い出すのは本当に久しぶりなのに、思い出したのが役にも立たない忠告だというのがおかしくなってきた。たまらず、ぷっと息が漏れた。逃避の一環かもしれないけれど、それでも笑えるというのは今の私にとって、きっと大切なことだろう。
しかし、そんな善行を積んでくれたというのに、私を慮って落ち込むなんてセオはどこまで善人なんだろうか。私は今まで『聖職者は清廉潔白』だなんて世迷言は信じてなかったけれど、セオだけは別かもしれない。
なんだか、急激に力が抜けた。私はベッドの端に座ったまま、思わずため息をついた。
『俺から離れるな』『君が行くなら俺も行く』なんて言われるのも困ったなとは思ったけど、本当はすごく嬉しかった。誰かに――ううん、セオに必要とされることは私の中の何かを確実に満たしてくれていた。
だから、このままの関係でいられたらって私は無意識に思っていたみたいだ。でもそれは私が得するだけで、セオにはマイナスにしかならない。
迷惑かけ通しなのに、私はセオに何も返せてないのに。それなのに、私は今まで通り、セオに大切にしてもらいたかったんだ。なんて、浅ましく、見苦しいのだろう。早めに気づけて良かった。こんな醜い自分をセオに知られたくなんかない。
考えれば考えるだけ、自分の醜悪さに眩暈がした。
醜悪だってわかっているのに、王宮神殿に戻ったら、セオがジェイドの様に私よりもサラを優先させることがきっとあると思うと、今から苦しくて仕方がない。
私よりもサラを優先するセオを見る日が、いつか、きっとやってくる。その時、私はきちんと弁えることができるだろうか?
あぁ、なんだか、サラが嫌いになりそうだ。ジェイドが、彼女の手を取った時ですらこんなことを思わなかったのに。今、サラを恨めしいと思うのは、彼女に奪われるのがジェイドに続いて二人目だからだろうか?それとも、彼女に手を伸ばそうとしているのがセオだからだろうか?それとも……もっと違う理由があるのか。
わからないけれど、それでも自分が情けなくて仕方がない。独り立ちしなくてはと、思いながらも一人で立てず、セオに依存していた。彼に何も与えてあげられないくせに、それどころか迷惑をかけるだけなのに、セオに大切にしてもらいたかったなんて、なんて醜いんだろう。
私は小さく頭を振った。悪いことばかり考えても仕方がない。自分の非に気づいたのなら、修正していけばいいのだ。
セオを本気で好きになる前に、私は自分の浅ましさと、彼に依存していることに気づけた。だから、男性が怖いとか、大事にして欲しいとか甘えたことを言っていないで自立しなければならない。
視線を感じて顔を上げると、セオが眉を下げて私を見つめていた。心配をさせてはいけないと思って私はセオに微笑みかけた。こんな時でも笑えるのは王妃教育のおかげだ。今後もきっと本心を隠すために役に立ってくれるだろう。こんな時なのに笑い出したくなった。
けれど、忘れてはいけないことが一つある。セオはどこまでも私に優しかった。セオが私のことをどう思っているかはわからないけれど、それでも彼の優しさに私はいつも救われていた。そう、今も。
私があの夜に縛られず、こうして笑えているのは間違いなくセオのおかげなのだ。そんなセオに私はとても感謝している、それだけは確かだ。
これ以上セオに迷惑をかけない道を選ばなくてはなるまい。セオは自分に好意を寄せる女性に辟易していると以前言っていた。私までそんな女性になるわけにはいかない。
本当にしっかりしなくてはいけない。初心に帰るべきだ。攻略対象者には必要以上に関わらない!このことをうっかり忘れかけていた。近づいてはいけないのだ――とは言ってもセオと距離を置くことは今は難しいだろう。
だから、今無理によそよそしくするのではなく――今そんなことをしたらセオだって気にするだろう――できるだけ早く彼に一人前と認めてもらえるように頑張ろう!
そもそも推しとは応援するもので、隣に立つなんて考えるべきではないのだ。
これ以上醜くなりたくないし、迷惑もかけたくない。だから、私は早く独り立ちをして、サラからも、ジェイドからも――セオからも離れた世界で暮らしていこう。
きっと私を必要としてくれる場所がどこかにある。そう思いたい。
けれど、私は初めてサラになりたかった、と思ってしまった。いや、サラにはサラの苦労があるんだろうけれど…それでも少しだけ彼女が羨ましくなった。
その夜、セオとは何と言って別れたかは、よく覚えていない。
翌朝、セオは何事もなかったような顔で、いつもの様に「おはよう」と爽やかに笑いかけてくれた。今日、どんな顔で顔を合わせれば良いか分からなかったから、セオがいつも通りで本当にほっとした。
セオが何もないように接してくれたおかげで、私も何事もなかったかのように微笑んで、一緒に朝食を取ることができた。昨日までと変わらない関係を続けられそうでほっとする。そう、これからもこの関係を続けて、出来るだけ早くセオから離れよう。
だから昨日までと同じ会話を続けることにした。
「今日は町に連れて行ってくれるんでしょう?」
私がそう聞くとセオは少し、渋い顔をした後に小さくため息をつくと笑った。
「そうだね、約束したからね。だけど絶対に俺から離れない様に。いいね?」
セオの言葉に少しだけ心が痛んだのは、きっと気のせいに違いない。
 




