令嬢と神官 4
セオは冷たい目をしたまま、私との距離を詰めてくる。常日頃、私に優しいセオがものすごい剣幕で詰め寄るものだから、驚いた私はセオが近づいた分だけ、後退りした。そうしたら、その分だけセオが近づいて来る。それを繰り返すうちに、とうとう私は壁際まで追い詰められてしまった。
セオはそのまま私を囲うようにして両手を壁につく――所謂壁ドン状態だ。
「シェリー?どうして婚約解消したい、なんて言い出したんだい?もう王太子殿下のところには戻れないってことは理解していると思っていたんだけれど…?他に何か問題でもあったのかい?言ってごらん?」
そう言いながら、セオの顔が近づいてくる。なぜここでジェイドが出てくるのだろう?サラのことを心配しているのだろうか?けれど、セオが自分でも言っているように、私とジェイドの道は既に分かたれている。もうジェイドと私が共に歩む未来はないから心配はいらいないと思うのだが…。そう言おうとしたけれど、セオの仄暗い瞳に圧倒されてしまう。
いつもの優しさも、おどけた雰囲気も、すっかり鳴りを潜めているセオに声が出せない。
『違う、セオが悪いわけじゃない、私が悪いの』
そう言いたいのに、セオの瞳が、醸し出す雰囲気がいつもと違いすぎて、まるでセオではないみたいで、どうして良いかわからない。
そもそも今回のことは、私が発端だ。私があの時ついて行かなければ良かったのだ。あの時、私は自分にもできることがあったことに浮かれていた。自分でも誰かを助けられることが、誰かに感謝されることが、どうしようもなく嬉しかった。それに私を嫌っていたはずのラリーサに頼られて、仲良くなれるかもしれないと打算的なことも考えてしまった。
今思えば、セオが来るまで待てばよかったのだ。
私が会った孤児院の子供たちは、セオが大好きだった。きっとセオの不利になることなんて今までしたことがなかっただろう。証拠に、セオだって、馬車の中で『俺の家族が君を害そうとするなんて思ってすらなかった』と言っていた。
セオを大事に思っている子供たちが、あんな事故を起こしたのは、きっと私が子供たちのお眼鏡にかなわなかったからだろう。
それは外見かもしれないし、性格かもしれない――なにせ私は人に嫌われる人間なのだ――。それとも、元貴族だったからかもしれない。私の身元は胡散臭い商人のラウゼルがリークしている。しかもひどい事故物件みたいなことを言われた――まあ、確かに貴族社会ではもう生きていけない瑕疵物件であることは間違いないが…。それでもあの言い方はひどいとしか思えない。
まあ、何が気に入らなかったのかはわからないけれど、彼らの目には、私はセオにとってマイナスにしかならないと映ったのではないだろうか。だから、排除しようとした。
大切な家族が自分を守るために罪に手を染めるのは辛い。もし、お義父様やお義母様が、私のためにならないからと、ジェイドを殺そうとして、その結果、裁かれることになったら、私はきっと耐えられない。
しかも、本当に愛し合う、本物の婚約者同士ならまだしも、セオと私はお互い、自分の尊厳を守るための偽りの婚約関係なのだ。
それにも関わらず、セオは今から自らの手で、家族を裁かなければならないかもしれないのだ。そのせいで、セオは眠れないほど辛いのだ。きっと、耐え難いはずだ。今回の犯人は、もうどうしようもないだろう――あの時私だけならまだしも、セオまで巻き込まれた以上、もう罪の所在を問わないわけにはいかない――。
しかし、彼らのお眼鏡にかなわなかった私がセオの婚約者と名乗っている限り、また同じ事故が何度でも起きるのではないだろうか。その度にセオの家族が減っていくなんて耐えられない。
それくらいなら彼らが納得する様な女性に婚約者役――もしくは奥様役――を頼んだ方が良いのではないだろうか。セオがその役を頼める人間は限られているけれど、恐らく神殿に望まぬ縁談を命じられるのが嫌な女性はきっといるだろう。セオの隣に誰かほかの女性が立つことを考えたら、何故か胸が痛んだけれど、それでも私に優しくしてくれるセオが私のせいで不幸になるよりも、ずっと良い。
婚約者がいなくなったら、神殿に誰かを宛がわれるかもしれない。それは身震いがするほど嫌だけど、それでもセオから大事なものを取り上げるよりもよっぽど良い。刻印が無いからばれない様な方法を考えなければならないし、私の蕁麻疹についても対処方法を考えないといけないだろうけれど、きっと何か方法はあるだろう。
そう考えて、セオに『私たちの婚約はなかったことにしない?』そう、提案したのだ。
だけど、どうやらそれは間違った選択だったかもしれない。その言葉はセオを追い詰めてしまった様で、私を見つめるセオの瞳はどこまでも暗い。
「ねぇ、答えて、シェリー。それを、俺が許すとでも思っている?
――今更、逃がすわけなんてないだろう?」
そう言ってセオは私の耳に息を吹きかけた後に、流れるような仕草で、私の首筋に顔を埋めた。セオの熱い吐息が首筋をくすぐる。思わず首をすくめた瞬間、首に何か柔らかく、温かいものが触れた。そして、その後にチリッとした痛みが走った。
ひぃえっ、思わず声が漏れてしまう。いやだ、待ってほしい。私は一昨日も、昨日もお風呂に入っていない。確か耳の後ろには臭腺があった気がする。つまり臭うのではないだろうか。本気でやめて欲しい。セオに臭いとか思われたら死ねる。真っ先に思い出したのは怖いでも恐ろしいでもなく、そんなことだった。多分ものすごく混乱しているのだと思う。
「シェリー?俺を裏切るつもりかい?」
再度、セオが私の耳元で囁いた。その声は冷たいのに、どこか熱が籠っていた。私が何を思っているのか、はっきり言わないと、何かが壊れてしまう気がした。ともかく、きちんと話さなければならないと、混乱する頭をなんとか回転させながら、私は口を開いた。
「違うの。私のせいで、セオが苦しむのは嫌なの…そもそも私とセオは、本当の婚約者じゃないわ。私みたいな人間じゃなくて……誰もが納得できるような人にお願いをした方がいいと思うの…」
私は思っていることをセオに伝えようとしたが、なぜか口がうまく動かない。頭では色々と考えているのに、いざ口にしようとしたら、まるで汲んだ水が手のひらから零れる様に、言葉がこぼれていき、うまく伝えられない。
セオはその秀麗な顔をますます歪ませて、身じろぎした私の右手の手首を掴むと逃がさないでも言わんばかりに壁に縫い留めた。
「本物じゃないって?どうして俺が君に、あんな取引を申し出たと思っているんだい?」
「だって…私とセオの、婚約は偽装だから…私じゃなくても良いんじゃないかしら?…って。
私は傷物だし…喜んで迎えるに足る人間だと思ってもらえなかったから……私のせいでセオは家族を疑わなくちゃいけないことになって…ひゃっ」
言葉の途中で何か温かくて湿ったものが首を這った。首のくすぐったさと背中が粟立つような感覚に思わず声がこぼれてしまう。
「ふふふ、可愛い声を出すね。ほら、シェリー、続けて」
「あ、や、だから、私のせいでセオに不幸になって…やっ、あの…欲しく、なくて…。私のせいでセオが大切なものを失くしてしまうのは嫌なの……ひう…だから、それくらいなら…いぁっ…ちょっと待って、セオ」
話している途中なのに、首筋で蠢くものは止まってくれなくて、背中の悪寒の様なものも、どんどん強くなって、私は更に混乱した。きちんと話せているのかも、わからない。それなのに、セオは止めてくれない。
「だから?俺のために何をしてくれるつもりなんだい?その身を差し出してくれるとでも?」
「あ…、うん、セオが不幸になるくらいなら、神殿の言うことを聞いて…」
そう言った瞬間、首筋にまたチリっとした痛みが走る。
「馬鹿なことを言わないでくれるかい?君が…以外の…男に」
セオが何を言ったかよく聞こえなくて、とにかく彼の顔が見たくて、身じろぎをした瞬間、セオが私を抱きかかえた。セオは私を抱えたまま、ベッドの方へ足を向け――そうして、セオは優しい手つきで私をベッドへと静かに降ろした。




