ヒロインの憂鬱 3
「サラスティーナ様、まさか情が移ったなどと愚かなことは仰らないでしょうね?」
唇を噛み締め続ける私にローナンが嘲る様に笑った。その顔を見て、何かがぷつんと切れた気がした。そもそも今日は、私にしては我慢した方だと思う。
もういい、とりあえず何発か殴ろう。話はそれからだ。私が拳を握った瞬間、声が響いた。
「ローナン。少し待ってちょうだいな」
私達二人以外誰もいないと思っていた私は驚いて身構えたが、その声はよく見知った人間のものだったので、力を抜いた。ローナンも驚いたのか、現れた女を目を丸くして見ていた。
「メラニー様、どうしててここに…」
「ふふふ、不出来な娘が気になって。親心というものかしら?」
神殿の入り口に立って妖しく笑っていたのは母だった。母は身体のラインがわかる、真っ赤なドレスを着ている。今から夜会に行くと言っても納得できる様な格好だった。寂れた神殿にはそぐわない格好のはずなのに、不思議と違和感はなかった。まるで夢の様だ、そう思った。
母は神殿に足を踏み入れる前に、ハーヴェーの神像に向かって頭を下げ、静かに手を合わせた。その姿はまるで敬虔な信者の様だった。暫く祈った後に母は頭を上げ、真っ直ぐにハーヴェーを見つめた。その目には、確かに信仰があった。何故人族の神に向かって母が祈るのか、不思議に思ったけれど母の姿は清らかで口を挟むことができなかった。
神像から私へと視線を移した母は先ほどまでの清廉さはどこにもなく、高級娼婦と言われても納得できそうな妖艶さを醸し出していた。母は蠱惑的な微笑みを浮かべると私達の方へ足をと向けた。母が動くと同時にふわりと妖しい香りが漂う。思わず母に目が惹きつけられてしまう。王宮では大人しやかで、淑女の鑑と言われる母だが、一族の集まりに出る時は今の様に婀娜っぽい。今も咲き誇る花の様に美しい。まるでリコリスの様な、危険だけれど、それでも人を惹きつける魅力に満ちている。
先ほどまで私を糾弾していたローナンの顔が赤く染まっている。ごくりと喉が鳴る音がした。
母は嫣然と笑うと、ローナンの手を両手で握った。ローナンはますます顔を赤らめると握られていない手で首の後ろを何度か摩った。そんなローナンを見て、母はくすりと笑った。
「サラには私が言い聞かせておくわ。だから、今日のところは……ね?」
そう言うと母はますます身体をローナンに寄せると首筋にふうっと息を吹きかけた。ローナンは熱に浮かされた様な顔でこくこくと何度も頷いた。
「じゃあ、サラ。帰りましょう」
そう言うと母は私の手首を掴むと引っ張った。それは先ほどローナンの手を握った時と違って力が篭っていた。焦っているのだと感じた。母に引っ張られながら、振り向いてローナンの様子を伺ったが、彼は先ほどと同じ場所で私達をぼんやりと見送っていた。
母は私の手を握ったまま家路を急いだ。動きやすい格好の私と違ってしっかりとドレスを着込んでいるのに、母は私よりも早くて、付いて行くのが精一杯だった。この女性、今まで猫を被っていたのだろうか?
母は屋敷に帰るまでずっと私の手を握ったままだった。出迎える使用人達に下がる様に言った母は一番奥まった部屋に入ると、ようやく握っていた私の手を離した。手首を見たら、握られていた部分が赤く染まっていた。どれだけ強い力で握っていたのか。私がため息をつくと、負けじと母もため息をついた。
そして私の顔を数秒見つめると、気を取り直した様に真っ赤な唇を笑みの形にすると口を開いた。
「相変わらず馬鹿な子ね、真っ向からぶつかってどうするのよ」
「お母様みたいな搦手は私には使えませんから」
「使えないじゃなくて、使わないでしょう?せっかく可愛く産んであげたんだから、 磨けばよかったのよ」
母は私の胸をペタペタ触りながら「この胸だって需要はあるのよ」そう言った。余計なお世話である。手をぺしりと叩いてやると、何故か母は楽しそうに声を出して笑った。この人ばかりは何を考えているのか十数年親子をしている私でもよく分からない。
王妃の側にいる母、一族の中の母、私の前の母、同一人物のはずなのに別人の様である。よく似た三姉妹だと言われた方がまだ納得できる。
「そんなことより、今日はどうなさったのです?」
「どうって?」
母は首を可愛らしく傾げ、ふふふと笑うと私に背を向けて部屋の中央にあるソファに座った。そして肘掛けに右肘を置くと手の甲に頬を寄せる。そうして座った母はまるで一枚の絵画の様だ。そんな余裕な態度に苛々しながらも母に問いかける。
「なぜ、今日あそこにいらしたのです?」
「きっと、揉めると思ったから。あなたは嘘がつけないもの。
でも私が助けてあげられるのは一度だけ。次は自分でどうにかしなきゃいけないわ」
そう答えながら足を組むと母は私の顔を面白そうに見つめる。この女性の狙いはなんだろう?今日まで母が私にこんなに干渉してくることはなかった。計画に従えと言ってくる一族の後ろに立っているだけで、どうしろともこうしろとも言わなかった。
ただ、ジェイドの元へ私を連れて行った。思えばこの人はいつもそうだ。私を舞台へ上げるだけで、その後は何もしない。ただ、面白そうに私を見ていた。
「一族を説得する材料を見つけるなり、王太子の婚約者に収まるなり、好きにしたら良いわ。アルロを巻き込むのも楽しいかもしれないわね」
「あなたは、私に何を望んでおいでですか?」
母はソファーに腰掛けたまま、不穏当な発言をする。何をどこまで知っているのだろうか。母を見つめるが、相変わらず得体の知れない微笑みを浮かべるだけで口を開こうとしない。母が何も言わないので、仕方なく質問を重ねる。
「何を、どこまでご存知なのです?」
「さあ?何も知らないわ。でも、そうね…王族が手強いことはよく知っているわ。
特に、今の王太子は恐ろしくて近寄ろうとは思えないわ。ブレイデンも馬鹿なことをしたものね」
「ブレイデン…?」
私がそう呟くと母はため息をついた。そして私の顔を見つめると珍しく微笑みを引っ込めた。真顔で私を見つめると呆れた様な声を出した。
「身体を鍛える前にあなたはすべきことがあったわね。
良いこと?人の名前と顔は覚えなさい、人心把握術の第一歩よ。その上でその人間が何を望んでいるのか、知りなさい。敵だらけの世界で生きていくのに、その辺りを疎かにするのは愚か者のすることよ」
「若干五歳にして敵の巣窟に放り込まれたのです。鍛えない馬鹿がいるなら、お目にかかりたいものですけれど?」
「別に鍛えるなとは言っていないわ。もう少し人にバレない様にできなかったのかしら、とは思うけれどね。だからご覧なさい、王太子のあなたに対する評価は山猿じゃないの。
もう少し上手く立ち回っていたら、もっと違う関係を築けたのじゃないかと思うのだけれど?」
母の言葉を私は鼻で笑った。私がジェイドに会って程なくして、彼は唯一を見つけた。もし、もっと早くに会っていてもジェイドはきっとエヴァちゃんを見つけていただろう。自分でも感じが悪い態度だというのに、母は怒る様子を見せなかった。それどころか先ほど消した微笑みを浮かべた。
「まぁ……、難しかったかもしれないわね。王族の伴侶を見つけるチカラは強力過ぎるから」
「それを…、それを知っていたのなら、どうして一族の計画に反対なさらなかったのですか!どうして、今更になって、難しいなんて!」
どこか憐れみを含んだ様な瞳を私に向ける母に私はとうとう我慢ができなくなって私は叫んだ。
幼い頃に犯した罪を償えと言わんばかりに私に強要してきた一族に、何故それを言ってくれなかったのか?勝手に過剰な期待をかける一族からどうして私を守ろうとしてくれなかったのか?
そう言おうとしたが、何の感情も乗っていない微笑みを浮かべる母の顔を見て抑えた。何故か、今のジェイドの微笑みと母の微笑みが重なって見えた。目の前の母が急に気持ち悪く思え、目を逸らした。




