ヒロインの憂鬱 1
「今はその時期ではない」
声が思ったよりも響いた。思わずビクリとした私とは違って、目の前の男は動じない。ここには、目の前の男と私の二人しかおらず、黙って頭を下げたたままの男は何も言わないので、ただただ静寂だけがこの場を支配する。
何も反応しない男に向かってため息をつく。息を吐いただけだというのに、やはり音が響く。ここにいるのが二人だけだからなのか、今が夜だからなのかは、わからない。もしかしたらここが荒れ果てた神殿だからかもしれない。
王宮神殿に参拝客を取られてしまって、訪れる者もいなければ、常駐する神官もいない、華やかな王都の中枢から少し外れた場所にある小さな神殿。そこが私の今いる場所だ。人の目がないこの神殿は私達が情報を交換するのに適している為、専らここを使用している。ここを訪れるのは初めてではないはずなのに、今日は何故かとても寒々しく感じて、二の腕をさする。「大丈夫か?」そう声をかけてくれる存在は今は隣りにいない。なぜか弱気になっている自分が情けなく感じてしまう。頼れるのは自分だけなのだ、しっかりしなければと思うのに、どうにも心細くて仕方がない。
再度小さく息を吐き、男に背を向け、窓の外を見る。今日は月が明るいおかげで、外の様子がよく見えた。月に照らされた中庭には草が茂っており、ますますもの悲しい雰囲気を醸し出している。
打ち捨てられた神殿はどこまでも静かだが、どこか寂しい。訪れる人間は誰もいないというのにハーヴェー神の石像だけがいつもここを見守っている。
「用件はそれだけか。ならば、もう話すことはない。時が来るまで待て」
身動きしない男に辟易し、再度そう告げると目の前で傅いていた男の肩が揺れる。私の不興を買ったことが厭わしいのではなく、私の意見に苛立っていることは男の仕草でよくわかった。昔から、わかりやすい男なのだ。男は下げていた顔を上げて強い口調で私に意見してきた。
「サラスティーナ様、お言葉ですが、時とはいつですか?貴女の考えは間違っておいでです。時は今です、今しかあり得ません。王妃が失脚してしまわないうちに王太子の婚約者にならなければ…」
「私に同じことを言わせるつもりか、ローナン」
「貴女が不快に思っていることは承知の上です。けれど、これは私個人の意見ではありません……一族の総意です」
舌打ちしたくなるのをぐっと抑える。男ーーローナンは押し黙った私を見上げ、にやりと笑った。私を蔑んだ様に笑う顔に苛立つ。
「貴女が今の地位にいるのは、その力ゆえでしょう?ならば役割を果たしていただかないと困ります」
痛いところをつかれた。ローナンを睨みながら、どう説得しようかと考えるが、良い考えは思いつかない。元々私はあまり頭を使うことは得意ではない。どこぞの腹黒ならば上手く言いふくめられるのだろうが、これは私がなすべき事なので彼に頼るつもりはない。それに、今の彼にはそんな余裕はないだろう。
考え続けたけれど、やはり何も思いつかない。仕方がないので、力尽くで納得させてやろうかと拳を握った。そんな私の気配に気づいたのか、ローナンは顔を上げると私の顔と握った拳を交互に見た後に、余裕ぶった口調で話し始めた。
「一族の総意に反する……それがクラフト伯爵家の意思と見做しますが、よろしいか?」
このまま男の口を封じてやろうか…そう思ったが、目の前の男一人処分したところで、何も変わらない。すぐ次がやってくる。ならば下手に手を出さないほうがいいだろう。
睨み続ける私をローナンはニヤニヤしながら観察している。頭を冷やすために深く息を吐いて握っていた拳の力を抜いた。
「王太子の一番近くにいる私が、今ではないと言っているのだ。皆にもそう伝えて欲しい」
「ならばこそ、今が一番の好機であることは貴女が一番お分かりでしょう。お母上の苦労を水泡に帰すおつもりか?
……何故我々が権力の近くで生きているか、お忘れではないでしょう?」
何もわかっていないくせに、わかった様な口をきく男に苛立ちが募る。王宮で暮らし続けること、彼らの隣で笑い続けることがどれだけ苦しい事なのか、お前にわかるか、そう問いかけたくなったが、なんとか堪えた。どうせ言っても無駄だ。
私達の一族は代々王家に取り入って生きてきた。人里を離れてこっそり生きるよりも権力者の陰に隠れて生きていく方が生存率が高いと判断したからだ。地位や権力は身を守る盾として十二分に機能した。ほとんどの人間は高い地位にある私達を疑うことはなかったし、万一疑われても簡単に握りつぶせた。
それに、人族とは身近にいる人間に親愛の情を抱くという面白い習性がある。側にいればいるほど、その人間を疑うということは無くなっていく。その習性に助けられたからこそ、私達はまだ存在しているのかもしれない。
馬鹿な性質だと笑いたくなるが、長じてからの私は彼らの気持ちがわかる様になってしまっている。
権力に阿って生きてきた私達一族の何家かは爵位を持っている。クラフト伯爵家はそうして隠れて生きる魔族の家系だ。魔族の中では、クラフト家が人族の世界で一番高い爵位を得ている。だからこそ存続させていかなければならないのに、我が家には母しか生まれなかった。この国では女性が家を継ぐことはできない。そのため、婿を取る必要があったが、爵位を持っている一族の中に母と釣り合う年頃の男性がいなかった。
婿入りしてきた、書類上での父とされる男性は、魔族ではなく、人族だった。とある落ちぶれた子爵家の三男だった。私が幼い頃に亡くなったので、よくは覚えていないが、病弱で線が細く、優しい人だった様に思う。実父が誰かはわからない。
私達は緩やかに滅びへ向かっている種だ。子供ができる確率も、無事に生まれてくる確率も少ない。だから、成人した者は色々な異性と関係を持つ。もちろん母も例外ではない。要するに亡父は托卵されたということだ。それを亡父が気づいていたか否か今となってはわからない。父と母がどの様な関係を築いていたか、知らない私がどうこう言うことではないだろう。できれば、気づいていなければいいとは思うが、それはきっと私の感傷でしかない。
母は人間の世界では高い地位にいたが、魔族の世界では大した地位ではない。はっきり言って下から数えた方が早いくらいだ。魔族の地位は人の世界と違い、純粋な力の強さで決まる。母は人に取り入るのはうまいけれど、力の強い魔族ではなかった。
そんな母から生まれたのにも関わらず、私は魔族の中でも五本の指に入るほど強い。けれど、魔族の世界では未成年だ。未成年の子供の地位は母親の地位に準拠する。魔族の成年は二十歳で、ようやく十六になったばかりの私から見ればまだ遠い。
だから、本来なら私の地位は低いはずだった。それなのに、こうして高い地位に祭り上げられているのは、私が魅了の力を持っているからだ。一族の悲願を叶える為の駒となりうる、長にそう判断された私と母の地位は上がった。珍しく、子供の力によって親の地位が上がった例だ。今の私の地位は将来私が手に入れるはずの地位だーーそう、将来。つまり、私が今この地位を維持する為には一族の総意を無視するわけにはいかない。
そして、一族の動きを抑える為には、この地位は維持しなければならない。というよりも、一族の総意に反することをした場合、数少ない同胞とはいえ、粛清されかねない。腕っぷしの強さには自信がある私だが、一族全てを相手取って勝てる自信はない。
人族の魔力に敏感な一族の中には、私が感じている様に、ジェイドを危険視している者は少なくない。彼の力はそれほど異常だ。だからこそ、一族はジェイドを抑えておきたいと思っていて、私に彼を魅了しろとせっついているのだろう。
けれども、ことはそう簡単ではない。私は確かに魅了の力を持っているが、この力は皆が思うほど便利な力ではない。そのことはよく知っているだろうに……。




