王太子の前で影は歌う 1
「ごきげんよう、殿下。今日はお暇を告げに参りました」
そう言って恭しく頭を下げる彼は、クラン家の直属の影の長だった。いつも黒い装束に仮面をしているので、彼の容姿はよくわからない。声から年配の男性だと想像がつくくらいだった。そう言えば僕はずっと彼を「長」と呼んでいたので、名前を知らなかったなと、ふと思う。
「君までいなくなってしまうのか…」
ぽつりと出てしまった言葉が思ったより大きかった様で、僕の情けない言葉が部屋に響いてしまい、ぎくりとする。
「ほっほ、この翁を惜しんでくださいますか、光栄なことですな」
「それは当然だろう、君達には色々と世話になった。何より僕の部屋までこうやって来てくれた君の忠義心と能力を見るだに惜しいとしか思えないよ」
「惜しいとは勿体ないお言葉ですな。
この部屋までならばルートは確立しております。さすがに王宮内をあちらこちらに行くことはできかねますが…。我々も殿下にはたいへんお世話になりました。殿下に対してこの仮面を外す日が来るかもしれないと考えたことがありました。しかし、正当なお血筋の若君がお戻りになられた今、殿下にお仕えすることはできかねますので、この度お暇を告げに参りました。
若君と殿下は同じ道を歩くでしょうが、最後の一線で袂を分つ可能性がありますからな」
「最後の一線かい?僕とアスランが対立することなんて今やないと思うけどね」
「ほぅ、殿下は姫様のことを諦めておいでなんですかな?」
長の揶揄うような声音と言葉にカチンときて思わず声を荒げた。
「諦めたくないさ!けれどもうどうしようもないだろう?イヴは僕の手の届かないところに行ってしまったのに、何を今更どうすれば…!」
「ほっほ、殿下は随分とお行儀よく育てられてしまった様ですなぁ。この私の知る王族の人間とは思えないほどの常識家であられる」
「どういう意味だ…?何か手があるというのか?!」
長はふむ、と手を顎に当てて考えるような仕草をした。そして少ししてからふふふ、と笑い出した。その笑い声はなんとも言えない響きを纏っており、目の前にいるものが本当に今まで接してきた人間なのかと思った。それほどその時の長は不気味だった。
「ふむ、本来ならばこれは若君のためには、言ってはいけないことでしょうが…良いでしょう。
しばしの間主君であった殿下に最後のお仕えをいたしましょう」
長は何かを決めたようにそう言って僕の方を向いた。彼の顔は仮面に隠されているが、それでもきっと笑っているのだろうと思った。
「まず、殿下。なぜそんなに自信を失っておいでなのですかな?私が今までお仕えしていた時は自信に満ち溢れておいでではありませんでしたか」
「僕に何ができると言うんだい?誰よりも守らなきゃならない大事な女性を守れなかった愚かな男だっていうのに」
「なるほど、へこんでらっしゃる様ですな。けれど一度や二度の失敗がなんです、貴方は王太子ーーつまり次の国王ではないですか」
「その一度の失敗が致命傷だったんだ」
「何をおかしなことを。殿下も姫様も生きておいでではないですか」
長が何を言ったのか一瞬わからなかった。けれどその後に少しだけだが、身体に力が入った。そうだ、僕もイヴも生きている。真っ暗闇の中に少しだけ光が差した気がした。
「よいですか、殿下。失敗したならばその理由を突き詰めて考えて、次は失敗しない様にすれば良いのです。殿下は何が悪かったとお思いですか?」
「イヴを守りきれなかったことだ」
「いえ、そうではありませぬ。姫様を守りきれなかった、それは結果に過ぎませぬぞ。
貴方の失敗は自分を過信しすぎて、様々な事態に自分の戦力を顧みず、手広く対応しようとしたことです。結果、姫様を守りきれなかったのです」
長の言葉に僕は口を挟めず、黙って耳を傾ける。なるほど、どうやら僕の思考は停止している様だ。
「良いですかな、殿下。貴方は確かに王都の裏社会を把握しているかもしれませぬ。それは大きな力ですし、何かとお役に立つでしょう。
けれど、彼らは王宮の中では役に立ちませぬ。貴族には貴族のルールやものの見方があるのです。今回のことでよくお分かりでしょう?
貴方は王宮の中でも動ける人間ーー貴族に対しての力がありませぬ。今の状態ならば、今回のような策を弄してはなりませぬ。姫様の側から離れずに、サトゥナーやイリアに襲われる被害者など放っておけば良かったのです」
淡々と話す長の言葉に驚く。襲われる令嬢がいるのに見捨てるという考えは僕には無かった。
「いや、けれど…誰か被害者が出るのに、見て見ぬふりはいけないだろう?王族として国民を守るのは義務だ。見て見ぬふりをするなど、父と何も変わらなくなってしまう」
「殿下、王とは神ではありませぬ。全ての人間を救うことなんて人の身ではできませぬぞ。何を救い、何を捨てるかを取捨選択せねばなりませぬ。現に全てを救おうとして今回失敗しているではありませぬか。
確かに国王とはできるだけ多くの民を救わねばなりませぬ。けれど何が一番大切かを見誤ると今回の様な事態になるのです。貴方が玉座に座るのであれば、なおのこと覚えておかなければなりませぬ。
…陛下へのくだらない敵愾心などで動くのは愚かの極みです」
長の言葉に背中に汗が滲む。先ほどから言われることは全て心当たりがあった。確かに言われる通りだった。
そして言われて初めて父に対する敵愾心があったことに気づいた。母の顔色ばかり見てちっとも僕に気遣ってくれない父に苛々していた。だから、見返そうと僕は思っていた。僕の方が国王に相応しいと父にも周りにも知らしめたいと思っていたのだ。
「若君のクラン家の実権奪取にしても、今回でなくてよかったでしょう。あの愚か者どもならばすぐ次の夜会でも懲りずに馬鹿な真似をしでかしたでしょう。貴方が目につく全ての人間を救いたいと、下手な正義感を振り翳したから、今の状況があるのです」
あぁ、と僕はうめく様に答えた。
「時間があまりありませぬので、言葉を飾ることはできかねますが、まだ続けてよろしいですかな?」
長はこちらを気遣う様に声をかけてくれたが、やはりその仮面の下は笑っているのだろうと思えた。
もう聞きたくない気もしたが、けれど長はイヴを取り戻す算段があると言っていたのだ。それならば何があっても聞きたい。そしてイヴを取り戻せた時、もう二度と失敗しない様に僕は手を尽くさねばならないのだ。
耳に痛い言葉が続くが、それは全て僕の罪だ。僕は自分が何をどうして間違えたのかすらはっきりと理解していなかった。だから、僕の間違いを丁寧に指摘してくれる長の言葉は僕に必要なものだと思い、僕は長の言葉に頷いた。




