王太子は苦悩する 2
いや、そんなことはないだろう。だって僕ですら、イヴに気づけなかったのだ。
確かに今思えば、部屋に入った時に甘い香りがした。けれど床にワインが溢れてその匂いが充満していたから、その匂いだろうと判断してしまったのだ。だから、その甘い匂いがイヴのものだと思わなかった。あの叫んだ声に関しても気づかなかった。何が『どんな時でも君を守る』だ、自分の愚かさに腹が立って仕方がない。あの時イヴはどんな気持ちだったのだろうか?
けれど一度サラの行動を疑ってかかれば違和感がつきまとう。あの野生の申し子みたいなサラが暗がりとはいえ、なぜ割れたワイングラスを踏んで怪我をしたのだろうか?
それに僕の計画ミスでイヴが酷い目に遭ったのなら、サラの性格上、僕に憎まれ口を叩くはずだろう?なのにあの事件の後、彼女は真っ青でずっと黙って僕のそばにいた…。あり得ないだろう?じわりと背中に冷たい汗が滲む。
色々と思い悩む僕にイヴが視線を向ける。こんなことを考えている場合ではない。婚約解消されたとしてもイヴに嫌われたままでいたくない。僕は君以外と結婚する気はないから、考え直して欲しいと、婚約解消したくないと伝えたい。それなのに言葉が喉に引っかかった様に出てこない。
今日会ってから初めて、イヴは真っ直ぐ僕を見た。正直情けない顔をしているだろう。見ないで欲しい、けれど視線を逸らさないで欲しい。そんな矛盾した思いを抱えながらも、僕はイヴの側に立ち尽くすことしかできなかった。
誰の元へも行かないでくれ、僕のそばにいてくれ、と言いたかったのにまだ言葉が出て来ない。イヴは僕を見てくれているのに、僕は目すら合わせられない。
イヴ、頼むから別れを口に出さないでくれ、さよならなんて聞きたくない。耳を塞ぎたいと思うが、彼女の声を一言も聞き漏らしたくない。先ほどからずっと僕は自分が何をしたいのか、どうすれば良いのかが全くわからない。
ずっと僕は優れた人間だと、思っていた。間違いなど犯さず、望むことは全て叶える、そうできる実力があるとずっと思っていた。
だからイヴが逃げたらどこまでも追いかけるし、一緒に逃げた男がいるなら相手を殺してやると本気で思っていた。だって僕は誰よりイヴを愛しているし、誰よりイヴにふさわしい人間だと思っていたから。誰よりも幸せにできると本気で思っていたし、その自信もあった。
けれど、今の僕に本当にその権利があるのだろうか?イヴを傷つけるだけ傷つけて、側にもいなかった。今、目すら合わせられない僕が、本当に彼女を誰よりも幸せにできるというのだろうか?わからない…。けれど、それでも、どうしてもイヴを諦められない。諦めたくない、それだけは確かだった。ならばイヴにお願いしなければならないのに、何を言えば良いのか考えがまとまらない。
そんな僕にイヴは深く深くカーテシーをすると、一言も口にすることなく踵を返した。そして一度も僕を振り返ることなく、真っ直ぐと出口へ向かった。その先にはあの男が立っていた。気が狂いそうだった。誰にも渡したくない。渡したくないのに、僕は動くことができなかった。
よほど酷い顔色をしていたのか、サラが僕に駆け寄ってくるなり、僕の背中をさすってくれた。
「ジェイド、大丈夫?ごめん、こんなことになるなんて。ごめんなさい、本当にごめんなさい」
サラには珍しくその声は震えていた。あの負けず嫌いなサラが人前で泣いている。それに気づいた時に、僕は自分がサラを責めようとしていたことに気づいた。自分が恥ずかしくて恥ずかしくて仕方がなかった。サラが僕に謝る必要なんて何もない。
そうだ、もしあの時襲われたのがイヴだと気づいていたとしても、僕にそれを告げないでいるメリットがサラにはない。それに、例え万一サラがあの時にイヴに気づいていたとして、僕に告げる必要性なんてない。
あの時、もう少し僕が色々と考えて、その上で気付けばよかったのだ。
「急いで戻らなければ」と思いながらもサラを神殿に運ぶと決めたのは、他の誰でもない僕だ。誰も責められない。
サラの怪我を放置なんてできなかった。僕と一緒に行動した時にサラに傷跡が残ってしまったら、これ幸いと母上が責任を取るように迫ってくることは目に見えている。それにサラは僕にとってイヴとは違った意味で特別な存在なのだ。僕の側に最後まで残ってくれたのはサラだけだった。今回もきっとそうなるだろう。
あの夜サラの治療を担当してくれたのはバーバラ・ハルト殿だった。揶揄われながら施術したせいか、もしくは彼女の力量のせいか、思ったよりも時間がかかった。
サラの治療後に急いで夜会に戻ってイヴを探したが、彼女は所用があって帰ったと告げられた。やはり今回サラと何回も踊ったことで怒っているのだろうか?明日には謝りに行かなきゃな、とか軽く思っていた、当時の自分をぶん殴りたい。
けれど実はその時は『サラと踊ることでイヴが少しヤキモチを焼いてくれたのではないか』と思って少し嬉しかったのだ。今考えるとどうしようもない愚か者だ。
ようやく取り戻したイヴを何故また手放さなくてはならなくなったのか、それは僕が愚かだったせいだ。目の前が真っ暗になる。どこへ気持ちを持っていけばいいのだろうか、わからない。気持ち悪い、ここから逃げたい、吐きたい、……けれど僕の居場所は王宮にしかないのだ。




