王太子は苦悩する 1
目の前の書類に手が震えた。書きたくない、これを書いてしまうとイヴを手放さないといけなくなる。どうしたら回避できるのか、全く思い浮かばない。インク瓶を倒して書類を台無しにしたらこの場は逃れられるだろうか?いや、すぐに新しい書類が用意されるだろう。父上の隣で母上が嬉しそうにほくそ笑んでいるのが見えた。きっと母上の予定通りなのだろう。
どうしたらいいのだろう。もう無理なのだろうか?もう二度とイヴを手放したくないのに…。胸が痛い。イヴが婚約解消を願うなんて、嫌われてしまったのだろうか?彼女がいない人生なんてもう考えられない。
それなのにこの書類を書いてしまえばそんな未来が待っているのだ。書きたくない、書きたくないが、もう僕に選択肢はない。僕はまだ王太子でしかない。だから、父上の命令には従わなければならない。
今この時に天変地異が起きないだろうか?何か急使が来ないだろうか?そう思いながら震える手で時間を稼ぐ様にゆっくりと書類を記入する。残念なことに救いの手が差し伸べられることはなかった。
イヴは僕の手に視線をずっと向けており、目も合わせてくれない。僕が渋々と書いた書類がイヴの前に差し出される。イヴは書類を一瞥すると、素早く書類に署名した。その右手の薬指には僕の色ではない――あの夜からずっとイヴを支えている男、セオドア・ハルトの瞳の色の――石がはまった指輪をしていた。
なぜ、そんな指輪をしているのだろうか、今すぐその指輪を抜き取って踏み潰してやりたい。絶対にあの指輪はあの男が与えたに違いない。あの男にイヴを取られる、なぜこうなったのか、悪夢を見ているとしか考えられない。デビュタントでイヴをエスコートしたのはつい先日だ。彼女の柔らかな肢体の感触はまだ手に残っていると言うのに…。
彼女が署名した書類を文官が父上に渡すと、父上もイヴと同様になんの躊躇もなく署名をすると高らかに宣言した。
「これで王太子とエヴァンジェリン・クラン・デリア・ノースウェル・リザム嬢の婚約を解消したものとする。」
イヴが僕の運命の相手だとわかっているはずなのに、父上は一切僕に配慮しないのかと思うと悔しくて力のない自分が憎らしくてどうしようもなかった。母上がわからないのは仕方がないが、父上はこの餓える様な感情をわかっているはずなのに…。
父上の宣言にイヴはほっとした様に笑ったのが見えて胸が更に痛んだ。
間違えた、失敗した。それは何より自分がわかっている。どこで間違えたのだろうか?どこまで遡れば今の状況を覆せるのだろうか?
先程イリアに失言をした時か?サトゥナーを私情で殺そうとした時か?そのせいで傷ついたイヴに寄り添えなかった時か?
サトゥナーとイリアのことを捕まえようとした時か?サラと一緒に何曲も踊った時か?イヴを一人にしてしまった時か?
それとも幼い時に婚約者筆頭候補で満足したことか?ルアードやグラムハルトにイヴを紹介してしまった時か?
きっと全てが間違いだったのだろう…。
こんなことを考えても時間は巻き戻せないのに、考えたって仕方がないのに、それでも考えずにはいられなかった。頭の中はぐちゃぐちゃだった。そしてここまで考えてはっと気づいた。
あの時――サラや騎士たちと共に部屋に踏み込んだ時、被害者がイヴだと僕は気づいていなかった。
けれど、サラは気づいていたのではないだろうか?
「来ないで!」と声がした時、愚かにも僕はイヴに気づかなかった。
被害者はトゥーリー子爵令嬢だと思い込んでいたからということもあるが、僕は焦っていたのだ。ともかく急いで夜会に戻ることしか考えてなかった。
サトゥナーを捕まえたら騎士に任せて、すぐに夜会に戻るつもりだった。早くイヴに謝りたかったし、何よりラストダンスをイヴと踊りたかった。思ったよりも奴らが動くのが遅くて、ラストダンスの時間が迫っていたのだ。
だから、あの切羽詰まった声がした時僕は何かトラブルが起こったのだろうかとイラッとしたのだ。トゥーリー子爵令嬢の腕っ節についてはサラが太鼓判を推していたが、やはり女性だ。何か事故があったのか、心配しなければならないのに、イヴのところに戻るのが遅れると思って頭に来ていた。正直僕は冷静ではなかった。
けれど、サラは冷静だったのではないだろうか?
サラはトゥーリー子爵令嬢本人を知っているから、声も気配も知っている。それにイヴの魔力量の多さだって知っている――僕とイヴの魔力量の多さは尋常ではない――のだから、サラはあの時、襲われたのがイヴだと気づいていたのではないだろうか?