第251話 『 伊墨甲平 』
……目の前には黒い海が広がっていた。
「……」
雨は勢いを無くし、今では海面に小さな波紋を作る程度であった。
「……ちょっと冷たいけど我慢してくれな、姫」
俺は背負っていた姫を前で抱き抱え、海面に両足を沈める。
「懐かしいな。海水浴、楽しかったよな」
まだ王宮に来たばかりの頃に皆で遊んだ海だった。あの時は晴れていて青く澄んでいた海も、この天気では黒く濁っているように見えた。
「……ははっ、ほんの数ヶ月前のことなのにすっげぇ昔のことみてェだな」
あの頃は本当に楽しくて、毎日がお祭り騒ぎで、あまりに幸福に満ち足りていた。
「……楽しかったよな、ほんとに」
もうあの頃には戻れない。
時計の針を無理矢理戻しても、太陽が西から東へ向かうことはない。
今は何もかもが変わり過ぎていて、やり直しようがない程に崩壊していた。
「……ずっと続くと思ってた……ずっと楽しいままだと思ってたんだ」
俺は前へ進む。
前へ進む度に水面が這うように身体を呑み込んでいく。
「…………もし、来世があるんなら」
らしくもなく、俺は神様に祈りを捧げる。
「また、姫の忍になりたいな……そして、今度こそは」
信じてはいない偶像の存在に俺はすがる。来世なんて鼻で笑っていたのに今はただ願うばかりであった。
君を、
最後まで護り抜きたい。
「……」
……馬鹿だな、俺。
何が「来世」だ。
何が「今度こそは」だ。
……そうじゃない、そうじゃないんだ。
「……俺が護りたかった姫は、ここにしかいなかったのにっ」
それを護れなかった。
その事実を「来世」とか「今度こそは」とか綺麗な言葉で誤魔化すなよ。
「護れなくてごめんな、だけど独りにはしねェからよ」
既に水位は喉元まで迫っていて、姫の体はとっくに海に浸っていた。
「寂しくなんてさせねェから――……」
俺は小太刀を抜き――静かに心臓を貫いた。
「 大好きだ。ずっと一緒にいよう 」
血液が波に乗って流れては黒い海水に溶けていく。
大きな波が俺と姫を呑み込む。
「……」
海流に揉まれながらも俺は姫を抱き締め続けた。
〝九尾〟の力は無理矢理抑え込んで再生しないようにした。
ずっと一緒にいよう。
死が二人を別つとも。
ずっと、ずっと。
何万年でも、何光年でも、この惑星が滅んでも……。
「……」
……意識が遠退く。
「……」
……死が近づく。
「……」
……浮遊感。沈んでいるのに、不思議と浮いているんじゃないかと思えた。
「……」
……真っ暗だ。海が黒いのか、はたまた目を瞑っているのか、最早確認する気力もなかった。
「……」
嗚呼――……。
「……」
これが、
終わる、ってことか……。
……………………。
…………。
……。
――白く清浄な世界が広がっていた。
「……世界で一番綺麗だな」
ただ白いだけなのに、白しかなかったのに不思議とそんな感想を呟いてしまう。
「……………………姫?」
真っ白な世界には姫がいた。俺と姫しかいなかった。
「……良かった、また会えてっ」
きっと、ここはあの世だ。
あの世でも姫とまた会えたことが嬉しくて仕方がなかった。
「…………姫?」
どうしたんだよ、姫。
どうして何も言ってくれない、どうしてそんな悲しそうな顔をしているんだよ。
「何だよ、折角会えたのに。少しぐらい土産話を聞いてくれてもいいだろ」
「……」
姫は何も言わずに首を横に振る。
「何でだ
――姫が俺に歩み寄り、物も言わずに抱き締めた。
「…………姫?」
何故、何も話してくれないのか。
何故、姫の体温を感じないのか。
俺にはよくわからなかった。しかし、なんとなくわかることもあった。
「……………………俺、まだ生きてんの?」
――ぎゅっ、と姫が俺を抱き締める力を強くした。
……正解、ということなのか?
姫は死んでいて、俺はまだ生きている。死者と生者は同じ場所には居られない……各々の居場所があるということなのかもしれない。
「……嫌だよっ……俺、姫と一緒がいいよっ」
姫のいないこの世界に未練なんてない。
生きる理由も、生きる意思もなかった。
「ずっと一緒にいようっ……また一緒に遊ぼうっ、他に何も要らないからっ、姫がいてくれたらそれだけでいいんだっ」
「……」
姫は何も答えてくれない。もしかして、声を出せないのかもしれない。
「大好きだっ、ずっと前からっ、誰よりもっ――姫が大好きだっ……!」
涙が止まらない。
感情に押し出されて、涙がこぼれ落ちる。
「明日なんて要らないっ、命も要らないっ、姫のいない世界なんて要らないんだっ……!」
俺は姫の華奢な身体を抱き締める。
温もりはない、影もない、心臓の鼓動も感じない。
――だけど、命はあった。
……この胸の中にある欠け代えのない大切なもの、それが命だった。
離したくない。
絶対に離さない。
――しかし、終わりは必ず訪れる。
……俺の腕が姫の身体をすり抜けた。
「……あっ」
命が消えるのか?
何処に行くのであろう?
「姫っ、行くなっ! 行かないでくれっ……!」
――拒否。
姫は悲しそうな顔で首を横に振った。
「ずっと一緒にいてくれよっ、離れ離れなんて嫌だよっ……!」
――ピシッ……。白い地面に亀裂が走る。
「……」
姫は悲しそうな顔で俺の顔を見つめる。
世界は崩壊へ向かっていく。
「――姫
姫がゆっくりと口を開いた。
あ
り
が
と
う
……声なんて聞こえない。
……だけど、確かにそう言っていたんだ。
「……」
……姫が笑った。
本当に綺麗だった。
世界で一番綺麗だった。
――そして、世界が崩壊した。
俺の身体は、白い欠片とともに落ちていく。
何処へ向かうのかはわからない。きっと、姫からとても離れた場所であろう。
「……姫っ」
俺は見下ろす姫へ手を伸ばす。しかし、ただただ遠退くばかりであった。
「姫っ!」
どんなにもがいても俺は落ちていき、姫の姿は小さくなっていった。
「姫っ……!」
……ここは何処だ?
姫は?
俺はどうなった?
……目を開ける。
「……」
鼠色の空、雲の裂け目から神々しい光が射し込む。
「……何だよ……これ」
伸ばした手のひらの先には太陽がこちらを覗いている。
「……海? 砂浜?」
俺の身体は服ごとずぶ濡れで、濡れた手足には砂が貼り付いている。
波の音が聴こえ、潮の匂いがする……俺の身体は波打ち際に打ち上げられていた。
「……………………ああ、そうか」
小太刀は胸から抜け落ち、その傷も既に塞がっていた。
俺の空いた手には、赤を基調とした金糸の編み込まれた髪紐が握られていた。
「……俺……また生き残ったんだ」
生きる理由は無い。
生きる意思も無い。
……それでも、俺はまだ生きていた。