第6話 小百合エッセンス
お腹が減った。お腹が減り果てていた。
結局小百合が一世一代の大勝負を終え教室に戻った時には、既に昼休憩終了まで10分と時間がなかった。
コーヒー牛乳を買いに購買に走った桃子からは、あの一人では何も出来ないおっちょこちょいで右も左もわからない泣き虫な小百合が突然消えて流石に動揺したという声が聞こえた。
小百合自身、今でも信じられない気持ちだった。
容姿端麗、大和撫子、高嶺の花などなど、並べ立てればキリが無い瀬野明日香と、ひょんな事で知り合いになるなんて思いもしなかった。
午後の授業の開始を間近にひかえていたが、自分の席に座って改めて振り返ると、嬉しい楽しいよりも疲れの方がじわじわと実感として湧いてくる。
よくもまああの狭い空間でやりあえたなと、だらけたものとは違う、達成感からくる爽やかな疲れだ。
そういう訳で、しみじみと浸っていた時だった。
「あぁ〜、さゆりんともお昼食べたかったのになぁ〜」
椅子の背もたれの方を前にして、跨ぐ様にして大胆に座る時音が心底残念無念そうにうなだれていた。
相変わらずスカートの中身がどこからか見えてしまうんじゃないかと心配になってしまう。
もうちょっとお淑やかになさいと口にしたい所だったが、寸前で我慢した。絶対面倒な事になるからだ。
「あぁ…なんかごめん…いろいろあって…」
時音の自然な口ぶりのせいか、そもそも一緒に食べる事前提で話が進んでいる事に全く気付かぬまま一応の謝罪を済ました時、教室の入り口付近がざわつきだした。
「赤井小百合は居るかー?小百合ー」
やけに聞き馴染みのある声だからか、耳からすぅーっと入ってくる。そして普段からよく聞いている「小百合」というその名前………って私??
少しのタイムラグを挟んで理解した刹那、その声の方に素早くガバッと目を遣る小百合。
クラスメイト中の注目が全てこの小さな身体に刺さっていた。
早く行かねば余計な詮索が始まってしまうと、桃子やまだ呆気に取られている時音をわざと置き去りにして飛ぶ様に向かった。まだクラスは揺れている。
「あ、小百合ちゃん居た居た♪」
小百合の姿を確認するやいなや、教師らしからぬフレンドリーな振る舞いへとシフトチェンジするその先生。
「あぁもう!ちょっと来てください!赤井先生!」
やはり千百合だった。
大きな声で言いたかったがそこをこらえて、しかしながら小さくも強調して訴える声で千百合を廊下の隅に連れ出した。
「ちょっと!教室には来ないでって言ってるじゃない!」
周りの目に出来るだけ入らない様声と同じく小さく縮こまって、だけどその瞳にははっきりと怒りの炎がちりついていた。
小百合はお世辞にも目立つ方の人間では無い。というか望んでそうしているのだ。
そんな日陰人間が好奇の目に晒されてみてごらんなさい。
他の人よりチクチクと刺さる視線に免疫が無いのだから、鼓動も早まるし汗も湧く。
ましてや2人は親子関係だという濃い事実が知れ渡っている今現在だ。余計にたちが悪い。
恥ずかしさを紛らわす為に少し、小百合なりのこじんまりした怒気で言ったと思っていたが、思いのほか千百合がしゅんとしていた。
「ごめんごめん、でもちょっと心配になって来ちゃった」
ん?と疑問符が浮かぶ小百合に構わず続ける
「保健室行ってたんでしょ?」
疑問から確信に変わった。こやつもう全て把握してるなと。
とりあえずどうしてその事実を知っているのかすぐにでも問い詰めたくなったが、言葉にする前に千百合が口を開く。
「保健の山坂先生が私に報告してきて知ったの」
「保健室の利用者名簿に小百合の名前があったらしいからね」
なんとも初歩的なミスだ。
よくよく考えれば、たった二手か三手先が読めればこういう事態は避けられそうなものだった。
律儀に自分の名前を書いてしまった事を激しく悔いた。
それでも過ぎた事はしょうがないと、切り替えに専念する。
「あぁ…でもちょっとくらくらしただけだから何でもないよ」
そうか…と、特に大きな疑いも持っていなさそうな、ただ小百合の体調のみ気にかける様子が見て取れたので一安心。
…は出来るはずがない。
「同じ欄に書いてた瀬野明日香はどうしたんだ?」
未来志向に移行中だった小百合には会心すぎる一撃に吹き出しそうになってしまう。
千百合の視点から考えればその疑問にたどり着くのは至極当然な事で、またしても悪手を指してしまったと頭を抱えそうになる。
同時刻、さらには同じクラスの人間ともなれば抱かないはずもないその疑問に対して、一番手前に置いてあったアンサーを放り投げてしまった。
「あぁ…友達に付き添ってもらったんだ!」
間違った事は言っていないと、小百合は妙に得意げに語っていた。確かに「友達」にその時なっていたからだ。まだ何分何秒の世界だが事実は事実だと言い聞かせて。
しかし母である千百合は一筋縄ではいかない。
「小百合には桃子しか友達いなかったろう?」
嫌味のある言い方ではないのが逆に小百合をへこませる。
10年余り生活を共にしているからこその気遣いの無さだ。
小百合が今さらの指摘にたじろいでいると、急に千百合の顔に悪魔が降臨してきた様な、悪いひらめきがそのまま表情になって現れた。
「あぁ〜…ハイハイ…そうかそうか」
そう言うやいなや、小百合の耳もとに口を寄せる。
「…いやらしい事してただろ?」
そのささやきが耳に入った瞬間、心臓がキュッとした。
「そんな訳あるかー!」
これは紛れもなく事実ではないので即座に否定すると、そうかなぁと、納得したとも不満があるとも分からぬ面持ちで遠くの方を見据える千百合。
ひとつまみほどの時間を与えてしまうと、まるで源泉の如く悪知恵があふれ出てくるのがこの人だ。
小百合が言葉の次弾をこめるのが間に合わなかった。
「あー、瀬野明日香は居るかー?」
ためらいや遠慮とは無縁なんだろうかと、ためいきと一緒に千百合に対する諦めが漏れてしまう。
もう煮るなり焼くなりしてくれ。小百合はさじを投げた。
同時に、明日香なら千百合を丸め込んでくれると望みを託した。
教室の中では、唐突に呼び出された明日香へと注目がシフトチェンジしていたが、当の本人はというといつもの涼しげな顔で行儀良く座っていた。
そこにはもう数十分前の明日香の姿はない。
キリッと立ち上がる明日香は千百合の事をじっと見据えながら廊下に出てくると、なんとなくの用件の方向性を把握したのか小百合だけにわかるように目配せした。みんなが知らない明日香の一面がいちいち可愛い。
可愛らしい目配せを独占した優越感にどっぷり浸かっている間に、遂に明日香と千百合が初の対面を果たした。
桃子が先日暴露した小百合の「気になる人」が、明日香とイコールだという事にまだ気付いていないとは思っているが、そんなに楽観視はしていられない。千百合は常識の型に決してハマらないからだ。
「君が瀬野明日香か。娘の小百合が世話になったね」
いきなりアクセル全開の千百合は、完全に母になっていた。
口裏合わせをしていなかった為、明日香のアドリブ力に頼るしかない。固唾を飲んで見守る。
「いいえ、友達として当然の事をしたまでですよ」
そうさらりと言ってのける様はやはり風格があり、真正面から言われた千百合は少し驚きの表情を見せていたが、徐々にその顔に喜びがにじみ出てきた。
「いやぁ本当に君は友達なのか!小百合の嘘だとばかり思っていたが!へぇ〜、こんなにも美人な子がねぇ〜、小百合もなかなかやるじゃないか!」
やっぱり嘘と断じていたかと少々冷めた目つきで千百合を見てしまうが、内心は嬉しさを素直に表現している千百合を少しだけ、ほんのちょっとだけ母親として見直した。
2人のスムーズな会話を聞いているだけで心地良い気分になっていたが、途端に雲行きが危うくなる。時音の登場だ。
「さゆりんママだぁ〜、こんちわ〜」
まるで友達にする様なちゃらちゃらした挨拶をブッこむと、小百合の肩になんの躊躇もなく手を回して体を密着させてきた。
例に漏れず、身体がガチゴチになる。やはり光の世界に住む人間のする事は予想できないと思い知らされる。
口をパクパクさせてジタバタするも解放される事はなかった。
「あぁ君は………誰か分からないが、小百合の友達かい?」
先ほどの笑顔を顔に留めたまま、千百合は優しく聞いた。
あっ…と、ここは予想外だったので引き出しがない。
出来ればあまりネガティヴな返答が聞きたくないと、出来る事なら耳を塞ぎたかった。だがそれも杞憂に終わる。
「もちろんですよ♪席がすぐ近くで仲良くなっちゃいました♪」
てへぺろという感じで舌をお茶目に出す姿に、小百合はぽかんと止まっているのが精一杯だった。
いつも明るく楽しく喋りかけてくれるのに、ちゃんとした受け答えが出来ないコミュ障の小百合。そんな人間にも分け隔てなく関わってくれる人が友達だと思ってくれてるなんて。
顔には絶対出さないが嬉しかった。顔には出さないが。
「わぁ!2人もいっぺんになんて!」
こんなにも温和な雰囲気を醸し出した千百合を未だかつて見たことが無い。
今、小百合の目の前にいるのは間違いなく先生ではなく母親だった。
普段家で友達の話など全くしないから、実の所気がかりだったのだろう。申し訳なく思った。
情けなくしょぼくれる小百合とは裏腹に、まだまだ勢いつく千百合はもう止まらない。
「ほら2人とも!こっちこっち!近う寄れ寄れ!」
そう言うと、ガバッと2人をいっぺんに抱きしめた。
流石の明日香も少し戸惑っていた。時音はいつもの時音で大はしゃぎしている。
ひとしきり歓喜の抱擁をかわしたところで予鈴のチャイムが鳴らされた。
あらゆる要素がドロドロに溶け込んだ濃密な時間が呆気なく終わりを告げる。
もう少し堪能したかったが、千百合は一言だけ残し足早に去っていった。
「いつでも家に遊びにおいでね!」
今日の我が家の話題はこれで持ちきりだろうと確信した。
明日香は深々とお辞儀をし、時音は大きく手を振っている。
するとすぐに時音がこちらに吸い寄せられる様に走ってくると、小百合の手をとって飛び跳ね出した。
「うわ〜!さゆりんママめっちゃ良い人じゃん!」
「絶対今度遊びに行く!あすにゃも行こうね!」
腕が取れるんじゃないかと思うほど強く揺さぶる時音に対して、余計な事などもう考えられない。
単純に、一直線に幸せを感じた。
明日香の方をチラッと見てみると、どうして神倉さんと行かなきゃいけないんですかなんて言いつつも、口もとには少しばかり温かい笑みが浮かんでいるのが確かに見えた。
2人の噛み合ってなさそうで噛み合っている掛け合いを後ろでにやにやと眺めながら、心配そうに見つめる桃子のもとへ歩み始めた。
流れの中で時音は友達と言ってくれた。
明日香の時も向こうからだった。
私は与えられてばかりだと、小百合はこの瞬間も痛感させられる。
一歩一歩で良い。これからは私から与えることにもチャレンジしよう。そう心に決めた小百合だった。
「…まあ………ゆっくりと無理せず…ね」
それでも予防線を張るのを忘れないのはご愛嬌。