第2話 赤井小百合の家庭事情
赤井千百合は小百合の母親である。
年齢は35才。桃子よりも頭半個分ほど背が高く、細身で短い黒髪のスタイリッシュな見た目が生徒のハートを鷲掴みしているらしい。
(らしい)というのは、入学してまもない小百合達は実際にその光景を目の当たりにしていないからだ。
とは言うものの、普段から生活を共にしている小百合にとっては想像するに容易かった。
母さんどこに行ってもちやほやされるからなあと、小百合はなんの感情も入れずに納得するほどだ。
そんな千百合が顧問を務めている文芸部に入部した、いや、してしまった理由。とても浅い理由。
「私がだらだらできる場所を残す為に文芸部に入部して♪」
千百合の我がままな一言が決め手になってしまったから。
小百合達が入学してくる前の文芸部は、3年生部員のみの5人で構成されていた。
その世代が全員卒業して、ぽつんと1人残された千百合。
このままでは文芸部(サボる場所)がなくなってしまう!
そういう訳で、白羽の矢が立ってしまったのが小百合と桃子だった。
この学校への入学が決まった日に、赤井家に桃子を招待して(小百合・桃子合格おめでとうパーティー)が開催されたが、千百合がその際一番に発した言葉は、おめでとうでもお疲れ様でもなかった。
「私がだらだらできる場所を残す為に文芸部に入部して♪」
小百合の思い出フォルダに(身勝手なもの)というフォルダがあったとしたら、迷い無くそこに放り投げてあるだろう発言だった。
受験勉強ばかりで部活のことなど微塵も考えていなかった小百合は、「まあ特に興味がある事もないし桃子と一緒だったらまあ…」と、半ば千百合のペースに飲み込まれる形で入部を決めてしまった。
今になってみれば、愛想笑いでひらりと切り抜けて、先に他の部活に入っておけば良かったとも思う小百合だったが、それをした後がおそらく怖い。
四六時中共に過ごす(家族)だ。
ぐちぐちとネチネチと恨み節を聞かされたらたまったものではないと、この判断を正しいものとして小百合は思い切り飲み込んだのだ。
「どうした小百合?うわの空だが…何かあったのかい?」
千百合の言葉で我に帰る。
この件は一旦保留にしよう。もしかするとこれから先、部の存続が出来た事を盾にして、優位に立てる場面があるかも知れない。
そう考えることをとりあえずの着地点として、目の前の千百合に向き直った。
心を入れ替えて、先ほど問われた事に対する返答をしようとしたのだが、間髪入れずに桃子が口を開いてしまった。
「それがですね千百合さん〜」
ここまで言いながら、ちらりと小百合に視線を移す。
やめろ桃子いや桃子さんやめてください面倒な事になりますから!と言わんばかりの懇願の眼差しを向けたが、時既に遅し…。
「小百合ってば、入学早々同じクラスの子に惚れちゃったみたいなんですよ〜」
確かに時が止まった。小百合にはそう思えた。
まるで油を差すことをすっかり忘れてしまった歯車の如く、ギギギと音を立てそうなほどぎこちなく千百合に視線を戻すと、わざとらしく脚をゆっくりと組み替えていた。
その顔にたっぷりの笑みを浮かべて…。
「ふむふむ、それは聞き捨てならないねえ…」
じっとりとした声がじりじりと痛く、居ても立ってもいられない小百合は不器用にも言葉を繋いだ。
「…ほら!あれですよ!…まだ出会って数日だけど、とにかく見た目が可愛くて目に止まったんですよ!…今のところそれだけで、話した事も話しかけられた事も無いし…ほら千百合さんだってそういうことあるでしょ!?」
口から次々と言葉を出すほどに不自然さが輪をかけて酷くなる。小百合自身にもはっきりとわかるほどに。
「…まあいいじゃないか、青春ってのはそういう所から始まるんだよ。これまで小百合からそういう浮いた話が聞こえてこなかったから、母さん嬉しいよ」
予想だにしていなかった答えがポーンと返ってきて、ちょっとばかり呆気にとられた。
しかし、それは一瞬で泡となって消える。
「今日は赤飯だな」と千百合。
この母親め!一瞬でも嬉しみを感じた私の心に謝罪しろ!と言い放ちたかったが、喉元まで上がってきた言葉を必死に押し込んだ。
先ほどの「嬉しいよ」という言葉の中に含まれる成分が、純度100%の冗談では無いんじゃないかと思えたからだ。
少し口元が緩んだ小百合に対して千百合は続けて言う。
「それで、その気になる子というのは誰なのか教えてご覧なさい」
妙に丁寧な言葉遣いがくすぐったく、そして恐ろしい。
「まあこの話は一旦置いておこうよ、もういい時間だし気が向いたら家でじっくり話そう…なんかはずかしいから…」
桃子のにやにやとした小悪魔的な視線にも耐えかねて、そう言わざるを得なかった時には、時計の短針は既に午後6時をゆうに超え、廊下の窓ガラス越しに見える太陽が、山際の空を赤く染め上げていた。
ここからが本番なのにと膨れっ面の桃子を尻目に、さっさっさっと帰り支度を進める。
キーホルダーも何も付けていない、女子高生が持っている物とは到底思えない手提げカバンを持った所で、こちらも少し名残惜しげに見える千百合からの一言。
「お母さんちょっとだけ職員室で仕事済ませてから帰るから、2人とも気をつけて帰りなさいね」
「は〜い」
母と先生と子に生徒、色んな要素が絡み合った特殊なやりとりを交わし、部室を後にする2人。
他の文化系の部室にはまだちらほらと人の気配が残っており、四方八方からライトで照らされたグラウンドからは硬式テニス部の綺麗な高い声が響いている。
ハンドボール部の方はあえて気にしないようにした。
様々な放課後の音をbgmにして部室のある3階から1階に降りていくと、下駄箱の周りには帰宅を急ぐ生徒達で賑わっていた。
運動着のまま今日の部活の話をする者、肩を組んで笑い合う者、ちょっかいを掛け合ってふざけあう者。
普段の小百合であれば、それはもう百合の宝庫やぁと目に焼き付けながら歩くのだが、今日降りかかった出来事が濃厚すぎてそれどころではなかった。とにかく疲れていた。
帰宅軍団をするするとすり抜けて玄関から出ると、校門前の道路を挟んですぐの場所にあるたこ焼き屋にも、生徒たちがたむろっているのが見えた。
そこはたこ焼きよりも、あんこがたっぷりと入った大判焼きの方が人気で、学校帰りの定番ファーストフードとしての地位を得ていた。
時間も遅く、ここで今食べてしまったら晩ご飯が入らないだろうという心配から、美味しそうな甘い匂いが出来るだけ脳に届かないように早歩きで通り過ぎる。
小百合と桃子の家は学校から徒歩20分ほどの所で、街の商店街近くの駅の裏手、比較的新しい住宅地の中にある。
最近になって商店街周辺の再開発が進み、若い店主が営むオシャレな雑貨屋や喫茶店などがアーケードに並び始め、家から遠出せずとも買い物が楽しめるようには徐々になってきた。
そうは言ってもまだまだ田舎な街だ。
2人の帰路はその商店街に差し掛かったが、街明かりというより帰り道を急ぐ車のヘッドライトばかりが目立っている。
人通りもまばらな歩道を、部室でのやりとりを思い返して桃子がああ言わなければなぁなどと、笑いながら冗談半分で責めていたら、あっという間に商店街を抜け、見えてきたのは駅から最も近い踏切だった。
その駅は見た目だけで言えば最近建て替えたばかりで立派なのだが、大体1時間に1本しか電車が来ないため、我が校の電車通学組は余計な苦労を強いられているという。そんな駅だ。
普段通る時も滅多に引っかからない踏切を渡ったら、我が家はもうすぐのところまで来ていた。
まるで判子で押したような似た形ばかりの家が並び、それぞれから明かりが漏れたりドタバタと子供がはしゃぐ音が聞こえたりしている。
2人は隣り合った自分達の家の前まで来ると、いつも通りに手を振って別れを告げた。いつもの日常だ。
桃子と別れ、小百合に1人の時間がやってくると急に世界が静まり返ったような、そんな寂しさが湧いてくる。
今日は色々とペースを乱されたけど、なんだかんだで賑やかで楽しいもんな…。
家の玄関を前にしみじみと思いながら、ドアを開ける。
玄関に一歩足を踏み入れると、ジュージューという音と共にとてもお腹が空く匂いが台所から漂ってきた。
お肉系かな?と内心わくわくしながら、いつもの挨拶。
「ただいまー」
と言い終え、廊下を背に靴を脱いでいると、ぱたぱたぱた!とスリッパの音がすごい速さで近づいてくる。
小百合はその音がする方にすぐさま振り返るも、一瞬のうちに視界が真っ暗闇に包まれた。
その暗闇は、落ち着いた華やかな香りを放ち、そしてまた柔らかかった。
「おかえり小百合ちゃん!」
二つの大きな膨らみで小百合を包み込んでくるその女性。
「わっぷ!く、苦しいよ離して〜…」
「だめ〜、ちゃんと抱きしめ返してくれないと!」
と、まるで付き合い始めて間もない彼女のように離れないその人にタジタジの小百合。
照れながらも、両腕を女性の背中に回し、抱きしめた。
「よし!それでよろしい〜」
ふんわりとした声色で許しを貰ったのも束の間、靴を脱いで家にあがった小百合に真正面で向き合ったその人は、こう続けた。
「でもね?ちゃんとした挨拶がまだじゃないかな〜?」
ほんの1時間ほど前に目にした光景のようで、小百合はちょっとだけくらくらする。体調が悪い訳では無いが。
頬が赤く染まっていくのが、身体の火照り具合で感じ取れた。
今か今かと待っているその人に、小百合は重い口を開いた。
「た、ただいま。真百合…ママ」
やっぱりママっていうのもいい響きだね〜と言い終えるまで待たずに、再びその柔らかな二つの膨らみを押し当ててくる。
そう、この人は赤井真百合。
私のもう一人の母親だ。




