ACT05 天狼と呼ばれる漂泊民
「お姫様が生まれるよりも、うーんと昔の話さ。今から、もう百年近く前の話さね。
その頃に、このヴァンダール王国の王都レグノリアを大きな災厄が襲った時があってね」
サキは、シェルフィンが話し始めた不思議な昔話に引き込まれていった。
その国難を救うために、一人のお姫様が起ちあがった。
そのお姫様の名は、レオナという。
不思議な力を使う漂泊民を味方に、遙か遠くローゼリア砂漠の奥地まで旅をしたという。
その旅で、何を得て何を失ったのか、本人以外にはわからない。
このレオナ姫が、三年に渡る命がけの旅から戻ってきた時には、一緒に旅した漂泊民の姿はなくレオナ姫ただ一人だった。
その冒険旅の最中に何があったのかは誰も知らぬが、レグノリアの都に戻ってきたレオナ姫は、とてつもない霊力を身につけていた。
王国の存亡に関わる難事を、レオナ姫が都に描いた魔法陣が救ったという。
レオナ姫の覚醒した霊力のおかげで平和を取り戻した王都だが、その平和は長くは続かなかった。
「レオナ姫の霊力の強大さに、王家が欲を出しちゃったのさ」
古からの知識を持つが故に、恐れられ手を出せなかった漂泊民を弾圧して、都から追放しようとした。
王家と漂泊民の衝突が起きた。
国を持たず、太古からの英知を受け継ぐその漂泊民の名は、天狼という。
「昔は、仲良くやってたんだけどね」
シェルフィンが、さみしそうに首を振った。
「王家は、天狼の持つ力を恐れてたんだけど、レオナ姫の霊力があればもう怖いものはないもの」
皮肉なことに、その強大な霊力の源となったのは天狼のものだった。
だが、それを知っているのは……レオナ姫だけだった。
「誰よりも一番悲しんだのは、レオナ姫さ。
自分を……いや、王都の危機を助けてくれたのが天狼だってのは、レオナ姫自身がよくわかっていたしね。
でも、自分の生まれ育った王都や家族も愛していたから。
だから、レオナ姫どちらにも争ってもらいたくない一心で動いてくれたのさ」
レオナ姫は板挟みの立場の中、両者の紛争を抑えることに奔走した。
だが、事態は悪化するばかりだった。
「あたし達天狼の側にも、顧みる部分はあったわね。
レオナ姫が天狼の側に立ってくれたのをいいことに、強硬派が台頭してきてね。ずいぶんと両者に血が流れたわ」
レオナ姫の思惑とは正反対に、両者の不毛な争いは頂点に達した。
結界岩を挟んで両者がにらみ合い、全面衝突寸前の状況だった。
そこでレオナ姫は、ある重大な決断をした。
国の安泰をはかるためにレオナ姫が自分で設置した結界岩に、大きな刀を叩き付けて一刀両断にして呪いを掛けたという。
「この断ち割った大地を、王家と天狼の境界とする!
よく聞け! 両者が刃を納め力を合わせぬ限り、この都は衰退する。
この言葉を忘れた場合、私は何度でも姿を現して末代まで祟る!」
その場に居合わせた両者の武装勢力は、レオナ姫の怒りの激しさに震え上がったという。
そこまで一気に話したシェルフィンは、大きなため息をついた。
「悲しいお話さね。
忘れてしまいたい古いお話だけど、決して忘れちゃいけないのよ」
サキがここに来る途中で立ち寄った祠の結界岩が真っ二つに割れていたのは、そんな出来事があったからだった。
シェルフィンの話は続いた。
「レオナ姫は、断ち割った結界岩に刺さった大刀を残して、愛馬にまたがって……家出しちゃったのさ」
馬上で六尺棒一本を振り回して、王家の精鋭三百騎あまりを蹴散らして東の方に去って行ったという。それきり大陸中どこを探しても、レオナ姫の姿を見たものは居ない。
レオナ姫を失った王家と天狼は、和解せざるを得なかった。
断ち割られた結界岩の前に集まった両者の代表が、和解の誓いを立て、『約定』を結んだ。
いわく、王家は王国内で天狼の自治を認め、一切の手出しはしない。
一方、天狼はその代わりに、何か王都で異変が起きた時に王家に力を貸す、というものだった。
『約定』に基づいて天狼の力を借りる場合、王家側のつなぎ役として適任者を一名選出して天狼の合意を得る必要があるという。
◆
「その『約定』が、持ち出されてくるとはねぇ」
シェルフィンが言葉を切った。
サキは、沈黙していた。
サキの知らない、王都の秘められた歴史だった。
「知らなかったわ。誰もそんな歴史は話してくれなかったもの」
サキは、やっと言葉を絞り出した。
サキの困惑を見たシェルフィンが、慰めるように微笑んだ。
「そりゃ、王国を救ってくれたお姫様が、王国を見限って家出しちゃっただなんて……普通は、恥ずべき黒歴史だもの。
王家だって、忘れたい苦い記憶でしょ。
でも、この苦い思いを忘れちゃいけないから、あたし達天狼は結界岩を祠に祀って、自分達の戒めにしてるのさ」
シェルフィンの話を聞くうちに、サキの心の中にどうしても聞きたいことが浮かんでいた。
だが、サキが言葉にする前にシェルフィンが微笑んだ。サキの心の内などお見通し、という雰囲気だった。
「で、そのレオナ姫の大刀はどうなったかって?」
シェルフィンが、いたずらっぽい目でサキを見た。
「ほら、あなたの目の前にあるわ」
「!」
サキは、思わず自分の愛刀を抱え込んだ。
祖父からは、昔のお姫様が使っていたと聞いているが、そんなとんでもない由来を持った刀だったとは、思いもよらなかった。
「これって……本物なの?」
「王都に、こんなに大きな弯刀は他に存在しないわよ。
あまりに禍々しい騒動になったから、祟りを恐れて神官長が封印していたわけ」
そこまで話したシェルフィンが、怪訝そうな表情を見せた。
サキの刀を凝視している。
「おや、この刀の柄にはまった宝玉は透明なのね」
「あたしが宝物庫から持ち出した時から、透明だったけど」
サキは、毎日見慣れた刀の柄をしげしげと見つめ直す。
柄頭に、大きな宝玉がはめ込まれている。サキは、宝玉の色など気にしたことがなかった。光の加減でその時々に色を変えるが、普通は水晶のような澄んだ宝玉だった。
「持ち主の霊力で色を変える宝玉ってのがあるって聞くから、ひょっとしたらこれがそうかもね。
レオナ姫の時代、この刀の宝玉は真紅に輝いていた、って聞いたことがあるから」
サキは、シェルフィンの奇妙な呟きに首をかしげた。
「あたしの霊力が皆無なので、刀も眠っているのかしら」
サキはそう言って自分を納得させた。霊力がないサキが持ち主なので宝玉が透明になっている、ということなのだろう。
「そうね、あなたがもっと精進して腕を上げれば宝玉の色も変わるのかもね」
◆
「あたし達天狼は、闇の世界の住人なの。決して、この大陸の諸国の表舞台には出てこない。
市井に隠れている天狼以外の漂泊民や諸国の庶民達とともに、ただ平穏な生活をしてるだけの存在だわ」
シェルフィンが、奇妙なことを言い出した。
「別にレグノリアの都だけじゃないけど、私達みたいな漂泊民……天狼を疎ましく思う存在もいまだに多数いるの。
あなたが『約定』に従って天狼とのつなぎ役になるってことは、あなたも王族達の一部から疎ましく思われる存在になるってことなの。
今のままなら、王族の一員として平穏な人生を送れる。
でも、ひとたび『約定』を受け入れると、もう後戻りはできないわ。
『約定』が発効されたことは、すぐに天狼にも王家にも伝わる。
強い権限を持つ代わりに、重い責任も伴うし、あれこれと妨害してくる存在も出てくるものよ。
ここから先に、お姫様を待っているのは、王家の一員としてではなく市井に生きる一人の人間として戦ってゆく人生になるわ」
シェルフィンが言葉を切った。真剣な表情でサキを見つめている。
切れ長の目が、鋭い輝きを見せる。
「『約定』は、強制ではないわ。
でも、一度『約定』を受け入れたら、決して後戻りは出来ない。
そして、今、決断しなけりゃならないの。
ちょっと一晩考えてからとか、後でやっぱり取り消したい、というのは不可能なのよ。
王族でありながら天狼とともに生きることは、お姫様の今後の人生にまで影響を及ぼすわ。
強大な力に、押しつぶされない覚悟を持てる?
下手すると、一生後悔するかも知れない。
この国の礎となる覚悟は、ありやなしや?」
サキは、シェルフィンの鋭い眼光をはねのけて見つめ返した。
サキの答えはぶれない。
「後悔するかも知れない。でも、今何もしなければ一生後悔するわ。
私は、街の皆の笑顔が好き!
皆が笑顔で暮らせる世の中を創れるなら、王族の立場を失っても構わない!」
サキの気負いを受け流すように、シェルフィンがクスリと微笑みを見せた。鋭い目元が、少し和らいでいる。シェルフィンは冷たい美貌の持主だが、微笑むと見る者の心を解きほぐす暖かさを見せる。
「たいした度胸だね。どうやら、その場の勢いで言ってるのじゃなさそうね」
サキは、微笑み返した。
「どうせ、神官としては落ちこぼれだから。
失って困ることも、そうそうないわ」
一瞬、姉のセアラと妹スーの笑顔が浮かんだ。
霊力皆無の落ちこぼれのサキを、心配してくれている唯一の姉妹。
サキの心がちょっと痛んだが、家族達のみならず皆が笑顔で暮らせる世の中を支える方が、姉妹達にも喜んでもらえると思う。
ふーっと、シェルフィンが長い息を吐いた。
満足そうなため息だった。
「なるほどねぇ。『後継者』ってのは、間違いなさそうね」
奇妙な言葉を呟いたシェルフィンが、いったん店の奥に入る。
戻ってきたシェルフィンは、その手に首飾りを持っていた。
白銀に輝くリングに白と黒の勾玉が組み合わさり、陰陽が循環する意匠だった。
「あなたを、王家側の『約定』の代表者として認めるわ。
その証のこれを、肌身放さず身に付けててね。といっても、はめたらお姫様の意思じゃ一生外せないけど」
シェルフィンが手を伸ばし、サキの首に首飾りを掛けた。
カチリと金属がかみ合う小さな音が響いた。
「これが『約定』を受け継いだ証になるのよ。そのうち、御利益がわかるわよ。
これで、この黒龍小路を昼でも夜でも、大手を振って歩けるわ。
『約定』を受け継いだあなたに、手を出す天狼は居ない」
◆
シェルフィンに連れられて黒龍小路を歩くと、先ほどまで背中に張り付いていた敵意のある視線が消えていることに、サキは気が付いた。
結界岩の祠の下の小径を通り、運河の方にシェルフィンが向かう。
サキは半歩後ろを歩きながら、シェルフィンを観察していた。
東方の騎馬民族の血を引くのか、肌の色はサキよりも褐色が掛かっているが、異国からの移民の多いレグノリアの都では珍しくもない肌の色だった。
シェルフィンの腰まで届く長い黒髪と褐色の瞳は、間違いなく東方の血を示している。
身のこなしは静かで、歩く姿も落ち着いたものだった。
サキとはまるで違う気配の持ち主で、強さの質も異なっている。
シェルフィンの強さは、老虎で初対面の一瞬に悟っている。
サキの強さをたとえると炎だが、シェルフィンは氷だった。
「あたしは、お姫さんみたいに刀を振り回して戦う柄じゃないわよ」
サキの心を読んだのか、シェルフィンが絶妙のタイミングで振り向いて笑顔を見せた。
「人には、それぞれ役割があるの。
あたしは、天狼を束ねてゆくのが役割。
お姫さんに与えられたのは、この王都の平和を守る役割」
サキの返事を待たず、シェルフィンが道の先に拡がるバザールを手で示した。
「どうしても、まずここを見てもらいたくてね。
それに、『約定』の片割れにも引き合わさなきゃならないから」
「片割れ?」
「お姫さんの手助けをする、天狼側の相棒さね。
ちょうどおあつらえ向きの奴が、何年ぶりかにふらっとこの都に戻ってきててね。
ただし、ちょっと変わり者だよ。
シドニア大陸の西側……つまりヴァンダール王国周辺で言う魔道みたいな術を使う方術士の男さ」
◆
王都の東の門は、長い間閉ざされたことがない。
国境沿いの小競り合いは別として、長いこと諸国に攻められたことのないヴァンダールでは平和な時代が続いている。
東や南方諸国からの隊商がこの東門をくぐり、旧市街区のバザールに荷物を持ってくる。
諸国の珍しい様々な品物が売買され、バザールも早朝から日没まで人通りが途切れることはない。
バザールの露店の商人達は神殿警護官のサキの姿を見ると、決まって一瞬怪訝そうな表情を浮かべるが、隣にシェルフィンの姿を認めると破顔しシェルフィンに会釈する。
シェルフィンという人物が、バザールの商人達の間ではかなりの顔なのがわかる。
(あたしが天狼との『約定』を結んだ人間として、紹介してくれている?)
サキの心に浮かぶ疑問を知ってか知らず、サキの半歩前を歩くシェルフィンが振り向いた。
「バザールの奥に足を踏み入れるのって初めて? 思ったより賑やかでしょ?」
「神殿警護官が入れるのは、バザールの表通りくらいなの。
そこから先は、足を踏み入れるなって王家から厳命されてるわ」
サキも、バザールに買い物に出かけることはある。
バザールの敷地のど真ん中の『表通り』と呼ばれる広い通りは何とかなるが、そこから一歩奥に踏み入れると言葉がまるで通じない。
言葉も文化も違う、異国の街だった。バザールの最奥は、サキの知らない世界だった。
神殿警護官の縄張りは、神殿とその周辺の参道までだった。
治安維持の権限のないバザールで神殿警護官が騒ぎを起こすと、越権行為としてかなり厳しく叱られる。
「これからお姫さんは、バザールの奥で暮らすこの人達の味方になってもらわなきゃ困るからね」
「全員が天狼なの?」
「いいえ、大半は異国から流れてきた人達よ。でも、レグノリアに住んでいながら、王家の民じゃないのは同じね。
王家の側の視点で見るバザールと、バザールの中から見る王家。
お姫さんには、その両方の視点を持って欲しいの。
どちらにも、その立場による正反対の正義があるわ。
その中で、皆が笑顔で暮らせる世界を創るにはどうすればいいのか、考えてもらうことになるわ」
シェルフィンに案内されたバザールの奥には、屋台と屋台に囲まれた意外と広い空間があった。
いくつかの粗末な木製のテーブルと長椅子が並べられ、バザールの露店で買った食べ物を食べたり、談笑している十数人の姿がある。