ACT02 サキの大刀
夕食の前に愛刀を振るのが、サキの日課だった。
神官の家に生まれたため、サキの住む屋敷は神殿の裏手にある。
神殿と自宅の間にある雑木林に囲まれた小さな広場に立ち、サキは愛刀を鞘から抜き放った。
湾曲した大きな刀身が、夕日に輝いた。
サキは、シェフィールド家の落ちこぼれだった。
代々神官を継ぐシェフィールド家三姉妹の真ん中だが、神官に必須な霊力が生まれついた時から皆無だった。
神殿の神託を受けることも、精霊達の姿を見ることさえ出来ない。
そのせいか、小さな頃から姉妹の中で異質な性格と行動で、『シェフィールド家の邪々馬姫』の異名を持っている。
むしろ、王族の中では、その異名の方が有名だった。
花を愛でたりするのを楽しむ姉のセアラや妹のスーと違い、野山を駆けまわって遊ぶ方がサキの性に合っていた。木に登ったり、運河に飛び込んで泳ぐ、王族らしからぬお転婆娘だった。
そんなサキの唯一の友が、この大刀だった。
遙か東方の騎馬民族が使う刀に似て、長く身幅も大きなものだった。
柳の葉に似た、切っ先の方が太く美しく湾曲した刀身を持っている。
そもそも、刀と剣は武器の特性が違う。
刀は片刃、剣は両刃だった。
刀と剣では特性が異なるため、操法そのものが異なっている。
片刃の刀は頑丈に作れるが、その分だけ重くなる。
特にサキの大刀は、大きな反りがあるため突くよりも引き斬りに向いている。
シドニア大陸西域でよく使われる直剣は、軽く造れる上に両刃で反りがないため、斬るのに加えて突き刺すことに優れている。
サキの刀術に、師はいない。
両刃の直剣が主流のヴァンダール王国では、そもそも刀を扱える者がいない。同じ西域諸国でも、体格膂力に優れる北方のノールでは刃渡り三尺近い大きな直剣が好まれるが、ヴァンダール王国では刃渡り二尺程度の直剣が好まれる。
はるか東方の騎馬民族が使う湾曲した大刀の操法を教えられる剣術使いなど、レグノリアには誰一人いなかった。
◆
夕方から風が強まり、朱に染まった雲が流れてゆく。
日没とともに、神殿に通じる石段の前の扉が音を立てて閉じられた。普段は夜明けから日没までしか神殿には参拝出来ない。夜でもこの門が開かれているのは、年に四度の各種祭礼の期間だけだった。
神殿から少し離れた雑木林に囲まれて、シェフィールド家の屋敷がある。生活の中心が神殿の一族のため、家族が自宅に集まるのは夜の間だけだった。
日が落ちてしばらく経ち、夜空の雲間に月が姿を見せる頃になっても、その屋敷の一角だけまだ灯りが付いていた。
「サキ姉ちゃん、今日も御飯食べに来なかったね」
厨房で洗い物をしていたセアラは、末妹のスーの声に振り向いた。傍らのスーが、食堂につながる扉から隣りの食堂を覗き込んでいた。二十歳になったセアラより七つ年下のスーは、まだまだ小柄だった。正式な神官のセアラと違い、スーは神官の見習いの立場なので、セアラのように髪型とかの制限もなく、金髪を巻き上げるように結っている、
夕刻に神官の仕事が終わり、白い長衣とサッシュ姿ではなく、二人とも質素な麻のシャツとスカート姿だった。
「もう、毎度のことなので、すっかり慣れちゃったけど……やっぱり、サキがいないと寂しいわね」
洗い物の手を休め、セアラがスーの背後から食堂を眺めた。
食事が終わった後も、テーブルに食事が一人分残されている。余ったパンや、果物が寂しそうにテーブルの皿の上に並んでいる。
神官の食事はパンとチーズ、豆類や野菜を煮たスープ、季節の果物、という質素なものだった。戒律上、肉や魚は禁忌ではないが、そういう贅沢品はほんの少ししか食卓には上らない。
王族に連なる家系とは言え、神域を統べる神官は質実剛健を家訓とし、他の王族のような贅沢な暮らしはしていない。
「夕方に、サキが社務所の前を通る姿を見かけたんだけどね。なにやら険しい顔してたから、声かけられる雰囲気じゃなくて……ちゃんと夕食に戻ってくるようにって、釘刺すのを忘れちゃったの」
そう呟いたセアラが、ちょっと後悔するような表情になった。
祖父や叔父とともに夕食を済ませたセアラとスーは、食器を片付けていた。
神官の家柄とはいえ、シェフィールド家にも小さいながら所領はある。
当主のダンと妻のマオは、王都から南に下った自領の管理のために不在がちで、家事の采配は長女のセアラが一手に統率していた。
「サキ姉ちゃん、お務めが忙しいの?」
「それもあるけど、あの子の場合は刀術のお稽古もあるからね」
食器を洗い終わったセアラは、戸棚から柳で編んだバスケットを取り出した。
「届けてあげましょう」
手際よく、バスケットにサキの夕食を詰めてゆく。
一日中都の中を動き回ってばかりのサキの食事量は、セアラとスーの常識を越えている。小食のセアラやスーなら、軽く一日分もあるかと思うほどの量がサキの一食だった。
それだけ大食いのくせに、飲まず食わずで鍛錬に明け暮れていてよく倒れないものだと、セアラは思う時がある。
「セアラ姉様、サキ姉ちゃんがどこに居るのかわかる?」
サキには、不思議な習性があった。
愛刀を鍛錬する場所が、気まぐれに変わる。
屋敷の敷地内のどこかか、神殿の裏庭だったり、裏手の雑木林の先にある小さな広場だったり、森の木々の間だったり脈絡がない。
猫が季節に応じて昼寝場所を変えるのに、よく似ている。
神殿の敷地は、森や泉のある丘陵一帯だった。
屋敷の敷地の中ならともかく、神殿の広大な敷地の中を探すのは骨が折れる。
セアラは、食堂の鎧戸の窓を開け放った。
月の明るい夜だった。
これなら、足元を探らなくても歩ける。
セアラは目を閉じ、しばらく耳を澄ませてみる。
「大丈夫、今夜はこの近くに居るみたい。
たぶん、庭の奥にある雑木林の向こう側……泉のある小さな空き地よ」
「セアラ姉様は、サキ姉ちゃんの居場所がわかるの?」
不思議そうな表情のスーに、セアラは微笑んだ。
「あの子が刀を振り回してる時には、森の鳥達がびっくりして騒いでるから、耳を澄ませばすぐにわかるのよ」
サキの鍛錬は、日に日に苛烈さを増している。ここ最近のサキの行状は常軌を逸したものだった。
サキが愛刀を構えるとその殺気で、森の木々をねぐらにしている鳥や小動物が目を覚まし、不安げに鳴き叫ぶ。
セアラはバスケットを抱え上げ、清水の入った銀のポットをスーに渡した。
「さっ、行きましょ。ちょっと重いから、転ばないように足元に気を付けてね」
◆
サキは、泥だらけだった。
「ハッ!」
前方に飛び込み、空中で身体を丸める。
大地を転がり、立ち上がった時に鞘から抜刀する。
「ヤッ!」
抜刀から動きを止めず、そのまま後方にとんぼを切る。
下から愛刀を切り上げ、右に転身する勢いを利用し刃を水平に薙ぐ。
「ちっ、失敗!」
足元がすべり体勢を崩しかけるのを、サキは際どく踏み止まって転倒を免れる。
サキは、動きを止めた。
大きく息を吐き出し、首を振った。
実戦なら、ここで切られている。
(未熟だよね……まだまだ!)
愛刀を鞘に収め、もう一回やり直そうとした時、目の前に人影を認めた。
「あれ? セアラ姉さん、スーちゃん?
二人そろって、どーしたの?」
サキの問いに、セアラの大きなため息が聞こえた。
「どうしたも何も、今の刻限知ってる?」
「えっ?」
サキは、上空の月を見上げた。
神殿の時を告げる尖塔の鐘の音など、鍛錬に熱中していたサキには聞こえていない。サキが時刻を知るのは、星々の位置だけだった。
「あーっ、もう真夜中なのね」
刀を振っている時には、不思議と空腹と疲労を覚えない。
愛刀を鞘に収めたとたんに、飲まず食わずだったことを思い出した。
「夕御飯を食べに来ないから、心配して来たのよ。
厨房の裏口から残飯あさった形跡もないし、どーせまた刀術のお稽古に熱中してるんじゃないかなぁって思って、スーちゃんと様子見に来たのよ」
サキは、決まり悪そうに目をそらした。
図星だった。
「刀術のお稽古に熱中するのはいいけど、御飯ぐらいはちゃんと食べなさいよね」
「ごめん、夕飯前にちょっとだけ練習するだけのつもりだったんだけどね」
サキの言い訳が、虚しく響く。
ちょっとだけのはずが、夕飯の時刻などとうに過ぎ去っている。
姉のセアラには迷惑を掛けっぱなしで、サキはセアラには頭が上がらない。
「この前みたいに、お腹が空いて裏庭で倒れてたりすると困るから、心配して見に来たのよ」
セアラが、抱えていたバスケットをサキの前に置いた。
「その様子だと、今夜も夜通しで刀を振るんでしょ?
夕食と夜食を持ってきたわ」
「ありがとう」
「夕食は、まだ暖かいから冷める前に、今すぐ目の前で食べてね。あなたときたら、倒れるまで飲まず食わずで頑張っちゃうから……って、あなた! まず、手を洗いなさい!」
セアラの小言の前に、サキはバスケットに手を突っ込んでいた。片手で持つには手に余る大きさの丸いパンを取り出し、そのままかじりついた。
パンをくわえたまま、傍らの泉に手を突っ込んで形だけ両手を洗う。
スーが手渡した銀のポットに直接口を付けて、口一杯のパンを水で流し込む。
セアラが、眉をひそめた。
「サキ! お行儀が悪いわよ。
食器もあるんだから、ちゃんと切ってお皿でお食べなさい!」
サキは、ろくに小言を聞いていなかった。
一口食べたとたんに、猛烈な飢えに気が付いた。セアラの小言より、目先の食事が優先だった。
パンをスープに突っ込み、むさぼり食う。
「セアラ姉さん、スーちゃん、ありがとね」
それが、サキの精一杯の感謝の言葉だった。
◆
深夜の鍛錬は、さらに続く。
大上段から切り下ろす、刃を返して跳ね上げる、左右斜めから切り下ろす、切り上げる、水平に薙ぐ。
力で振るのではなく、大きな弯刀の重さとバランスを利用して、サキの身体全てを使って振ってゆく。
サキが繰り返す技は、全て、サキの夢の中に出てきた弯刀の操法だった。
サキに、刀術の師はいない。両刃の直剣が主流のヴァンダール王国には、そもそもサキが持つような弯刀を使える者がいない。サキは、独力で弯刀の使い方を身に付けてゆくしかなかった。
朝から晩まで刀術の工夫に熱中しているサキは、眠っていても夢の中に刀が出てくる。
幼少の頃は、サキの身長よりこの大刀の方が長かった。
最初の頃は、刃渡り三尺を超える長大な刀を自由自在に扱うどころか、サキの体格では持ち運ぶのにもかなり無理があった。
「その刀と、早く友達になりなさい。そうすれば、刀の操法はおのずとわかる」
祖父に言われたのは、ただそれだけだった。
刀を自在に扱えるようになるのには、数年掛かっている。
奇妙な刀だった。
片刃の大きく湾曲している刀身だが、何故か刃をつぶして切れないようにしてある。
神殿警護は、人を殺す訳ではない。不殺のために刃をつぶしたのか知らないが、不都合もないのでそのままにしてある。
敵と対峙した時、敵の剣を受けただけで敵の刃を叩き折ってしまうほどの大刀に、鋭い刃は不要だった。刃が付いてなくとも、まともに当たれば骨が砕ける。
重い大刀を扱うには、サキの腕力では無理だった。華奢な腕で工夫を続けるうちに、祖父の言った言葉の意味が少しずつわかってきた。
身法、つまり身体の動きで大刀を扱う。
切っ先の方が重いため、身体を十分に使って操らないと自分が振り回される。
愛刀を友として、深夜までの鍛錬と工夫の日々が続いている。
足の踏み込む位置が一寸違うだけで、刃の軌跡が変わる。
重さで体勢を崩さないためには、左手を張り出して釣り合いを保つことも自然に覚えた。
『そうか、ここはこうすればいいのね』
眠っていても、夢の中でも大刀を振っている。
夢の中に出てきた見知らぬ技に飛び起き、深夜に愛刀を振ってみることさえしばしばだった。
一つの技が出来るようになったら、また次の技が夢に出てくる。
眠るどころではない。
下手に眠ると、夢の中にまた新しい刀の操法が出てくる。
眠る度に、さらに宿題が増えるのでは眠ってはいられない。
体力が尽きて、その場で眠っていたりするのも、しばしばだった。
夢の中に出てきた思いもよらぬ弯刀の軌跡を再現すべく、サキの鍛錬は増える一方だった。
◆
不意に、強い風が舞った。
風が渦巻き、木の葉を揺らす。
「えっ?」
サキは、ほんのりと明るくなり始めた夜空を見上げた。
風の中を、何かが舞っている。
夜空を見上げたサキを嘲るように、空から降ってきたのは何枚もの魔除札だった。