ACT12 老虎襲撃
「よっと!」
シェルフィンが、水の入った手桶を持って老虎の外に出た。
日没から日の出まで開いている老虎も、朝だけは静かだった。
酒楼の街である黒龍小路全体が、昼間は老虎と似たようなものだ。
朝から昼にかけては、道を通る者もなくひっそりと静まりかえっている。道を通るのは、せいぜい野良猫ぐらいなものだった。
シェルフィンが手拭いを水に浸して、老虎の看板を拭き清め、店の外壁を掃除してゆく。
掃除をしながら、シェルフィンが眉をひそめた。
どこからともなく、殺気が漂ってくる。
いつの間にか、通りの左右に人影があった。
老虎の前の道をふさぐように、左右にそれぞれ五人か、いや六人か。通りの角を曲がった物陰にも、何人かの気配がある。
十五人を数えた時点で、シェルフィンが気配を数えるのをやめた。
シェルフィンに殺意を抱く連中は、全部で二十人近くいる。
掃除しながらも、シェルフィンが気配を探る。
黒龍小路は、名前の通り狭い道だった。
敵が何人だろうが、一度に掛かって来れる人数は限られる。
押し殺した殺気だが、陽炎のように男達の周囲に漂っている。
「あたしが、老虎の主人と知ってのことかい?」
シェルフィンの言葉に機先を制され、男達の動きが一瞬停まった。
「お客さんは歓迎だけど、どうやら望まれざる客だねぇ」
シェルフィンは、振り向きもしなかった。
掃除の手を、止めようともしない。
殺気が、膨れあがった。
「刃を向けられるのは、久しぶりだわ」
無言で、男が突進してきた。
腰に据えた手に、短剣が光る。
「!」
不意に、男の視界から、シェルフィンの姿が消えた。
とたんに、頭から水を浴びせかけられた。
「未熟だねぇ」
木の手桶を手にしたシェルフィンが、かすかに目を細めた。
いつの間に位置が入れ替わったのか、シェルフィンが男の背後に立っていた。
「ちぃっ!」
男が振り向きざまに、短剣を振り上げた。
手桶が踊った。
鈍い音とともに、男がのけぞった。
口から、鮮血と折れた歯が飛んだ。
シェルフィンに手桶で殴られた男が、二、三歩後方によろめいた。
当たったのは、手桶の胴や底ではない。桶の縁が、男の前歯を打ち砕いている。
「ふーん」
シェルフィンの両目が、すっと細められた。
周囲の空気まで冷たくなるような、凍り付く殺気だった。
どこかで鳴いていた鳥の声が消え、黒龍小路を静寂が支配する。
シェルフィンを、別の殺気が右から襲う。
「そんなんじゃ」
シェルフィンが反転した。シェルフィンの動きに合わせて、長い黒髪が踊る。
「あたしは切れないよ」
蝶が舞うような華麗な動きで、刃をよける。
即座に、左側からも刃がシェルフィンを襲う。
「せっかちだねぇ」
シェルフィンは、わずかな動きで刃をやり過ごす。左右からの連携攻撃にも動じない。
シェルフィンの右手が、微かに動いた。いや、微かではない。目にとらえられないほど速い動きだった。
濡れた手拭いが、毒蛇のように疾った。
「ぎゃっ!」
目を押さえた男がうずくまる。
濡れ手拭いが、男の目を打っていた。
倒れた男達が下がり、後方に控えていた連中が代わりに前に出る。
二三人を倒しただけで、簡単に退くような連中ではない。
シェルフィンが反撃に転じた。
相手の攻撃に合わせて、前に踏み込む。
濡れ手拭いが空気を切り裂き、残酷な凶器と化した。
顔に張り付いて目を打ったかと思えば、反転して手首に絡みつき短剣を叩き落とす。
濡れた手拭いは、使い手によってはとんでもない凶器に変貌する。
シェルフィンが舞うたびに、鈍い音とうめき声が聞こえる。
手拭いが腕の骨を叩き折り、のど笛を打たれ、次々に戦力が削がれていく。
時間にして、ほんの小半時もない戦いだった。
「退け」
誰かの声に、包囲が解けた。
じりじりと、男達が後退してゆき、やがて黒龍小路から男達の姿が消えた。
「無粋だねぇ」
逃げてゆく連中の背中を見送りながら、シェルフィンが呟いた。
助けを呼ぼうとも、敵を追おうともしない。
「天狼に喧嘩を売ってくるとは、いい度胸してるよ。
でも、その割には腕がへぼだったわね」
そう呟いたシェルフィンは、掃除を再開した。
◆
アンガス候の所領の中にある大きな池の向こう岸近く、池の中にある小さな島を土台として大きな邸宅が建っている。
純白の石組みの柱を持った神殿を思わせる御殿だった。
まだ建築途中ということもあり、あちこちに木の足場が組まれ、帆布で外部の大半が覆われている。
「奇妙な建物です。足が地に着いていないと言うか、池に浮いているわけでもない」
ノーマが、簡単に構造を説明する。
池から顔を出したいくつかの大岩が、柱の基礎になっている。
大岩が支えるアーチ状の梁が建物の加重を支え、上から床を釣り下げている。
これだけの建造物を造れる大工は、極めて少ない。
机上の図面の中にはあっても、実物を造るとすればどれだけの費用が掛かるかわからない。
「こんな特殊な建物を設計できる人間は、シドニア大陸中でも限られます」
「天狼?」
リアンが、小さな声で訪ねた。
「おそらくは」
「天狼が、こういうことに力を貸すかしら?」
「異能者集団は天狼だけではないので、子細はわかりませんね」
「こういう事の調査となると、短時間では限界があるわね。
やはり、私達も天狼の力を借りるしかないかしら」
ブランとノーマの調査は、詳細を究めていた。
建物の外寸、構造までを詳細に調べていた。遠目でわからぬ内部の構造までが手に取るように把握できる。夜陰に乗じて建物に侵入しなければ、とてもここまでは調査しきれない。
「これは、直接行くしかないわね……さすがにこれは、私達だけでは手に余るわ」
リアンが呟いた。
◆
「おや、お帰り。
今日は、戻りがずいぶん早かったねぇ」
サキがリュードを連れて老虎へ戻ったのは、昼過ぎだった。
「ちょっと頭を整理したくて」
サキが、椅子に腰を降ろした。サキのかなり疲れた表情に、シェルフィンが奥の厨房に立った。
「今、お茶を入れるわ」
「シェル姐さん、ありがとう。
今日はね、港を張ってたの」
「港?」
「ドーンの交易船よ」
サキが、港で目撃したドーンの謎の光景をかいつまんで話し始めた。
◆
ドーンの店を運河の反対側から監視していたサキとリュードの視界にドーンの紅白のターバンと青と黄色の服装が飛び込んできた。
ドーンが外出するのは珍しい。
「見つけて下さいと言わんばかりの格好だな」
リュードが呟いた。
雑踏の中でも、ドーンの派手な紅白のターバンは目立つ。
追跡が不得手な人間でも、見失いようがない。
「だが、どうもそこが臭いんだよな」
「臭いって?」
「わざと目立つようにするってのがな。あんな派手な衣装でうろつけば嫌でも衣装が目に付く」
小舟に乗ったドーンが、港に停泊している帆船に向かっている。
遠くから見ても、紅白のターバンでドーンということがわかる。
「あの三角帆の船、南の方に回る交易船だな」
外洋に乗り出すには少し小さいが、沿岸沿いに進むなら、このくらいの大きさでも大丈夫なのかも知れない。
「積み荷の確認かな?」
交易船も派手だった。木造の船体が緑色に塗られ、港に停泊する船の中では一番派手だった。
船腹には、いくつかの小舟がつながれ波間に揺れている。
ドーンが、器用な身のこなしで縄ばしごにつかまり船の中に消える。
しばらくして、甲板にドーンが上がってきて、何やら船員に指図している。船員も南方系なのか、ドーンのような黒褐色の肌をしたたくましい男達ばかりだった。
「荷降ろしかしら?」
「普通は、接岸して荷降ろしするんだがなぁ」
いくつもの木箱が、小舟に降ろされてゆく。
ドーンの交易船から離れた小舟が、運河を都の方へと遡っている。
また、別の小舟がこぎ寄せられ、ドーンの交易船に接舷した。
そんな光景が、半刻ばかり続く。
しばらくして、リュードの舌打ちが聞こえた。
「ちっ、やられたぜ」
「えっ?」
「あのドーンは、偽者だ」
「ええっ?」
「あの姿形に、だまされたんだよ」
「じゃあ、本物のドーンは?」
「最初から外出してなかったのか、あの小舟で脱出したか……いずれにせよ、甲板に立っている紅白のターバン姿の男は、ドーンじゃない。体格も違うし、動き方もずっと若い」
ドーンが、怪しい動きを見せていることは確実だが、乗り込んで調べるわけにも行かない。
「あの小舟……どこへ行ったんだろう?」
「どこへ? ドーンの倉庫じゃないの?」
「小舟は、運河の別の支流に入っていったぜ……行くとするとアンガス候の屋敷の方だ」
「アンガス候の御殿を、ドーンが建ててるって話じゃない?」
「ああ……でも、この刻限に遡ったら、着くのは夕刻から夜中だぜ。
薄闇の中で、運河の支流に小舟を入れるかな?」
◆
「ふーん、いよいよ怪しいわね」
サキの報告を聞き終え、シェルフィンが眉根を寄せた。
その時、いったん戸口に戻って外へ顔を出したリュードが、老虎の店内に戻ってきた。
「シェル姐さん、何か一悶着があったんじゃないのかい?」
シェルフィンが、眉をぴくりと動かした。
サキは驚いて、リュードとシェルフィンの顔を交互に見上げた。
一瞬の沈黙の後、シェルフィンが老虎が襲われたことを話し始めた。
「怪我は? 大丈夫だったの?」
サキの問いに、シェルフィンが手をひらひらさせた。
「この程度の騒ぎ、たいしたこっちゃないわ」
「たいしたことあるわよ」
サキは、十人以上に襲撃されても動じないシェルフィンの度胸に驚いた。だがそれよりも、そんな事件があったことを顔に出さないシェルフィンと、それを簡単に見抜いたリュードの勘働きに唖然としていた。
「お姫さんが心配するだろうから、黙ってたんだけどね……でも、リュードにはあっさりばれちゃったわね」
「入り口の前の石畳の上に、こんなもんが落ちてた」
リュードが、机の上に何かを包んだ小さな紙片を放り出した。
紙片を開くと、血の付いた折れた歯が顔を出した。
シェルフィンが、ぺろっと舌を出した。いたずらを見つけられた子供みたいな笑顔だった。
「おや、掃除しそびれちゃってたわねぇ。
血は洗い流したんだけど、叩き折った歯を捨て忘れてたわ」
シェルフィンが、恐ろしいことを平然と言ってのける。
「追ったの?」
「追わないよ、あんなの。金で雇われた雑魚みたいだったから、捕まえて口を割らすだけ時間がもったいないもの」
シェルフィンが肩をすくめて見せた。
「あの程度の連中なら、十人や二十人かそこら簡単に集まるわ。そのうち見つかるでしょ」
サキは、あっけにとられていた。
シェルフィンが、サキの方に顔を向ける。
「警告のつもりか、挑発のつもりか……いずれにせよ、面白い騒ぎになってきたんじゃない?」
「面白いって、シェル姐さん……」
「投入するのはリュードだけで、十分だと思ってたんだけどね。
老虎に喧嘩を売ってきたんだから、喧嘩を買ってあげなきゃ失礼になっちゃうものね。
微々たるものかもしれないけど、黒龍小路の天狼全部がお姫様に力を貸すよ」
微々たるものなどと、シェルフィンがうそぶいているが、サキにはそうは思えなかった。
怒り方は人によって違う。サキが炎だとするとシェルフィンは氷のような怒りだった。
「お姫さんは、これから何が起きてもびっくりしないでね」
シェルフィンの微笑みに、サキは背筋に寒気を覚えた。
シェルフィンの怒りを抑えた静かな言葉で、微々たるものという言葉がかなり控えめなことが理解できた。
その時、老虎の扉がノックされた。
戸口から入ってきた無精髭の大男に、サキは見覚えがあった。
大工のレオだった。妻のマリアと正反対に寡黙な男だった、
「あら、レオさんじゃないの」
「サキ様、うちの家内とチビどもがお世話になっております」
レオは、下町のスタンとハトルの父親だった。
レオの職業は大工、というより工匠だという。城の跳ね橋や城門の機械仕掛けの開閉装置などを設計し、大工を率いる立場だった。
この男も、天狼だった。
「全ての異変、不審な点を思い出せ、というシェルフィン様からの通達で、気になることを思い出しましたので親方に相談したら、サキ様に直接お話ししろと」
レオは、持参した図面を机上に拡げた。
「二年も前ですが、こんな一階の床ごと二階に持ち上げるからくりを、ドーンに依頼されて図面を売りました。
普通は、施工まで請け負うんですが、異国で使うからという理由で図面だけを提供いたしました」
レオが、拡げた図面を示す。
「最初は、重りを落とす力で鎖を介して床を巻き上げる仕組みをご提案したのですが、巻き上げ音が大きいのと重い荷物の載った床を上下させられる強度を持ったものが欲しいとのことでしたので、歯車と螺旋のネジを組み合わせて、ゆっくりでも強い力を出せるからくりに変えて図面を引き直しました。船の錨の巻き上げ機と同じようなからくりですね」
レオの言葉に、リュードが反応した。
慌ててその図面を凝視するなり、シェルフィンに目を向けた。
「シェル姐さん、紙とペンあるかい?」
「はいよ」
シェルフィンが展開を予想していたのか、即座に紙とペンが出てきた。
「レオ、こういうことは可能か?」
リュードが手に持った羽根ペンが紙の上を踊り、簡単な図を描いてゆく。
「これは、一階のものを二階に引き上げる仕掛けだが、下に穴を掘っておいて一階のものを下に沈めるって訳だが」
「技術的には可能ですよ。ただ、穴を掘る手間が掛かりますから、建築に費用はかさみますが」
「昇降のからくりは、どこに置けばいい?」
「上でも下でも出来ますが、この構造からすると、やはり地下の方でしょうかね」
「ふむ、なるほど……レオ、ありがとう。助かったよ」
レオが去ってから、リュードがシェルフィンに視線を移した。
「レオのおかげで、ドーンの金蔵からお宝が消えて魔除札にすり替わった方法がわかったよ。
盗まれたんじゃない。地下に隠してある。おそらく魔除札の盗賊が盗んだ金品も同じ場所に眠っているはずだ」
「じゃあ、天狼の誰か、手練れに探らせるよ」
「今夜中にやってくれ、それもドーンの奴らに気が付かれないようにな」
「あいよ。そっちはあたしに、まかしときな」
「ちょっと、リュード!」
サキの抗議に、リュードがサキの方に顔を向けた。
「多少非合法な真似するが、今回は目をつぶっててくれ」
「非合法?」
「お姫さん、あたしからも頭を下げるよ。
あたしの顔に免じて、許して欲しいのさ。
天狼が総力挙げて、魔除札の盗賊を追い詰めてるんだから、多少のことには目をつぶっておくれ」
シェルフィンにまで頼まれると、さすがにサキも黙認せざるを得ない。




