幕間 魔王ルドルフ
生まれた瞬間のことは、よく覚えている。
ずいぶん驚いたものだ。
「このか弱い生き物は、何なのだ?」と。
それが自分の母親だと知ったのことは後のことだ。
そして、このか弱い生き物が己の庇護者だという。
いったい何の冗談だろうと訝しんだ。
だが、彼女は本気でそう言っている。
ならばそれに付き合ってやろう
そう思える度量は、この頃から持ち合わせていた。
だが、気に食わないものもある。
「俺の子にしては、ずいぶん弱っちそうだなあ?」
ずいぶん偉そうにしている生き物
母親より多少は強そうだが、誤差にすぎない。
この瞬間にもこいつの息の根を止めることは可能だったろうが
「やめてください。あなたと、私の子です!」
こんなか弱いにもかかわらず、必死で己の子を守ろうとする母という生き物の姿を見て
「貴様の罪、免じてやろう」
そう、言ってやる気分になった。
こちらの声に二人はぎょっとした顔をして振り向くが、幻聴だったのだろうとそれぞれ納得したようだ。
どうも、声を出すのは早すぎたらしい。
この場にいるものを全て始末して旅立つことも考えたが、
まだまだ知らないことが多すぎる。
まずは色々、学ばせてもらうとしよう。
そう、余は考えた。
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どうも赤子というものは、思考もできなければ言の葉も紡げぬものらしい。
不便極まりなく、承服しかねる。
だがそれが常識ならばと、従ってやることにした。
母の乳を吸い、あやされれば笑いと、赤子らしい行動をした。
「坊ちゃまは夜泣きもせず、本当に育てやすい」
そんな言葉を聞きながら、夜は書物に目を通していた。
そして段々とこの世界のこと、そして自らの状況が理解できてきた。
余が生まれたのはジェンガという一族の本家。
ジェンガとは古来より続く剣の名門。
世界を大魔王が支配していた時代から、剣一本で戦い抜いてきたという。
余を愚弄した者、余の父こそが当代の当主であるという。
あのような弱卒が当主とは、血筋だけの一族に成り下がったのだろうか?
だが、それは余の勘違いであった。
あれでも、十分強いのだ。
人の中では。
「ま、参りました!」
余が数えて三つの歳、初めて道場に連れてこられた。
多くの者達が鍛錬をしている。
世界に冠たる剣の一族、その繁栄を体現していた。
ただ
「弱すぎる」
どれも棒をもって遊んでいるに等しい。
余ならば、今すぐにこの場にいる全員を叩きのめすことができる。
これに比べれば、父はまだ強いといえるのだろう。
この道場の外の者どもは、さらに弱いのであろうか?
その想像に背筋が寒くなる。
そのような弱い生き物が世界の半分を制するという現実が、理解し難すぎて。
「ルドルフ、稽古をつけてやろう」
余の困惑の原因を勘違いしたのか、父がそのようなことを言ってくる。
「お前は俺の子だ。つまり、ゆくゆくはこの場にいる全員の師となるべき者。それがこの程度の鍛錬を見てうろたえてるようではな?試合など見たら卒倒するのではと心配になる」
母は早すぎると止めていたが、女が口出しするなと突き放された。
稽古など興味はなかった。
だが尻もちをつく母を見て、気が変わった。
「では、喜んで」
そう言って木刀を受け取り、父の前に立つ。
自分の背丈より長い木刀をもつ姿を見て、父は嬉しそうに笑っている。
そして次の瞬間、その顔は驚愕へと塗り替えられた。
「一本、ですかね?」
胴への一撃
これが真剣であれば、真っ二つになっていただろう。
余が本気で打ち込んでいれば、この木刀でも同じようなことはできただろう。
だがそれは、今すべきことではない。
そう考え、優しく打ち込んでやった。
そして、父は気づいたようだ。
自分が、手加減されていることに。
「う、うむ!一本だな!いや、さすがは俺の息子だ!まんまとしてやられたは!はっはっはっはっは!」
必死で表情を取り繕い、笑い出す。
その場にいる弟子たちは「さすが坊ちゃま!」「ジェンガは次代も安泰ですな!」などと騒いでいる。
沸き立つ場を尻目に、父はそそくさと場を後にする。
その顔は、病人のように真っ白だった。
そしてその後、余が成人して当主を継ぐに至っても
父と再び剣を交えることは、一度としてなかった。
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ジェンガ家当主、ルドルフ・ジェンガ
余の当主襲名に最も喜んだのは、母だった。
そして当主になったのなら早く孫の顔をとせがまれた。
見合いというものが設定され、最初に会った娘と婚姻を決めた。
子はすぐに生まれ、孫を抱いた母はたいそう喜んだ。
それで安心したかのように、母は逝った。
「今までありがとう。あとは、あなたの好きにしていいからね」
それが、母の間際の言葉。
気づいていたということに、初めて気付かされた。
全く悟らせないとは、なかなかやってくれる。
余に一目置かせるだけはあったと見えて、思わず笑ってしまった。
その笑みを見た母の表情は、本当に安らかだった。
そして母を見送り、余は自由になった。
父はまだ存命だったが、自ら交流をもとうとはせず、こちらから近づくこともはなかった。
余を縛るものは、何もない。
元々存在していなかったが、母は鍵のかかっていない扉のような存在だった。
いつでも開けられるが、開けようと思わなければ出ていくことができない。
そんな存在。
母がいなくなったことで、余は完全に解き放たれたのだ。
ただ、数十年にわたって過ごしてきた”普通”の生活。
ある意味、余はこれに慣れてしまっていた。
このまま同じ生活を続けてもいいかと思えるほどに。
この刺激のない生活を、死ぬまで続けてもいいと考えてしまうほどに。
余は、飽いていたのだ。
この世界に。
多くの書物を読み、多くの人々に会った。
余が異常であることは疑いようがない。
そして余よりも強い存在など、この世界に存在し得ない可能性があることも。
人は弱い。
その中の例外、人類最強
剣を持つと同時に余はその一人に数えられるようになった。
余とまともに戦えるのは、人間では彼らだけだろう。
だが数百年の長きに渡り人類最強であり続ける魔法王も
代々人類最強の名を受け継ぎ続ける聖王も
そして、かつて人類を救った英雄である解放王ですら
余を倒すことはできない。
そう、確信していた。
ならば魔族はどうだろうか?
かつて世界を支配し、人類を奴隷と使役した化け物たち
魔王の中には天地創造の時代から生き永らえている者すらいるという
彼らなら、この退屈を紛らわせてくれるのだろうか?
そう思いつつ、動くことも億劫に感じている己がいる。
ままならんな、と思いつつも日常は続く。
「父上!」
息子も大きくなった。
余の子供とは思えぬほど弱い。
そして己がジェンガだということに誇りを感じ、余のことを心から尊敬している。
本当に血の繋がりがあるのか疑問になるほど、余に似ていなかった。
「今日も、稽古をつけてください!」
余には人へ教える才能はなかった。
だが皆が手本にしたがるため、何度も手合わせをする。
これを稽古と呼んでいいのかはわからなかったが、せがまれれば断る理由もなかった。
道場へ行き、木刀を持つ。
いつものように息子の剣を交わして寸止めする。
そのとき、気づいてしまった。
自らの衰えに。
考えれば当然だ。
余はすでに三十路を過ぎている。
生物としての絶頂の時期はとうに過ぎさり、あとは下り坂を転がり落ちるだけだ。
そして生まれてはじめての感情が沸き起こった。
それは、恐怖
何も成さず、何も成し得ず、何も残さず
このまま自分は老いて衰えていく。
その事実が、不思議なほど怖くなった。
怖くなり、飛び出した。
全てを捨てて、飛び出した。
そしてその足で、魔界へとやってきた。
魔王と自称する者たちと何度か出会った。
どれも弱く、一瞬でただの肉塊となった。
古き魔王と呼ばれる者も中にはいたが、同じだった。
余の敵では、なかった。
魔界の北端、大陸の北端、この世界の最北端
そこに鎮座する大魔王城
そこの主ですら、例外ではなかった。
延々と口上を述べた口
それをぽかんと開けたままの首が、足元に転がっている。
人類史上、解放王と魔法王しかなし得ていない大魔王討伐
その偉業をなしえた三人目となったにもかかわらず
心はひたすらに空虚だった。
自分はいったい何のために生まれてきたのだろうか?
いったい何をすれば満足できるのだろうか?
そう思った瞬間、体が光に包まれた。
そして余は、神と謁見したのだ。
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魔王ルドルフ
最も新しく、最も強い魔王
史上初めて、魔族ではなく人から魔王になった存在
彼がその気になれば、直ちに大魔王になることすら可能だったろう。
だが、彼はそうしなかった。
何かを求めるように、何かを待つように、ただ己の研鑽を極めていった。
襲いかかる者は全て切り裂いたが、自ら他者を襲うことはなかった。
己以外の何物にも興味がないかのごとく
ジェンガの名を、史上最強の剣の一族から魔王を排出した人類の怨敵の一族へと変えたことも
彼は、一切興味を示さなかった。
彼の妻と息子がどうなったかすら
関心を寄せる素振りすら、彼にはなかった。
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「小僧、貴様は余の息子の息子というわけか?」
ガリバーを倒した人間の男
そこそこやるようだ。
「そうらしいな。じじい、あんたのことはバカ親父から散々聞かされたぜえ。そして念仏のように繰り返されたもんだよ。”お前がジェンガの名を再興させるのだ”ってな」
吐き捨てるように
いや、実際吐き捨てているのだろう
この男にとって、その言葉は呪いにも等しいのだ。
「余が去った後、色々あったようだな」
特に興味もないが
そして目の前の男も、興味はなさげだ
「別に。単に一族まるごと魔王の一味扱いされただけさ」
「そうか」
それがどんな意味をもつのか
余にはわからないし、わかりたいとも思わない
余には、どうでもいいことだ。
「まあいい。おしゃべりはここまでだ」
そう言って、構えを取る。
荒さが目立ち、殺意だけがむき出しになった構え。
まだまだだな。
「小僧、お前は何か、なりたいものがあるか?」
なのに、ふと聞きたくなってしまった。
男は間髪入れず答えてくる。
「ないね」
そこには一切の迷いがなかった。
それを見て、少しだけ虚をつかれた気分になった。
「なるほど」
孫とは、少しだけ似ているところがあるらしい。
「ジェンガ、と言ったな?」
「ああ」
我が姓と同じ名をつけられた男
呪いのごとき名をもつ孫
悪くはない。
「では、死合おうか」
久方ぶりに、滾ってきた。




