118話 クレス・ヒュドラ
クレス・ヒュドラ
ヒュドラ連邦最後の大王。
母ラクスに溺愛され、蝶よ花よと箱庭で育てられた少女。
国を治める覚悟もないまま玉座に座らされ
最初は官僚たちの操り人形になり
次はエキドナ・カーンの張子の虎となり、
最後はドルバルに売られたあげく、エキドナに簒奪された。
万能の天才と呼ばれた初代大王、ヘラス・ヒュドラ
連邦を大陸最大国家に押し上げた二代目大王、ラクス・ヒュドラ
そんな傑物とは対象的なまでに凡庸な、一人の少女
今ではこの都の王宮の片隅で、少数の侍女たちと日々を過ごしている。
だが、今の彼女を気にする者などほとんどいない。
かつて人類の覇者に最も近いと呼ばれていたとは思えないほど、
いまや彼女や人々の記憶から消えかけていた。
ただ一人、ハンニバルという男を除いて。
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「姫様は最近はずいぶんと調子がよくなられまして、癇癪を起こす回数も激減しております」
癇癪を起こさなくなったわけではないんだな。
そんなことを思ったが、さすがに口にはしない。
それくらいの配慮はできる男なのだ。
ハンニバルは毎日、朝と夕に必ずクレスのところに顔を出す。
最初は会話にもならなかったが、彼は根気良く通い続けた。
最近ではハンニバルが来るのを心待ちにしているフシがあるらしい。
「ただまもなく開戦です。すると儂は当然前線に赴きまする。そのとき姫様がどうなるか心配でして…」
元連邦出身者は彼女に恨みをもつものが多くいる。
戦争末期ドルバルによってそのように仕組まれた。
侍女たちは心から彼女に仕えているようだが、彼女たちでどこまで防げるか。
「身辺についてはもちろんですが、姫様の精神状態も…」
ハンニバルによって正常さを取り戻してきたクレス
ではハンニバルがいなくなったらどうなるだろうか?
答えは火を見るより簡単だろう。
彼が通い始める前に戻るのだ。
「で、俺に相談に来たと?」
ハンニバルは真っ白な頭を下げ、頷いた。
「お恥ずかしい限りですが。ぜひ陛下のお力をお貸しいただきたく」
俺に何ができるというのだろうか?
身辺警護だったらよしなにしてくれればいい
クレスの心を開くという点に関しては、俺など門外漢もいいところだ。
そもそもいまだ顔を合わせたことすらないのだから。
俺が彼女になにか言っても響くことなど何もないだろう。
ただだからといって、頭を下げるハンニバルを無碍にはできるはずもない
「わかったよ。俺にできることがあるなら何度も言ってくれ」
「ありがたき幸せにございます」
そしてハンニバルは口を開く。
彼の願いを言うために。
「聖王陛下、ヒイラギ様にお口添えをいただきたく」
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「水臭いなあ。直接頼んでくれてもよかったのに」
聖王アオバ・オウル
しかしてその正体は解放王、ヒイラギ・イヅル
彼女こそこの世界のあらゆる王族の祖
人類を魔族のくびきより救い出した、神話の英雄
解放王と呼ばれる所以だ
そんな彼女に力を貸してもらう理由、それは
「あくまで儂個人のことですし、何より自分で言うのは憚られまして…。姫様があなたに憧れているので、力を貸してほしいなどと言うのは…」
そう、クレスは解放王に憧れている。
神話の中、絵本の中の存在であった解放王
偉大なる自分の祖先に憧憬を抱き、それは神を崇めるかのごとくだったという。
エキドナを溺愛したのも、彼女が柊と同じ黒髪黒目だったのがきっかけらしい。
「もしや俺も…?」と思ったが、性別が違うので関係なかった。
さすがに子孫である王族たちは、柊が女性だということを知っているようだ。
中には例外もいるようだが。
「憧れ、ねえ…」
柊が苦笑している。
今までどれだけこんな感情を向けられたのだろうか。
俺のように勘違いではなく実力で憧れを勝ち取った彼女の心中など、想像しようもない。
「まあ、他ならぬリク君とハンニバル将軍からの頼みだ。私も人肌脱がせてもらおうじゃないか」
一転、いつもの笑顔
「ありがとう!」
「感謝申し上げます、ヒイラギ様」
柊の胸の内はわからない。
ただ彼女の好意に感謝をし、できるだけのことをしてみよう。
「天の岩戸は、開けるのかね?」
「まあ、私達次第かね」
元の世界の神話の物語
こういう話をするとき、柊はいつも可愛く笑うのだ
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王宮の片隅、花畑に囲まれた離れ
そこに訪れると同時、黄金の輝きがハンニバルに飛び込んできた。
「ハンニバル!」
「姫様、お元気そうでなによりです」
優しく抱きしめるハンニバル
その黄金の輝きこそ、クレス・ヒュドラだ
まるで本物の金のように輝くブロンドヘア
陽の光を浴びたことがあるのか疑いたくなる、白い肌
あどけない表情は保護欲を掻き立てられる
文句の言いようもない美少女
これが、生粋のお姫様かと息を呑んでしまう。
ハンニバルと楽しそうに会話をしていたが、こちらに気づくと表情が一転する。
「ハンニバル、この人達、誰…?」
ハンニバルが少し顔をしかめる。
「姫様、お言葉が過ぎますぞ。この御方こそ、全人類を率いて大魔王に立ち向かわんとする、英雄の中の英雄。英雄王、リク・ルゥルゥ陛下でございます」
たいていの人はここで「ははー!」という感じになるのだが、彼女は一味違う
「ふーん」と言うだけで、特にひれ伏すこともない。
その視線からは俺など全く興味がない、ということがありありと伝わってくる。
こっちの世界に来る前は当たり前だったその視線
むしろ懐かしくて嬉しくなってしまう自分がいる。
もしかして俺、そっちの趣味があったのだろうか?
そんな俺など目に入っていないのだろう。
注意しようとするハンニバルを柊が止めに入る。
「まあまあ。それより私だけ置いてけぼりは寂しいな。私のことも、紹介してくれるかい?」
「これは失礼しました」
ハンニバルは居住まいを正し、柊を紹介する。
「姫様。こちらの方は聖王国が主、聖王陛下でございます」
「聖王国というと、大叔母様の嫁ぎ先のおうちだったかしら?黒髪黒目で、素敵ね」
やはり性別は重要か
「ただ姫様、よくお聞きください」
「私はいつもハンニバルの言うことはよく聞いてるわよ?」
「いつもよりも、さらによくお聞きください」
「はーい。それで、なあに?」
鈴の音のような声色
あどけない笑顔
そこに向かって、ハンニバルは口を開く
「このお方の真の名前は、ヒイラギ・イヅル。かの解放王、ご本人であらせられるのです」
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衝撃に体が打ち震え、言葉もでない。
などということは一切なく、むしろ反応は真逆だった。
「ハンニバル、あのね、解放王は神話のお方なのよ…?はるか昔、お祖母様どころかお祖母様のそのまたお祖母様も生まれる前の時代のお方なの」
まるで自分の大好きなじいやがボケてしまったとでも言わんばかり
「ひ、ひめ、さま?」
ハンニバルも衝撃を受けている。
まさかの反応だったのだろう。
俺もまさかだ。
その哀れむような表情が俺たちの心をえぐってくる
「まあ、普通は信じないよね」
この氷点下の世界の中で口を開けるその豪胆さ
さすが真の英雄、解放王
「疑うのも無理はないよ。むしろ最初から信じてくれたそこの御方が規格外だっただけさ」
なぜか褒められてる気がする。
「改めて自己紹介させていただこう。私の名前は、柊伊弦。人類史上初めて大魔王を誅滅し、大陸の南半分を人類の世界へと解放した者たちの一人さ」
”一人”?
「何か、含みがあるような言い方ね」
クレスも気づいたらしい。
「別に。ただの事実さ。私達は協力して旅をし、戦い、大魔王を倒した。ただ最後まで立っていたのは私だけだった、それだけのことさ」
「解放王の功績は、複数人によるものだと言いたいの?」
「違うね。解放王は押し付けられたんだよ。多くの英雄たちの功績を、たった一人の人間にね」
「その理由は?」
「もちろん、都合がいいからさ。人は英雄を望む。英雄は偉大であれば偉大なほどいい。それだけさ」
「各国の、王族にとっても?」
柊が笑う
さっきの笑顔とは、全く異なる表情で
「よくわかってるじゃないか。”解放王の血を引く”それがこの世界の王族の絶対的な条件だ。解放王の子孫にだけ許される、王族という圧倒的な地位。それを守るには、解放王はどれだけ偉大だろうと、過ぎることはないのさ」
「そういう、ことね…」
クレスは天を仰ぐ。
花に囲まれながら空を見上げる美少女
まるで絵画のような光景だが、その姿は決して明るいものではなかった。
「わかってはいたの」
そこから、クレスの独白が始まった。
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お祖母様は万能の天才だった。
それは誇張でもなんでもない。
文字通りの、天才だったの。
その天才の後を継いだお母様。
決して凡人ではなかった、むしろ傑物の部類だった。
でも、お祖母様にはとてもかなわなかった。
ある日お母様はお祖母様から言われた。
「あなたには、私と同じことができないのね」って。
お母様の心はずたずたに引き裂かれた。
そして、お母様は壊れてしまった。
ただ国を運営するだけの機械になってしまったお母様
でもそのお母様は、私を生んだことで人間に戻ってしまった。
そして、私を愛するだけの存在になってしまった。
私がそれに気づいたのは物心ついたころ。
無駄に賢しくて、自分がいやになる。
でも子供の私には何もできず、ただ探すしかなかった。
お祖母様にも認められたであろう存在
お母様が安心して任せられる存在
それが、解放王だった
こんな偉大な人物に私がなることはできない
でもそんな人が私の目の前に現れてくれれば
私に力を貸してくれば
きっとすべてが解決する
そう思って、そう願って
そして、エキドナと出会って
彼女ならすべてを救ってくれると思ってすべてを託し
気づいたら、私はすべてを失っていたの
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「ごめんなさい。すべてではないわね。ユキ、ミア、サーシャ、アンジェ、リーダ。いつもありがとう。そしてハンニバル、幼い頃からずっと私のことを守ってくれて、感謝してもしたりない。みんな、本当にありがとう」
横で聞いていたのであろう。
名前を呼ばれた侍女たちのすすり泣くような声が聞こえてくる。
彼女たちは理解していたのだ。
自分の主の苦悩を。
祖母のような天才ではなかった
母のような傑物ではなかった
だが、彼女は決して何もしなかったわけではなかった。
自分のできることをしようと考え、力を尽くし、それで全てを失った。
失敗することが間違いだというのならば、彼女は間違ったのだろう。
だが俺とて、たまたま勘違いでこの地位になった男だ。
なぜ彼女を責めることができるだろうか。
「後悔は、あるのか?」
俺の言葉に、クレスが反応する。
「もちろん。むしろ、後悔しかないわ」
涙に目を濡らしながらも、その瞳は死んではいない。
「そんなものは、今すぐ全て捨ててしまえ」
「なんですって?」
強くにらまれる。
先ほどのどうでもいい視線とは真逆だ。
「後悔先に立たず。過ぎ去ったことを悔やむのは時間の無駄だ。お前が見るべきは、未来だ」
「未来?」
「そうだ。なぜ失敗したかを考えろ。結果ではなく過程を思い出せ。どのような思考をしてその結論を出し、どう動いてどのように失敗したかを分析しろ。そして、成功するためにはどうすればよかったか、正解を導き出せ」
「…そんなことをして、どうするというの?」
自分に何を求めているのかわからないらしい。
そんなこと、決まっているだろう。
「二度と後悔しないため、だ」
拳を握りしめ目の前に突きつける。
「お前の未来は、お前の手で掴み取れ。その未来を明るくするために、失敗を反省し、二度と後悔しないために、改善しろと言っているんだ」
「未来…?私に、未来があるの?」
まるで未来でもなかったかのような言い草だ。
「当たり前だ。あるに決まってる。ただそれがどうなるかは、お前次第だ」
「未来…」
まるで噛みしめるようにその言葉を口にしている。
もうこちらのことなど気にもしていない。
ではそろそろお暇させていただこう。
「ハンニバル。俺はそろそろ失礼するぞ」
「陛下、ありがとうございました!!」
ハンニバルの大声で耳が痛い。
何か涙も流してるじゃないか。
「リク君、さすがだよ」
柊が俺を褒めてくる。
表情はずいぶん戻っている。
よかった。
自分の言ったことを思い出し、少し恥ずかしくなっていそいそと場を離れる。
説教なんて、俺の柄じゃない。
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「なんか、最近クレスが精力的に活動してるって」
「そうなの?」
雑談的にカルサが教えてくれた。
あれから数日も経ってないのに、クレスは色々動き出しているらしい。
「なかなか頭がまわるみたいね。残った王室財産の運用にも口出してきてるらしいけど、なかなか的確みたいよ。旧連邦の中には彼女に忠誠誓ってる人間もいるし、彼らもやる気になってるみたいね」
「それはよかった」
みんながやる気になってるなら、実にいいことだ。
「特に柊を慕ってるみたいで、彼女も可愛がってるみたい」
「それはよかった」
仲がこじれるかと思ったが、杞憂だったらしい。
「あと、英雄王陛下もずいぶんと慕われてるって」
「へ?」
カルサの声がまるで剣山のように感じられた。
「兄様、いったい何があったのか、説明してくれるわよね?」
剣山ではなく斬鉄剣だと気づくのは、その直後であった。




