夜のシトリン
トムラムは目を覚ますと、冷たい空気を感じた。薄暗い天井を見つめて、
(夜……か?)
上体をゆっくり起した。
(少し気分が良くなってる。
頭の痛みも、体のだるさもだいぶ消えている。
二日酔い……?
なったことはないが、症状から考えると、おそらくそうだ。
この肉体は、酒をそんなに飲むのか)
天井から白のレースのカーテンが四方八方につるされた、天幕が広がっていた。修業バカな彼にとっては無縁なもの。あきれたため息をついた。
(王子……俺には合わん)
ベッドの端により、両足を床に降ろすと、ざらっとしたものを感じた。
「ん?」
右手を床につけて、なぞってみる。
「砂……?」
青い月明かりが差し込む、丸い窓。動けるようになったトムラムは、裸足で床を歩いていき、顔を上げた。そこには、雲ひとつない空に月が綺麗に輝いていた。
少し落ち着きを取り戻した王子は、異変に気づき、
(いつも見ている月と違う気の流れだ)
昨日の朝、見た夢を思い出して、
『空には満月が輝き、冷たい空気が広がっている』
(同じ、気の流れだ。
あの夢を見たから、ここに来たのか?
それとも、ここのことを知らせるために、あの夢を見たのか?
では、あの人物は、この世界にいるということか?
どこだ?)
いつも通り、気を探ろうとするが、
(……出来ん。
探れん。
外に出て、探す)
確認するため、トムラムが廊下に出ると、臭覚が反応した。
(酒、食べ物の匂い)
次にどこからか、がやがやと騒いでいる人々の声が耳に入ってきて、
(何をしてる?)
部屋の反対側は、腹の位置までしか壁がなく、そこに手を置いて、下をのぞき込んだ。向かい側の階下に、たくさんの人が集まって、何かをしている。
何をしているのか確かめようとすると、背後から年老いた声がかかった。
「王子、お目覚めでございますか?」
トムラムは違和感を抱いた。
(気配がなかった。なぜだ?)
振り返ると、そこには誰もいなかった。
(いない? ん?
今は、気配がある。
おかしい)
少しだけ感じる気配をたどって、彼は視線を降ろした。
「!」
そこには、パルがちょこんと立っていた。彼の背丈は小さな子供くらいで、70cm程度しかない。しかし、姿形はどっからどう見ても、老人。
トムラムは素直に頭を下げた。
「すまなかった」
(休ませるために薬を飲ませたのは、俺のためだとわかっている)
王子の背丈の半分もないじいやは、首を横にゆっくり振り、
「いえ、とんでもございません」
(あなた様は、本当は心の澄んだ優しい方でございます。
怒り、思いやり、どちらも同じ胸の気の流れでございます。
胸の熱い気が間違った方向に進めば、先ほどのように人を傷つけようとしたり、破壊したりするようになるのでございます)
トムラムは向かい側の眼下に視線を向け、
「あれは、何だ?」
パルは当然というように、
「夕食会でございます」
トムラムは不思議そうに、リピート。
「夕食会?」
(どっからどう見ても、どんちゃん騒ぎに見えるが……)
「はい、毎日行っております」
(毎日、どんちゃん騒ぎでございます)
シトリンの王族は他国とは全然違かった。トムラムはあきれたため息。
「そうか」
(おかしな場所だ。
夜、物を食うとは。
俺の信条とは、正反対だ)
パルは王子にうかがいを立てる。
「王子、夕食はいかがなさいますか?」
(少し、肉体の疲れが消えた今、どのようにお応えになりますか?)
(夜は食わん)
トムラムはそう言おうとしたが、口は別のことを告げた。
「酒をくれ」
トムラムは目を少しだけ開いて、信じられない顔に。
(自分は酒は飲まない。
それは、感覚が鈍るからだ。
修業の妨げになる。
それなのに、わざわざそれを自ら望むとは……。なぜだ?)
パルは当然というように頭を下げた。
「かしこまりました」
(二十四年間、こちらで身に付いた習慣でございます。
それを変えるのは、並大抵の覚悟では出来ません)
去っていこうとするじいやに、トムラムは声をかけようとするが、
(いらない)
さらに驚くことが、自分の口から出てきた。
「肉料理を大量に盛ってきてくれ」
はっとして、自分の中を探ろうとする。
(自分は肉類は食べない。
それは、胸の意識が強くなり、制御が利かなくなるからだ。
落ち着いて、物事を追求することが出来なくなる。
すなわち、いい修業は出来ん。
それなのに、食べようとしている。なぜだ?)
困惑している王子へ、パルは振り返り、
「何になさいますか?」
(あなた様の心と体の問題でございます。
私目は、ただ、そばで見ていることしか出来ません。
あなた様の、五千年の修業の成果はその程度なのでございましょうか?)
トムラムは昨日、地球で一日中やっていたことと同じ対処法を開始。
(この星の中心を感じる。
いつもと感じる気の質が違う。
やはり、違う場所だ)
王子は自分の言いたいことを整理し、じいやへ訂正。
「いらん」
「かしこまりました」
(一時、制御することは、簡単でございます。
このまま、私目を見送ることは出来ますでしょうか?)
パルは王子の次の行動を予測しながら、去っていこうとした。トムラムは自分の体が勝手に反応して、パルへ右手を伸ばし、
(なぜ、止める?)
パルの肩に王子の手が触れると、じいやはトムラムへ振り返った。まだ、かろうじて、肉体を制御しようとしている王子に、打開策を提案。
「水を持って、参りましょうか?」
(お忘れでございます。
一番、大切なことを。
のどが渇いているために、体が熱くなり、制御出来なくなっている原因を増幅させております)
トムラムはじいやの言葉を聞いて、珍しくぼんやりした。
(さっき寝たのがいつかわからないが、陽あるうちから、いつの間にか夜になっていた。
その間、水分は取っていない。
それが原因のひとつになっているかも知れん)
正常に判断して、王子はじいやに低く短く、
「頼む」
だが、自分の内側に別の声がぐるぐると響き始めた。
“酒が飲みたい”
“肉が食いたい”
“なぜ、それが出来ない?”
“誰に迷惑をかけてるわけでもない。”
“なぜ、好きなことを好きなようにしてはいけない?”
“イライラを止めるには、自分の思う通りにするのが一番、効果的だ。”
“今日は疲れたのだから、もうこれ以上、我慢する必要はない。”
“…………”
“…………”
魂の奥底から、それらの意見に対して、ひとつの言葉が浮かび上がった。
(全て……いい訳だ)
トムラムの魂は肉体と対峙する。
(……我が出過ぎている。
今の自分は、胸の意識が強い。
だから、こうなる。
それを直すには、酒と肉類は厳禁だ。
いい訳をするのもダメだ。
それがますます、胸の意識を強くする)
戦い続けている王子に、じいやは一礼して、
「かしこまりました」
パルはトムラムに背を向け、廊下を歩き出した。
(我慢をすることが、その肉体は困難なのでございます。
先ほどまでは、未来は二つございました。
どちらの未来へ進むかの可能性は、半々でした。
しかし、今のトムラム様の状態から、一つの未来の可能性の方が高くなりました。
今夜は、五千年前と同じことが起きるかと存じます。
魂の意思が違っても、過程が違っても、未来を変えることは出来なかったようでございます。
あの方に、連絡を取って参ります)
王子は、じいやの後ろ姿をイライラしながら見送り、
(いかん。よけい、胸の意識が強くなる)
さらにそれを、強化するものが、トムラムの臭覚を容赦なく刺激する。
(酒と食べ物の匂い。
また、胸の意識が強くなる)
彼は自分の手が、怒りで震えていくのを感じた。
(どうする?
………)
熱くなってきているーー感情に流され始めた体で、必死に判断しようとするが、
(ここにいてはダメだ)
トムラムには、もう、それが魂の声なのか、肉体の声なのか見分けることが出来なかった。とりあえず、アンバランスなまま、いったん自分の部屋へ戻った。
しばらく、パルの持ってきてくれた水を飲みながら、降り注ぐ月の光を浴びていた。しかし、体のイライラ感はまったく減らない。
“なぜ、自分一人が我慢しなくてはいけない?”
“みんなは、自分の好きなようにしている”
“なぜ、自分は好きなように出来ない?”
トムラムはすっと立ち上がり、
(ダメだ。
じっとしていることが出来ん)
胸の意識がある人は、落ち着きがない。腹の意識のある人は落ち着きがある。普段のトムラムなら、後者。どんどん、肉体に飲み込まれ始めていた。
ソワソワ感を抱きながら、王子は廊下へ出た。背後から、年老いた声が、
「王子、どちらへ?」
(やはり、外へ行かれるのでございますね)
トムラムが振り向くと、パルが立っていた。王子はじいやが思っている通りのことを言ってしまった。
「外へ行ってくる」
(酒の臭いがする。
部屋に閉じこもってるとイライラする。
気分転換をして、直す)
『気分転換』という言葉が、どんな気持ちから来ているか、トムラムはもう気づくことが出来なくなっていた。五千年間の修業の成果が、完全に失われてしまった。残念ながら、悲劇の幕開けだ。
パルはとりあえず忠告。
「夜は、危のうございますよ」
(ご自分で止めることが出来ないものは、私目にも止めることは出来ません。
今は、もう、誰の言葉も、トムラム様には届かないでしょう)
トムラムは注意されたことに、さらにイライラして、
(ダメだ)
胸の気の流れを抑えるため、息を深くゆっくり吸いながら、
「ここにいると、気分が滅入る」
(感情を抑えることが出来ん)
パルは静かにうなずいた。
「さようでございますか」
(あの方はとても厳しい方でございます。
今のあなた様にとって、多少の代償が必要だとおっしゃっていました。
トムラム様、ご覚悟下さい)
代償が何なのかわからず、トムラムは自分の感情を抑えながら、
「外はどっちだ?」
パルは王子の言葉に素直に従った。
「こちらでございます」
ふたりは夜の宮殿内を歩き出した。ザラザラという砂の足音を聞きながら、トムラムは酒と食べ物の匂いに必死に耐えていた。自分の中に、相反するふたつの声が死闘を繰り広げている。
“飲みたい”
(飲んではいけない)
“食べたい”
(食べてはいけない)
外へ近づくと、空気がさらに冷えてきた。そのために、ぼうっとしていた頭が少し冷静に。トムラムはあたりを見渡す余裕が出てきた。
綺麗にライトアップされた中庭には、大きな金の噴水があった。廊下は急がしそうに、料理や酒を運ぶ召使いたちが、うろうろ。彼らを見て、トムラムはまたイライラに襲われて、
“おいしそうだ”
“食べたい”
“飲みたい”
魂の奥底で、その声に従わないように、対処する。
(腹に意識を置く。
食べない。
飲まない。
食べれば、悪循環になる)
たくさんの従者や召使いとすれ違いながら、トムラムは何とか建物の外へ出た。
振り向くと、壁全体が金色で屋根はモスクのように、城はなっていた。トムラムは少し目を細めて、
(見たことがある)
五千年前の記憶が少しだけ戻った。
「いってらっしゃいませ」
(お気をつけ下さい。
本当に、危のうございますから)
パルは建物の中から、丁寧に頭を下げた。そして、上空を見つめ、心の中で、
『お願いいたします』
トムラムは宮殿に背を歩き出した。その頃になると、彼は大体の方向が、過去世の記憶から、顕在意識へと引き上げられた。
綺麗にライトアップされた門までの道を、一人歩いていく。見上げると、青い月といくつかの星が輝いていた。
その時、誰かが後ろから声をかけてきた。
「兄さん?」
「ん?」
(気配がなかった)
不思議に思いながら、振り向くと、トムラムはびっくりした。まるで鏡でも見たかのように、自分とそっくりな人がいた。
(誰だ?)
「外へ行くの?」
トムラムはちょっとイライラしながら、
「そうだ」
「今日は星が綺麗だからね」
自分とそっくりな人は、優しげに微笑んだ。肉体に操られて、トムラムは、
「そうか……」
適当に返して、また歩き出した。自分とそっくりな人は、城の奥へと向かって、あっという間に消えていった。
その頃、光り輝く地面を見下ろしているふたりがいた。
金色のふんわりとした長い髪を風に揺らめかせながら、流暢な英語が空間に鳴り響いた。
「Right, we were hit by the enemy. I wish I could kill her…….(そう、敵に先手を打たれたね。殺せたらいいのに……)」
春風のような柔らかな声なのに、末恐ろしいことを平然と言ってのけた。野太い声で、なよっと、ツッコミが。
「今のままじゃ、ふたつ前の時と同じになっちゃうわよ、きっと〜」
地上を見下ろしているふたりは、ある法則で、他の人よりも、はるか昔のことを覚えている。
金髪の人は、何の感情も持たない、威圧感のある声で、
「ヒューの件もあるからね」
「やってくれたわよね、あの女」
紫のサラサラな髪を耳にかけ、空を挑むように見上げた。金色の髪の人は、話題転換。
「あの話はどうなったんだい?」
紫の人は空から視線を外して、
「あれ〜? まだ、わかんないわよ、始まったばかりなんだから〜」
(ここだけじゃないのよ〜、世界は。大変なんだから、調整するの〜)
金髪の人は、純粋無垢な瞳に急に変わって、
「ボクの出番さん♪」
「あんた、何する気よ?」
「いいこと思いついたさん!」
ミラクルな香りが思いっきりする発言。金髪の人は、紫の髪の人の耳元で、こそこそ内緒話。それが終わって、野太い声が、面倒くさそうに、
「ちょっと〜、あたしの仕事、あんた、いくつ増やす気よ?」
金髪の人は、威圧感のある声にまた戻っていた。
「最後は混乱する。だから、平気? そうだった気がする?」
でも、思いっきり疑問形だった。思考回路が不安定な横顔に、紫の髪の人は、
「あんた、自分のこと、どうすんのよ〜。あんたのとこが一番、影響してるんだから、わかってる?」
「全員、殺ーー」
また、春風のようにふんわりした声が、恐ろしいことを口にしようとして、眼下に異変が。
「来た」
トムラムが門を出ると、宮殿とは比べものにならないくらい、真っ暗で何もなかった。
それでも、体が熱くなったトムラムは、気にせずに歩き続けた。疲れた心と体で、考える。
(宮殿にいると、欲望に負けそうになる。
だから、それに駆られないように外を歩いて、時を過ごす。
誰も止めなかった。
自分は大丈夫だ)
何の根拠もないことを、王子は信じ始めるようになっていた。
トムラムは、ヒューのように情報から可能性を導き出して、冷静に判断する術を持っていない。まして、セリルのような直感もない。
ひとつあるとすれば、体の中に流れる気の流れを感じ取るという勘だ。それは他の誰よりも、一番優れている。
トムラムの唯一の特性は、気の流れを利用して体を動かすこと。がしかし、それが今の自分に出来るのか、まったく調べずに、彼は歩いていた。
そして、代償となる出来事が起き始める。
砂漠に足を少し取られ気味のまま歩いていると、人の気配をふと感じた。
トムラムは気を探り始めて、
(右後方に一人。
左前方に一人。
殺気がある。
近づいてきたら、逃げずに相手が触れるのを待つ。
そして、合気をかけ、相手の動きを封じる)
魂で正確に判断しても、肉体が言うことを利いてくれなかった。
“すぐに、逃げる”
その気持ちが大きくなり、左後方へ勝手に体が動いた。
(いかん)
魂では思っても、体が勝手に走り始め、
(砂漠だ。
この体は歩き慣れていない。
とてもじゃないが、逃げ切れない)
トムラムの思考回路は本人が気づかないうちに崩れ始め、判断の仕方が少しずつ狂っていった。
(なぜだ?
なぜ、体が重い?
背丈は、1cm程度しか変わらないはずだ。
実質的な重みも同じ……。
では、何が違う?)
魂はさっきわかっていたことを、今やっと思い出して、
(胸に中心が来ているからだ)
不足している体の気の流れが、だんだん明らかに。
(縮地が使えていない。
肩甲骨が使えない。
肋骨が使えない。
合気上げ(*合気の技の中でも、相手に対して、力を上方向に飛ばす技)は無理だ)
合気が出来る条件がそろっていないのに、トムラムはなぜか対処し始めた。
(胸の熱い気は、相手に少し向かっている。
これを使って、相手との呼吸を合わせることは出来る。
軽い合気下げ(*合気上げとは逆に、相手に対して、力を下方向に押さえ込む技)は、出来るかも知れん)
敵と対峙するため、トムラムは立ち止まった。そこへ、別の声が自分の内側から、
“逃げる”
今度は魂の奥底から、
(逃げない)
そのふたつの意思で、トムラムは混乱したが、何とか決断した。
(逃げない)
気を再び、まわりに向けると、いつの間にか気配が増えていた。
(数、二十。
全員、自分に殺気を向けている。
いつもなら、簡単に倒せる数だ。
しかし、気が乱れている)
張り詰めた空気の中、さらに殺気の数が増えていく。
(五十。
殺気を持っていない者は、誰一人いない)
足元の砂を崩すように、風が吹き抜けてゆく。トムラムは静かに判断を下した。
(誰も自分を助けてくれる人間はいない。
自分で全員、倒すしかない)
その時!
敵との張りつめた空気が一気に崩れた。
(来る。
右前方。
右手の意識を高める)
トムラムは向かってきた人の手に触れた時に、体の違和感に気づいた。
(上手く、はらうことが出来ない)
「うわぁ……」
うめき声を上げて、敵は一人、砂漠に脱力したように崩れ落ちた。トムラムは命の危険が迫っているのにそれを気にせず、自分と対峙する敵に神経を向け、
(基礎的な動き、柔術(*柔道の元となった武術)を、この体は学んでいない)
そして、再び動き出した敵を、同じ方法で倒していく。
(左。
右。
後方。
右。
左……)
トムラムは十人やっつけた時点で、息が上がって来た。
(呼吸が乱れている。
この体は、動くことに慣れていない。
しかし、このまま続けるしかない。
戦うことを放棄すること、イコール、今の状態では死を意味する)
武術の達人の地位を完全に失っているトムラムに。次々と敵が襲いかかり、王子は同じように何とか払いのけて、
(後方。
右。
左。
右。
後方……)
そこで、敵の動きがぴたりと止まった。冷たい風が砂漠に、砂ぼこりと共に吹き抜けていく。異様な静寂が、死へと導くように、じんわり忍び寄る。トムラムは神経を研ぎ澄まして、
(数、五十。
増えている。
死ぬかも知れん。
だが、逃げることは、もう出来ん)
体が勝手に恐怖を感じ、心拍数が上がってくる。それを静めるため、トムラムは呼吸を整えようとして、
(宇宙を感じる。
体を上下に貫く、一本の線。
正中線。
……ダメだ。
高度な気の流れは、この肉体では出来ん。
仕方がない、別の気の流れを作る。
この星の中心を感じる。
そこから重たい、落ち着いた気を腹に入れる)
そこで、重大なことが自分の身に起きていることに気づいた。
(! さっきまであった腹の意識が、今はまったくない。
落ち着いた気の流れを作ることが出来ん。
恐怖心を取り除く術がない)
魂も地球の肉体とも全く違う、こっちの世界の肉体は。敵と対峙しながらでは、とてもじゃないが、制御できない。感情に流され、重大なミスを冒した。
次の瞬間、止まっていた敵が再び動き始めた。
(右。
左。
左……)
トムラムは胸の意識だけで、敵と戦い続けていた。そのために、急速に落ち着きが消えていき、体の中心がずれ始めた。もう、いつものやり方では、技を使うことができない状態に。
その上、心がさらに焦り出しーー感情に流されて、
(相手の支点がつかめない。
重心が奪えない)
呼吸がますます乱れて、
(左右両方……)
両手を動かした時、利き手ではない左手が少しずれて、何かが腕をかすった。体の異変を感じるが、敵と対峙している今、確認する暇はない。
(切られた……?
いや、それだけではない)
その間も、次々と襲いかかる敵を、トムラムは振り払っていたが。
しばらくすると、左腕がしびれ、目がくらんできた。
そこで、トムラムは、さっきかすったものの正体を知る。
(刃先に毒⁉)
また、敵の動きが止まった。それが合図のように、トムラムは立っていられなくなり、砂漠に両膝をついて、そのままうつぶせに倒れた。
(……死ぬ……のか……)
夢の景色が、脳裏に強く焼き付く。
『……守りたかった』
目に砂が入ってくるが、痛みを感じることもなくなって、
(ここで死んではいけないのに、自分が判断を間違えたばかりに、何か大切なことをしないまま、死んでいく)
意識を呼び戻そうとしても、トムラムは体を動かすことはもう出来なかった。
『一緒に守りたかった……』
いつの間にか、自分の倒れているすぐ近くに、誰かが立っているのを感じた。
(殺気が……ない)
トムラムの心に誰かが語りかけてくる、非常に威圧感のある声で、
『キミは何をしたかったんだい?』
「…………」
(何をしたかった?)
トムラムは魂の奥底で、夢の言葉を必死で思い出す。
『一緒に守りたかった……変えたかった』
優しい声が心の中で、応えた。
『そう、それがキミの一番大切な気持ちだ。忘れてはいけない』
次に空気を通して、その声と同じものが響いた。
「彼はボクが連れていく」
その時、敵の一人が、その人をめがけて突進してきた。その人は、何の感情も交えない声で、
「キミを殺す気はない、静止」
言葉が聞こえたと同時に、向かって来た敵が、時間が止まったかのように、動かなくなった。トムラムの近くに、その人はしゃがみ込み、
「さっきから見てたけど、こうなったのはキミの責任だ」
薄れていく意識の中で、金色の何かが揺らめき、
(見ていた……どこでだ?
殺気を持っていない人間はいなかった)
「これから、ボクたちの森に来てもらう」
そう聞こえた時、ふと体が浮いたようが気がし、次いで、トムラムの意識はぷつりと途切れた。