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Legend of kiss4 〜太陽の王子編〜  作者: 明智 倫礼
9/23

夜のシトリン

 トムラムは目を覚ますと、冷たい空気を感じた。薄暗い天井を見つめて、


(夜……か?)


 上体をゆっくり起した。


(少し気分が良くなってる。

 頭の痛みも、体のだるさもだいぶ消えている。

 二日酔い……?

 なったことはないが、症状から考えると、おそらくそうだ。

 この肉体は、酒をそんなに飲むのか)


 天井から白のレースのカーテンが四方八方につるされた、天幕が広がっていた。修業バカな彼にとっては無縁なもの。あきれたため息をついた。


(王子……俺には合わん)


 ベッドの端により、両足を床に降ろすと、ざらっとしたものを感じた。


「ん?」


 右手を床につけて、なぞってみる。


「砂……?」


 青い月明かりが差し込む、丸い窓。動けるようになったトムラムは、裸足で床を歩いていき、顔を上げた。そこには、雲ひとつない空に月が綺麗に輝いていた。


 少し落ち着きを取り戻した王子は、異変に気づき、


(いつも見ている月と違う気の流れだ)


 昨日の朝、見た夢を思い出して、


『空には満月が輝き、冷たい空気が広がっている』


(同じ、気の流れだ。

 あの夢を見たから、ここに来たのか?

 それとも、ここのことを知らせるために、あの夢を見たのか?

 では、あの人物は、この世界にいるということか?

 どこだ?)


 いつも通り、気を探ろうとするが、


(……出来ん。

 探れん。

 外に出て、探す)


 確認するため、トムラムが廊下に出ると、臭覚が反応した。


(酒、食べ物の匂い)


 次にどこからか、がやがやと騒いでいる人々の声が耳に入ってきて、


(何をしてる?)


 部屋の反対側は、腹の位置までしか壁がなく、そこに手を置いて、下をのぞき込んだ。向かい側の階下に、たくさんの人が集まって、何かをしている。


 何をしているのか確かめようとすると、背後から年老いた声がかかった。


「王子、お目覚めでございますか?」


 トムラムは違和感を抱いた。


(気配がなかった。なぜだ?)


 振り返ると、そこには誰もいなかった。


(いない? ん?

 今は、気配がある。

 おかしい)


 少しだけ感じる気配をたどって、彼は視線を降ろした。


「!」


 そこには、パルがちょこんと立っていた。彼の背丈は小さな子供くらいで、70cm程度しかない。しかし、姿形はどっからどう見ても、老人。


 トムラムは素直に頭を下げた。


「すまなかった」

(休ませるために薬を飲ませたのは、俺のためだとわかっている)


 王子の背丈の半分もないじいやは、首を横にゆっくり振り、


「いえ、とんでもございません」

(あなた様は、本当は心の澄んだ優しい方でございます。

 怒り、思いやり、どちらも同じ胸の気の流れでございます。

 胸の熱い気が間違った方向に進めば、先ほどのように人を傷つけようとしたり、破壊したりするようになるのでございます)


 トムラムは向かい側の眼下に視線を向け、


「あれは、何だ?」


 パルは当然というように、


「夕食会でございます」


 トムラムは不思議そうに、リピート。


「夕食会?」

(どっからどう見ても、どんちゃん騒ぎに見えるが……)


「はい、毎日行っております」

(毎日、どんちゃん騒ぎでございます)


 シトリンの王族は他国とは全然違かった。トムラムはあきれたため息。


「そうか」

(おかしな場所だ。

 夜、物を食うとは。

 俺の信条とは、正反対だ)


 パルは王子にうかがいを立てる。


「王子、夕食はいかがなさいますか?」

(少し、肉体の疲れが消えた今、どのようにお応えになりますか?)


(夜は食わん)


 トムラムはそう言おうとしたが、口は別のことを告げた。


「酒をくれ」


 トムラムは目を少しだけ開いて、信じられない顔に。


(自分は酒は飲まない。

 それは、感覚が鈍るからだ。

 修業の妨げになる。

 それなのに、わざわざそれを自ら望むとは……。なぜだ?)


 パルは当然というように頭を下げた。


「かしこまりました」

(二十四年間、こちらで身に付いた習慣でございます。

 それを変えるのは、並大抵の覚悟では出来ません)


 去っていこうとするじいやに、トムラムは声をかけようとするが、


(いらない)


 さらに驚くことが、自分の口から出てきた。


「肉料理を大量に盛ってきてくれ」


 はっとして、自分の中を探ろうとする。


(自分は肉類は食べない。

 それは、胸の意識が強くなり、制御が利かなくなるからだ。

 落ち着いて、物事を追求することが出来なくなる。

 すなわち、いい修業は出来ん。

 それなのに、食べようとしている。なぜだ?)


 困惑している王子へ、パルは振り返り、


「何になさいますか?」

(あなた様の心と体の問題でございます。

 私目は、ただ、そばで見ていることしか出来ません。

 あなた様の、五千年の修業の成果はその程度なのでございましょうか?)


 トムラムは昨日、地球で一日中やっていたことと同じ対処法を開始。


(この星の中心を感じる。

 いつもと感じる気の質が違う。

 やはり、違う場所だ)


 王子は自分の言いたいことを整理し、じいやへ訂正。 


「いらん」


「かしこまりました」

(一時、制御することは、簡単でございます。

 このまま、私目を見送ることは出来ますでしょうか?)


 パルは王子の次の行動を予測しながら、去っていこうとした。トムラムは自分の体が勝手に反応して、パルへ右手を伸ばし、


(なぜ、止める?)


 パルの肩に王子の手が触れると、じいやはトムラムへ振り返った。まだ、かろうじて、肉体を制御しようとしている王子に、打開策を提案。


「水を持って、参りましょうか?」

(お忘れでございます。

 一番、大切なことを。

 のどが渇いているために、体が熱くなり、制御出来なくなっている原因を増幅させております)


 トムラムはじいやの言葉を聞いて、珍しくぼんやりした。


(さっき寝たのがいつかわからないが、陽あるうちから、いつの間にか夜になっていた。

 その間、水分は取っていない。

 それが原因のひとつになっているかも知れん)


 正常に判断して、王子はじいやに低く短く、


「頼む」


 だが、自分の内側に別の声がぐるぐると響き始めた。


“酒が飲みたい”

“肉が食いたい”

“なぜ、それが出来ない?”

“誰に迷惑をかけてるわけでもない。”

“なぜ、好きなことを好きなようにしてはいけない?”

“イライラを止めるには、自分の思う通りにするのが一番、効果的だ。”

“今日は疲れたのだから、もうこれ以上、我慢する必要はない。”

“…………”

“…………”


 魂の奥底から、それらの意見に対して、ひとつの言葉が浮かび上がった。


(全て……いい訳だ)


 トムラムの魂は肉体と対峙する。


(……我が出過ぎている。

 今の自分は、胸の意識が強い。

 だから、こうなる。

 それを直すには、酒と肉類は厳禁だ。

 いい訳をするのもダメだ。

 それがますます、胸の意識を強くする)


 戦い続けている王子に、じいやは一礼して、


「かしこまりました」


 パルはトムラムに背を向け、廊下を歩き出した。


(我慢をすることが、その肉体は困難なのでございます。

 先ほどまでは、未来は二つございました。

 どちらの未来へ進むかの可能性は、半々でした。

 しかし、今のトムラム様の状態から、一つの未来の可能性の方が高くなりました。

 今夜は、五千年前と同じことが起きるかと存じます。

 魂の意思が違っても、過程が違っても、未来を変えることは出来なかったようでございます。

 あの方に、連絡を取って参ります)


 王子は、じいやの後ろ姿をイライラしながら見送り、


(いかん。よけい、胸の意識が強くなる)


 さらにそれを、強化するものが、トムラムの臭覚を容赦なく刺激する。


(酒と食べ物の匂い。

 また、胸の意識が強くなる)


 彼は自分の手が、怒りで震えていくのを感じた。


(どうする?

 ………)


 熱くなってきているーー感情に流され始めた体で、必死に判断しようとするが、


(ここにいてはダメだ)


 トムラムには、もう、それが魂の声なのか、肉体の声なのか見分けることが出来なかった。とりあえず、アンバランスなまま、いったん自分の部屋へ戻った。


 

 しばらく、パルの持ってきてくれた水を飲みながら、降り注ぐ月の光を浴びていた。しかし、体のイライラ感はまったく減らない。


“なぜ、自分一人が我慢しなくてはいけない?”

“みんなは、自分の好きなようにしている”

“なぜ、自分は好きなように出来ない?”


 トムラムはすっと立ち上がり、


(ダメだ。

 じっとしていることが出来ん)


 胸の意識がある人は、落ち着きがない。腹の意識のある人は落ち着きがある。普段のトムラムなら、後者。どんどん、肉体に飲み込まれ始めていた。


 ソワソワ感を抱きながら、王子は廊下へ出た。背後から、年老いた声が、


「王子、どちらへ?」

(やはり、外へ行かれるのでございますね)


 トムラムが振り向くと、パルが立っていた。王子はじいやが思っている通りのことを言ってしまった。


「外へ行ってくる」

(酒の臭いがする。

 部屋に閉じこもってるとイライラする。

 気分転換をして、直す)


 『気分転換』という言葉が、どんな気持ちから来ているか、トムラムはもう気づくことが出来なくなっていた。五千年間の修業の成果が、完全に失われてしまった。残念ながら、悲劇の幕開けだ。


 パルはとりあえず忠告。


「夜は、危のうございますよ」

(ご自分で止めることが出来ないものは、私目にも止めることは出来ません。

 今は、もう、誰の言葉も、トムラム様には届かないでしょう)


 トムラムは注意されたことに、さらにイライラして、


(ダメだ)


 胸の気の流れを抑えるため、息を深くゆっくり吸いながら、


「ここにいると、気分が滅入る」

(感情を抑えることが出来ん)


 パルは静かにうなずいた。


「さようでございますか」

(あの方はとても厳しい方でございます。

 今のあなた様にとって、多少の代償が必要だとおっしゃっていました。

 トムラム様、ご覚悟下さい)


 代償が何なのかわからず、トムラムは自分の感情を抑えながら、


「外はどっちだ?」


 パルは王子の言葉に素直に従った。


「こちらでございます」


 ふたりは夜の宮殿内を歩き出した。ザラザラという砂の足音を聞きながら、トムラムは酒と食べ物の匂いに必死に耐えていた。自分の中に、相反するふたつの声が死闘を繰り広げている。


“飲みたい”


(飲んではいけない)


“食べたい”


(食べてはいけない)


 外へ近づくと、空気がさらに冷えてきた。そのために、ぼうっとしていた頭が少し冷静に。トムラムはあたりを見渡す余裕が出てきた。


 綺麗にライトアップされた中庭には、大きな金の噴水があった。廊下は急がしそうに、料理や酒を運ぶ召使いたちが、うろうろ。彼らを見て、トムラムはまたイライラに襲われて、


“おいしそうだ”

“食べたい”

“飲みたい”


 魂の奥底で、その声に従わないように、対処する。


(腹に意識を置く。

 食べない。

 飲まない。

 食べれば、悪循環になる)


 たくさんの従者や召使いとすれ違いながら、トムラムは何とか建物の外へ出た。


 振り向くと、壁全体が金色で屋根はモスクのように、城はなっていた。トムラムは少し目を細めて、


(見たことがある)


 五千年前の記憶が少しだけ戻った。


「いってらっしゃいませ」

(お気をつけ下さい。

 本当に、危のうございますから)


 パルは建物の中から、丁寧に頭を下げた。そして、上空を見つめ、心の中で、


『お願いいたします』


 トムラムは宮殿に背を歩き出した。その頃になると、彼は大体の方向が、過去世の記憶から、顕在意識へと引き上げられた。


 綺麗にライトアップされた門までの道を、一人歩いていく。見上げると、青い月といくつかの星が輝いていた。


 その時、誰かが後ろから声をかけてきた。


「兄さん?」


「ん?」

(気配がなかった)


 不思議に思いながら、振り向くと、トムラムはびっくりした。まるで鏡でも見たかのように、自分とそっくりな人がいた。


(誰だ?)


「外へ行くの?」


 トムラムはちょっとイライラしながら、


「そうだ」

「今日は星が綺麗だからね」


 自分とそっくりな人は、優しげに微笑んだ。肉体に操られて、トムラムは、


「そうか……」


 適当に返して、また歩き出した。自分とそっくりな人は、城の奥へと向かって、あっという間に消えていった。



 その頃、光り輝く地面を見下ろしているふたりがいた。


 金色のふんわりとした長い髪を風に揺らめかせながら、流暢りゅうちょうな英語が空間に鳴り響いた。


「Right, we were hit by the enemy. I wish I could kill her…….(そう、敵に先手を打たれたね。殺せたらいいのに……)」


 春風のような柔らかな声なのに、末恐ろしいことを平然と言ってのけた。野太い声で、なよっと、ツッコミが。


「今のままじゃ、ふたつ前の時と同じになっちゃうわよ、きっと〜」


 地上を見下ろしているふたりは、ある法則で、他の人よりも、はるか昔のことを覚えている。


 金髪の人は、何の感情も持たない、威圧感のある声で、


「ヒューの件もあるからね」

「やってくれたわよね、あの女」


 紫のサラサラな髪を耳にかけ、空を挑むように見上げた。金色の髪の人は、話題転換。


「あの話はどうなったんだい?」


 紫の人は空から視線を外して、


「あれ〜? まだ、わかんないわよ、始まったばかりなんだから〜」

(ここだけじゃないのよ〜、世界は。大変なんだから、調整するの〜)


 金髪の人は、純粋無垢な瞳に急に変わって、


「ボクの出番さん♪」

「あんた、何する気よ?」

「いいこと思いついたさん!」


 ミラクルな香りが思いっきりする発言。金髪の人は、紫の髪の人の耳元で、こそこそ内緒話。それが終わって、野太い声が、面倒くさそうに、


「ちょっと〜、あたしの仕事、あんた、いくつ増やす気よ?」


 金髪の人は、威圧感のある声にまた戻っていた。


「最後は混乱する。だから、平気? そうだった気がする?」


 でも、思いっきり疑問形だった。思考回路が不安定な横顔に、紫の髪の人は、


「あんた、自分のこと、どうすんのよ〜。あんたのとこが一番、影響してるんだから、わかってる?」

「全員、殺ーー」


 また、春風のようにふんわりした声が、恐ろしいことを口にしようとして、眼下に異変が。


「来た」


 

 トムラムが門を出ると、宮殿とは比べものにならないくらい、真っ暗で何もなかった。


 それでも、体が熱くなったトムラムは、気にせずに歩き続けた。疲れた心と体で、考える。


(宮殿にいると、欲望に負けそうになる。

 だから、それに駆られないように外を歩いて、時を過ごす。

 誰も止めなかった。

 自分は大丈夫だ)


 何の根拠もないことを、王子は信じ始めるようになっていた。


 トムラムは、ヒューのように情報から可能性を導き出して、冷静に判断する術を持っていない。まして、セリルのような直感もない。


 ひとつあるとすれば、体の中に流れる気の流れを感じ取るという勘だ。それは他の誰よりも、一番優れている。


 トムラムの唯一の特性は、気の流れを利用して体を動かすこと。がしかし、それが今の自分に出来るのか、まったく調べずに、彼は歩いていた。


 そして、代償となる出来事が起き始める。


 砂漠に足を少し取られ気味のまま歩いていると、人の気配をふと感じた。


 トムラムは気を探り始めて、


(右後方に一人。

 左前方に一人。

 殺気がある。 

 近づいてきたら、逃げずに相手が触れるのを待つ。

 そして、合気をかけ、相手の動きを封じる)


 魂で正確に判断しても、肉体が言うことを利いてくれなかった。


“すぐに、逃げる”


 その気持ちが大きくなり、左後方へ勝手に体が動いた。


(いかん)


 魂では思っても、体が勝手に走り始め、


(砂漠だ。

 この体は歩き慣れていない。

 とてもじゃないが、逃げ切れない)


 トムラムの思考回路は本人が気づかないうちに崩れ始め、判断の仕方が少しずつ狂っていった。


(なぜだ?

 なぜ、体が重い?

 背丈は、1cm程度しか変わらないはずだ。

 実質的な重みも同じ……。

 では、何が違う?)


 魂はさっきわかっていたことを、今やっと思い出して、


(胸に中心が来ているからだ)


 不足している体の気の流れが、だんだん明らかに。


(縮地が使えていない。

 肩甲骨が使えない。

 肋骨ろっこつが使えない。

 合気上げ(*合気の技の中でも、相手に対して、力を上方向に飛ばす技)は無理だ)


 合気が出来る条件がそろっていないのに、トムラムはなぜか対処し始めた。


(胸の熱い気は、相手に少し向かっている。

 これを使って、相手との呼吸を合わせることは出来る。

 軽い合気下げ(*合気上げとは逆に、相手に対して、力を下方向に押さえ込む技)は、出来るかも知れん)


 敵と対峙するため、トムラムは立ち止まった。そこへ、別の声が自分の内側から、


“逃げる”


 今度は魂の奥底から、


(逃げない)


 そのふたつの意思で、トムラムは混乱したが、何とか決断した。


(逃げない)


 気を再び、まわりに向けると、いつの間にか気配が増えていた。


(数、二十。

 全員、自分に殺気を向けている。

 いつもなら、簡単に倒せる数だ。

 しかし、気が乱れている)


 張り詰めた空気の中、さらに殺気の数が増えていく。


(五十。

 殺気を持っていない者は、誰一人いない)


 足元の砂を崩すように、風が吹き抜けてゆく。トムラムは静かに判断を下した。


(誰も自分を助けてくれる人間はいない。

 自分で全員、倒すしかない)


 その時!


 敵との張りつめた空気が一気に崩れた。


(来る。

 右前方。

 右手の意識を高める)


 トムラムは向かってきた人の手に触れた時に、体の違和感に気づいた。


(上手く、はらうことが出来ない)


「うわぁ……」


 うめき声を上げて、敵は一人、砂漠に脱力したように崩れ落ちた。トムラムは命の危険が迫っているのにそれを気にせず、自分と対峙する敵に神経を向け、


(基礎的な動き、柔術じゅうじゅつ(*柔道の元となった武術)を、この体は学んでいない)


 そして、再び動き出した敵を、同じ方法で倒していく。


(左。

 右。

 後方。

 右。

 左……)


 トムラムは十人やっつけた時点で、息が上がって来た。


(呼吸が乱れている。

 この体は、動くことに慣れていない。

 しかし、このまま続けるしかない。

 戦うことを放棄すること、イコール、今の状態では死を意味する)


 武術の達人の地位を完全に失っているトムラムに。次々と敵が襲いかかり、王子は同じように何とか払いのけて、


(後方。

 右。

 左。

 右。

 後方……)


 そこで、敵の動きがぴたりと止まった。冷たい風が砂漠に、砂ぼこりと共に吹き抜けていく。異様な静寂が、死へと導くように、じんわり忍び寄る。トムラムは神経を研ぎ澄まして、


(数、五十。

 増えている。

 死ぬかも知れん。

 だが、逃げることは、もう出来ん)


 体が勝手に恐怖を感じ、心拍数が上がってくる。それを静めるため、トムラムは呼吸を整えようとして、


(宇宙を感じる。

 体を上下に貫く、一本の線。

 正中線。

 ……ダメだ。

 高度な気の流れは、この肉体では出来ん。

 仕方がない、別の気の流れを作る。

 この星の中心を感じる。

 そこから重たい、落ち着いた気を腹に入れる)


 そこで、重大なことが自分の身に起きていることに気づいた。


(! さっきまであった腹の意識が、今はまったくない。

 落ち着いた気の流れを作ることが出来ん。

 恐怖心を取り除く術がない)


 魂も地球の肉体とも全く違う、こっちの世界の肉体は。敵と対峙しながらでは、とてもじゃないが、制御できない。感情に流され、重大なミスを冒した。


 次の瞬間、止まっていた敵が再び動き始めた。


(右。

 左。

 左……)


 トムラムは胸の意識だけで、敵と戦い続けていた。そのために、急速に落ち着きが消えていき、体の中心がずれ始めた。もう、いつものやり方では、技を使うことができない状態に。


 その上、心がさらに焦り出しーー感情に流されて、


(相手の支点がつかめない。

 重心が奪えない)


 呼吸がますます乱れて、


(左右両方……)


 両手を動かした時、利き手ではない左手が少しずれて、何かが腕をかすった。体の異変を感じるが、敵と対峙している今、確認する暇はない。


(切られた……?

 いや、それだけではない)


 その間も、次々と襲いかかる敵を、トムラムは振り払っていたが。

 しばらくすると、左腕がしびれ、目がくらんできた。

 そこで、トムラムは、さっきかすったものの正体を知る。


(刃先に毒⁉)


 また、敵の動きが止まった。それが合図のように、トムラムは立っていられなくなり、砂漠に両膝をついて、そのままうつぶせに倒れた。


(……死ぬ……のか……)


 夢の景色が、脳裏に強く焼き付く。


『……守りたかった』


 目に砂が入ってくるが、痛みを感じることもなくなって、


(ここで死んではいけないのに、自分が判断を間違えたばかりに、何か大切なことをしないまま、死んでいく)


 意識を呼び戻そうとしても、トムラムは体を動かすことはもう出来なかった。


『一緒に守りたかった……』


 いつの間にか、自分の倒れているすぐ近くに、誰かが立っているのを感じた。


(殺気が……ない)


 トムラムの心に誰かが語りかけてくる、非常に威圧感のある声で、


『キミは何をしたかったんだい?』


「…………」

(何をしたかった?)


 トムラムは魂の奥底で、夢の言葉を必死で思い出す。


『一緒に守りたかった……変えたかった』


 優しい声が心の中で、応えた。


『そう、それがキミの一番大切な気持ちだ。忘れてはいけない』


 次に空気を通して、その声と同じものが響いた。


「彼はボクが連れていく」


 その時、敵の一人が、その人をめがけて突進してきた。その人は、何の感情も交えない声で、


「キミを殺す気はない、静止」


 言葉が聞こえたと同時に、向かって来た敵が、時間が止まったかのように、動かなくなった。トムラムの近くに、その人はしゃがみ込み、


「さっきから見てたけど、こうなったのはキミの責任だ」


 薄れていく意識の中で、金色の何かが揺らめき、


(見ていた……どこでだ?

 殺気を持っていない人間はいなかった)


「これから、ボクたちの森に来てもらう」


 そう聞こえた時、ふと体が浮いたようが気がし、次いで、トムラムの意識はぷつりと途切れた。

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