気を読む
燈輝は手に水まんじゅうとあん団子の入った袋を持って、商店街を歩いていた。
(今日は、歩きづらい。
胸に中心が来てるからだ。
その上、この混雑。
上手く避けきれん)
夕食時で、にぎわう周囲を見渡した。揚げ物のいい香りや、焼き物の香ばしい匂いが立ち込める。
そんなことに惑わされずに、店での自分の行動を思い出して、燈輝は少しため息。
(いつもなら必要以上、買わないのに、羊羹まで買いそうになった。
我が出ている証拠だ。
胸の意識が強すぎる)
胸の気の流れは、欲望も司るので、余計な買い物をしたり、無駄に動いたりする。燈輝はふと夢を思い返し、
(……自分とはまったく違う、自分。
おかしな夢だ。
それに、抱きしめていたやつは誰だ?)
そこまで考えた時、夢の中で感じた気を察知。
「!」
(似てる。
前方、五百メートル先)
ここまで、正確に気を読める人はおそらくいない。燈輝は人混みの中に立ち尽くしながら、その人の気をさらに解析。
(……胸の意識が非常に強い。
前へ出ようという意識がある。
警戒心は、まったくない。
こっちに向かって、歩いてくる)
そこで、相手の動きに変化が。
(ん? 左に曲がった)
燈輝はその気の主を追いかけ始めた。
(縮地。
気配を消す)
気配を消すことができないと、不意打ちができない。これは出来て当たり前。だが、気が乱れている武術家は再現できず、またため息。
(気が乱れすぎていて、今日は出来ん。
これでは、見失うかも知れん。
仕方がない、このままつける)
草履でアスファルトをすっすと歩いていき、燈輝は相手に近づき、
(誰だ?
どこかで感じたことがある。
ん、女……?
距離、三メートル)
ここで、相手を肉眼で探し出した。背の高い燈輝にとって、人混みの中から、人を探すのは簡単。
(いた)
くりっとしたブラウンの瞳と、茶色の長い髪。とぼけた顔。
だいぶ面差しは変わっていたが、誰だかすぐに燈輝はわかり、目を細めた。
(なるほどな。
確かに感じたことがあるはずだ)
その人に横からすっと近づいて、低い声で、
「寄り道か?」
(制服で、こんなところにいるのは、そういうことだ)
「えぇっ!」
(夜、なんで⁉
まだ、夕方だと思うんだけど……)
大暴投して、びっくりして飛び上がり、キョロキョロし始めた。買い物客が行き交う場所で、燈輝はその言動を前にして、
「相変わらずだ」
(昔から、変わらん。
何でも大げさだ)
声をかけられた人、神月 亮、十七歳は左に顔を向けて、
「え……?」
(すごく不思議な服装だなぁ)
目をパチクリさせた。燈輝の服装は上は白で、下は瑠璃紺色の袴姿。限りなく黒に近い緑色の髪は長く、後ろの高い位置で縛っている。いわゆる、ポニーテール。
夕暮れの買い物客に紛れている袴姿の長身の男一人。異様な雰囲気を漂わせていた。
亮は顔を確認して、嬉しそうな顔で、
「あぁ、燈兄」
(すごい、偶然だね)
「久しぶりだ」
(ん?)
燈輝は返した時、何か引っかかった。
「本当だね」
(あれ?)
亮も何かが引っかかった。人々が入り乱れる商店街で、しばらく、ふたりはお互いを不思議そうに見つめ合って、
(久しぶり……。
本当に、久しぶり……。
短い月日じゃなくて……もっと、ずっと、昔から……)
絶妙なタイミングで、ふたりの魂ーー潜在意識に声が響いた。
【夜 砂漠 シトリン】
一瞬、まわりの空気が変わった。亮と燈輝は違和感を抱いて、
(あれ、寒くなった)
(空間の気の流れが変わった)
燈輝は左脳の後頭部を駆使するーー神経を研ぎ澄ます。
(なぜだ?
これは、あの夢に似てる)
『空には満月が輝き、冷たい空気が広がっている。誰かを強く、強く……』
武術の達人は目の前の人に視点を合わせ、
(亮……。
いや、似てるが違う。
胸の意識が熱く、落ち着きはなかったが……少し違っていた。
……では、誰だ?)
亮はカバンを握りしめて、久々会った燈輝を見入って、
(もしかして、ルーが言ってた人って、燈兄のことかな?
だったら、夢の話は燈兄にした方がいいってこと?
……たぶんそうだよね。
あれ? でも、どうして、ルーはわかったのかな?
知り合いだったっけ?
んー……それはよくわからないけど、とにかく言ってみた方がいい気がする。
よし、燈兄に、夢の話してみよう)
ルーと燈輝は知り合いではない。別のことが動いているから、必然的に会わされれたのだ、ふたりは。質問しようとしてきた亮の、ひとつの気の流れを読んで、燈輝は、
(胸から、俺の胸に気が向かって来た。
言いたいことがある時だ)
そう判断して、亮が話し出す前に、
「何だ?」
「えっ?」
(どうして、わかったのかな?)
このくらいの気の流れを読めないと、合気はとてもじゃないけど出来ない。相手がどこを狙ってくるのかも読まなくては、足元を救われてしまう。警戒心が亮にはないのだから、武術の達人からすれば、こんな気の流れは簡単だ。
きょとんとしたボケ少女を前にして、燈輝は目を細め、
「…………」
(また、忘れたのか?
気を読んで判断していると、何度か教えたはずだが……)
記憶力が崩壊している亮は、彼をまじまじと見つめ、
「…………」
(今、笑ってる………よね?
燈兄、昔から、あんまり表情変わらないから、よくわからないけど。
どうしてだろう?)
腹に中心がある人は、落ち着きがある。そのため、表情はほとんど変わらない。186cmの燈輝は、160cmの亮を見下ろして、
「なぜ、黙っている?」
(言いたいことも忘れたのか?)
「……何で、笑ってるのかなと……思って」
(あってるよね?)
戸惑い気味に応えた亮に、燈輝らしい言葉を口にした。
「昔から変わらないからだ」
(懐しい気の流れだ)
その時、朝からずっと直そうと思って、修業し続けてきたが、結局直すことのできなかった、乱れた気が少しおさまった。
(なぜだ?)
武術を学んでいない亮には、わからない話のはずなのに、妙に納得。
「あぁ、そうなんだ」
(変わってないんだね。
えっ、何が?)
すぐに、わけがわからなくなった。燈輝は亮の服装に目を止め、
(七つ違い。制服。
高校生か。
だいぶ背が伸びた)
ぼんやりしている亮に、燈輝は低い声で、
「相談事か?」
「……あぁ、うん」
(そうだった。
呪いの解き方のこと、聞こうとしてたんだ。
でも、どうやって言ったらいいのかな?)
亮は珍しく戸惑った。燈輝は彼女の気の流れに、異変を感じ、
(後ろ向きになった、いつもと違う)
前から後ろに気が流れると、後ろ向きになる。特に、太ももの前の筋肉を鍛えると、この傾向が強くなるので、要注意。
燈輝は自分自身に神経を向け、
(俺も、今日は気の流れが少しおかしい)
燈輝は珍しいことを言った。
「時間あるか?」
(なぜか、お前と話がしたい)
亮は腕時計を見て、
「え、時間?」
(五時二十分過ぎ……)
燈輝は少しかがんで、五年ぶりに再会した、幼馴染にもう一度、
「どうだ?」
(今日は、感情に流されがちだ。
いつもなら、気にせず帰ってる)
修業以外のことに興味を持っていないのだから、珍しことだ。亮は元気に、
「うん、あるよ!」
(まだ、大丈夫!)
燈輝は暮れてゆく空を見上げて、
「家、どこだ?」
(この近所じゃなかったはずだ、お前の家は)
大暴投もせず、亮はきちんと、
「誠矢の家の近く」
(ここからは、遠くないよ)
彼は少しだけ驚いて、亮の顔を見下ろし、
「引っ越したのか?」
(知らなかった。
気をいつでも、読んでるわけではないからな)
「うん、そう」
(引っ越してから、一度も会ってなかったね。
そういえば)
亮は両親がアメリカへ行ってしまったため、母の双子の妹ーー誠矢の母たちが暮らす、家の近くに引っ越してきた。
燈輝は小さい頃みたいに、
「じゃあ、あの公園だ」
(懐しい)
「うん」
(懐しいね)
暗号みたいな会話。そして、夕食時の混んだ商店街から外れ、細い路地を一緒に歩き始めた。
ふたりの移動した公園は、亮と誠矢の家のちょうど中間点にあるところ。亮の家までは歩いても、五分とかからない場所。
五時半近くなので、あまり人はいなかった。公園の入り口には、家路を急ぐ人が通りすぎてゆく姿がちらほら。
空には、綺麗なオレンジ色の雲が、ところどころに浮かんでいた。昼間より少し涼しくなった風がふたりの髪を時折揺らす。
亮と燈輝は、隣り合ったブランコにそれぞれ腰掛けていた。
「食うか?」
さっき買って来た水まんじゅうとあん団子を差し出した。亮はそれを見て、今日が何の日か思い出し、
(誕生日パーティがあるから……)
「じゃあ、ひとつだけ」
あん団子をひとつ取った。燈輝は食べ物に目がない亮の前に、さらに和菓子を差し出して、
「遠慮するな」
(昔は、よく食ってた)
燈輝の申し出に、亮は戸惑いながら、
「え、遠慮じゃなくて……今日は、誕生日だから、ご馳走が待ってるんだよね」
(イチゴのショートケーキ、楽しみにしてるから)
「そうか」
(十七か。
昔は何も考えずに行動してたが、少しは考えるようになったのか)
燈輝、ここで大誤算である。亮の性格は変わっていない。考えずに、先に動くタイプのまま、年だけ取っている。
亮はあん団子を口に入れ、嬉しそうに相づちを打った。
「うん」
(燈兄に会えたのも、何だかプレゼントみたいだね)
水まんじゅうを一口食べ、燈輝は本題へ。
「それで、相談事は何だ?」
(早く言わんと、日が暮れる)
「あぁ、うん……」
(言葉が途切れてるからなぁ)
亮はちょっと躊躇した。燈輝は横目でちらッと見やり、
「どうした?」
(胸の気の流れが、弱くなった。
お前らしくない)
「小さい頃から見てる夢があるんだけど……」
亮はそこでいったん言葉を切った。そこで、燈輝は珍しく、くすくす笑う。
「あの夢のことか?」
(おかしな夢だった。
でかくなったが、未だに見るのか?)
亮は緑髪の美青年に顔を向け、
「あの夢?」
(どうして、燈兄は笑ってるのかな?)
燈輝は懐しそうな顔で、
「誠矢とお前の夢の話だ」
(小さい頃、ふたりして見たって、大騒ぎしてた)
亮はその言葉を聞いて、珍しく言い当てるーーど真ん中に投げた。
「あぁ、スイカのお化け?」
(あれだけは、誠矢と同じ夢見たね)
「そうだ」
(追いかけられたって、言ってた)
燈輝は低い声で言って、また少し笑った。亮はここで一気に大暴投!
「え……?」
(スイカの話だったよね?
ソーダ?)
『そうだ』を聞き間違っている。燈輝は亮の大暴投はわからないし、わかったとしても拾わない。祐と一緒で放置。
燈輝は先を促した。
「どんな夢だ?」
(俺も今日は、夢を見た)
亮は珍しく真剣な顔で、
「あ、うん……自分が死んでく夢なんだよね」
(どうして、小さい頃から見るんだろう?)
「死ぬ?」
慎重に聞き返して、燈輝の脳裏に、今朝の夢がなだれ込んできた。
『……いなくなってしまう』
「うん。言いたいことがあって、それが言えなくて、死んでいく夢」
(あれ?)
亮が見ている夢は、ピンボケしている。相手に肩を揺さぶられ、声を必死にかけられているもの。夢の中の人物と、燈輝が重なって。亮はぼんやりした。
「そうか」
『どう答えるつもりだった?』
燈輝の中で、夢が再生されてゆく。亮はブランコを少し揺らして、
「それでね、今日は今までとは違くて……」
(どうして、十七の誕生日なんだろう?
もっと前から、聞こえてもおかしくないんじゃないかな?)
これも決められていて、亮の十七歳の誕生日以前から、物事を始めてはいけないことになっている。だが、敵はルール違反をしている。それが、シリーズ3で、八神を苦しめた事件だ。
亮の夢の違いを聞いた、燈輝は足元の、磨り減った茶色い地面を見つめ、
「違う?」
(気が乱れ始めた。
正中線。
胸の意識。
冷たい気)
燈輝は気を整えていると、亮の言葉の続きが。
「声が聞こえてきて、その内容がわからないんだよね」
(子供だから、わからないのかも知れないね)
高校生なら、普通わかる内容なのに、恋愛鈍感少女、またもややってしまっていた。燈輝はさらに袋から、水まんじゅうを出して、
「どんな内容だ?」
亮は大きく息を吸って、不思議と覚えている内容を口にした。
「『なんてことでしょう。……とは、私は許せません。……。自ら、この呪いを解く意思があるのなら、その機会と方法を与えましょう。今から五千年後に出会うでしょう。彼の者ともう一度、真実の愛をはぐくみ、十八の誕生日までにその心を持って……でしょう』って内容」
(彼の者だから、きっと相手の人がいるんだよね。
誰のことなんだろう?)
シリーズ上、王子によって、様々な反応を見せてきたこの言葉。燈輝はこう反応した。藁人形を刀でバッサリ切るように、一言で切り捨てた。
「意味がわからん」
(言葉が途切れすぎてる)
結構これは、全面的にわかるはずなのだが……。亮は残念そうに、
「そうなんだね」
(大人の燈兄でもわからないんじゃ、すごく難しいことなんだね)
いやいや、違う。そこではない、ポイントは。ずれまくっている。
「おかしな夢だ」
(俺のもそうだったが、お前のもだ)
お互い、不思議な夢を見たことに共感を覚え、燈輝は少しだけ微笑んだ。ここでいきなり、亮は別次元へワープ!
「草原は出てこなかったよ」
(丘の夢じゃなかったよ)
『おかしい』の『おか』を取って、『丘』にワープ。燈輝は真っ直ぐツッコミ。
「なぜ、その言葉になる?」
(どこへ持っていった?)
小さい頃から知っているだけあって、大暴投をしているのはわかっていた。
「えっ?」
(あれ、なんか変なこと言ったかな?)
亮はきょとんとした。燈輝は少しだけため息をついて、
(お前と話すと、頭が混乱する)
そして、話を元に戻した。
「『真実の愛をはぐくみ』とは、どういうことだ?」
(そこが一番、意味がわからん)
「わからない」
(大切なことのような気がするんだけど、意味がわからないんだよね)
ふたりとも、本当に不思議そうな顔をした。恋愛鈍感少女と、恋愛に興味のないカップリングだ、シリーズ4は。
その時!
燈輝は亮の左側へ何かが向かってくるのを察知。
(来る)
彼は素早く立ち上がり、持っていたお菓子が地面に散らばった。
(縮地)
土埃ひとつも上げず、あっという間に、燈輝は自分の左にいる亮の、さらに左側へ移動。
『一緒に……』
潜在意識に駆り立てられ、無意識に身体が反応する。
(相手の呼吸。
あやつれる支点)
テコの原理を使っている、合気は。そのため、倒す相手の中心、呼吸の速度なども読めないとできない。
燈輝の左手に何かが触れた。合気をかけられる状態が整った。相手の動きを封じるために、
(円を描く。
合気)
肩から胸にかけての意識を正しく持って、腕を回すと、昼間、師匠が弟子にかけたように、空中を回転する形になる。
だが、燈輝の技がかけられる寸前、相手の気が急に歪んだーー交わした。そこで、亮はやっと、自分の左側に立っている燈輝に気づいて、
「えぇっ!」
(い、いつの間に移動したの⁉
さっき、右側にいたよね)
公園中に響く大声を上げた。それを気にすることなく、燈輝は触れた相手の次の動きを読む。
(亮の頭上を八艘飛び。
亮への一直線の攻撃の気)
右側から亮が狙われている状態に変化。一瞬にして、相手は左から右へ移動。武術の達人は、亮の前方へすぐにさっと移動しかばうように立った。自分がさっきまで乗っていたブランコへ、体の正面を向け、相手と対峙する。
(なぜ、狙う?)
亮は燈輝の動きに気づかず、自分の左側をぼうっと見ていた。縮地を使っているので、燈輝の動きに亮がついていけない状態。
その時、誰も乗っていないはずの右側のブランコが急に揺れ出した。
「えっ‼」
亮がびっくりして振り返ると、自分より小さい人が。
(袴姿?
燈兄がおじいさんになった⁉)
ボケ倒している。浦島太郎ではないのだから、急に年は取らないだろう。亮は自分が狙われているとは気づいていないし、武術の技で、動きが早すぎて視覚で捉えられないのだ。
燈輝はその間も、上は白で、下は瑠璃紺色の袴姿の小さな人の気を探り続ける。
(未だに、亮を狙ってる)
亮は突如現れた小さな人に驚いて、自分の危険を回避することは困難。燈輝は敵に気を配りながら、守りたい人の気の流れを探る。
(胸の意識が強くなってきた。
次は、後ろにバランスを崩す。
それを防ぐには……)
大抵驚くと、亮は後ろに倒れる。燈輝は体の奥底で、無意識に判断、それを防ぐため、
(正中線と正中線。
肩甲骨(*背中上部にある左右一対の、逆三角形の板状の骨)。
腸骨筋(*腰の奥深くにある筋肉)、大腰筋(*背骨から、腰の奥深くにつながる筋肉。(腸骨筋と大腰筋は、一般的には、インナーマッスルと呼ばれている))。
重心の移動)
物質の中心と自分の(正中線)を重ねて動かすと、必要最低限の力で動かせる。筋肉と骨の部分は、今必要なものを、一番合理的に使うため意識した。『重心の移動』は、ここでは、亮の動きを補正ーー後ろに倒れなくするため。
燈輝は一瞬のうちに実行ーー右腕を鮮やかに動かして、亮に声をかけ、
「倒れるな」
「えぇっ!」
(な、何⁉)
ボケ少女は自分の体が何かに包まれたような気がした。燈輝はすぐさま、次の彼女の行動を読む。
(次は暴れる。
この状態で、暴れるのは危険だ。
それをさせないためには……)
武術の達人は、瞬時に判断して、
(亮の動きを封じる。
亮の重心を、俺に軽く移動させる。
合気の原則のひとつ)
重心を軽く移動させると、意識と動きが軽く奪われた状態に。これを使って、円を描くと、回転させながら簡単に倒せる。八平が昼間やったのと同じだが、ここは軽めにかかっている。相手の気の流れーー動きも制御するのが、合気。
そこで、亮は体の異変を感じて、
(ん?
何だか、ぼうっとしてきたような……)
誰かのゆっくりした呼吸が、亮の耳元で聞こえる。こんな近くに人などいないはずなのに。
「暴れるな」
地鳴りのような、落ち着いた声が、亮の右側からやっていた。しかも、体の前面に振動を伴って、
「え……!」
ボケ少女、びっくりして、暴れようとしたが、不思議なことに体から力が抜けていた。八平に合気をかけられ、床にずっと寝転がったままの燈輝と同じ状態。
(あれ? 動かせない。
何でだろう?)
亮は、今の自分の状況をなんとか、把握しようとして、
(右の方に何か見えるよ。
黒……ううん、少し緑色のような気がする。
あぁ、髪の毛だ。え、誰の?)
そこで、自分の背中に何かの圧迫感があり、
(何だか、服が引っ張られてるような気がする)
そう思って、少し左に振り向いた。
(……白い布?
服……かな? 誰の?)
そして、さっきまで話していた燈輝の服装を、亮はふと思い出して、
(そういえば、燈兄も、白い服着てたよね?
ん、燈兄なのかな?)
狙う気満々なのに、動いてこない敵。燈輝は当然誰だか、わかっている。また亮の体に振動をともなって、燈輝の低い声が、
「なぜ、俺ではなく、こっちを狙うんですか?」
(なぜ、亮に殺気を向けるんですか?)
年老いた声が、下の方から聞こえてくきた。
「気の乱れは、なおったようじゃのう?」
(家にいた時とは、大違いじゃ)
「質問に答えて下さい」
(未だに、殺気が向かってます。
なぜですか?)
殺気を向けてきていたのだ、敵は。当然、燈輝は亮を守るだろう。だが、守り方に問題が……。公園の地面に伸びた影は背の高いものと、小さくちょこんと丸まったものの、ふたつしかなかった。亮の影が、不思議なことにない状態に。
相変わらず、誰かの息遣いが耳元で聞こえる中、亮は不思議そうな顔で、
(誰と誰が話してるのかな?)
自分がどうなっているのかわからないボケ少女に、年老いた声が、親しみのこもった様子で、
「亮ちゃん、久しぶりじゃのう」
(五年ぶりじゃ)
「え……?」
(どうして、自分の名前、知ってるのかな?)
亮は声が聞こえてきた右側へ、首を回した。そこで、また別の違和感に気づいて、
(あれ、視界が高いね、ずいぶん。
さっきまで、ブランコに乗ってたよね。
でも……今は乗ってないね。
いつの間に移動したのかな?
背が高くなってる気がする。何で?)
普段立っている時よりも、亮のいる視界はずいぶん高くなっていた。今度は、自分の足に違和感が、
(ん、浮いてる……?)
不思議がっていると、自分の左耳のすぐ近くから、声が、
「師匠……」
(なぜ、あとをつけてきたんですか?)
あきれているような、低い声だった。
(師匠?)
亮は小さい年老いた人をじっと見つめて、
(今の声は、燈兄だね。
燈兄の師匠……ってことは……?)
小さい人の名前を、ボケ少女はやっと思い出した。
「あぁ、八平さん。久しぶりです」
挨拶をしようと、頭を下げると、顔に何かが当たった。
(ん? ……布?
おかしいなぁ)
影がひとつ足りないということは、重なっているか、くっついているかが起きているということ。
夕暮れの公園で、ふたりきり。
しかも、亮の視界は高くなっていて。
彼女の背中には圧迫感が。
燈輝は右腕を動かしていた。
深緑の髪が亮のすぐ近くにある。
他の人から見たら、思いっきり意味深なシチュエーションになっている、今。
若者ふたりを前にして、八平は妙にうなずく。
(やっぱり、そうじゃったんじゃな。
燈輝の様子が今朝から、おかしいと思っとったんじゃが。
これを悩んどったんじゃな。
それなら、この言葉で、お前の悩みは一気に解決じゃ!)
じいさん、思いっきり勘違いして、大胆発言を放った!
「亮ちゃん、家に嫁に来んかのう?」
「っ!」
(なぜ、その言葉なんですか?)
亮のすぐ近くで、誰かのつまったような呼吸がした。その反動で、背中にある圧迫感が少し弱くなり、亮は落下速度を感じて、
(わっ、なんか、下にずれたよ!)
「落とすと、危ないじゃろうが」
八平は息をつまらせた人に注意した。燈輝の態度から、師匠は勝手な解釈を開始。
(お前が、それだけ慌てるとは、やっぱり、わしの勘は間違っとらんかった。
わかっとる、わかっとる。
幾つになっても、燈輝はわしの可愛い孫じゃからのう。
お前の考えてることは、よくわかる)
亮は八平の言葉に、違和感を持って、
(落とす? 何を?)
なぜか、何かが落下の危険がある状態に。燈輝は再び右の肩甲骨に意識を集中させ、
(正中線と正中線。
重心の移動。
亮に浮身(*武術用語で、操り人形のように、上からつられた状態のこと。これをすると、体感的に軽くなる))
浮身を使うと、相手を軽々と動かせることができる。合気の中級編。八平は燈輝に臆することなく、もう一度、亮に、
「どうじゃ?」
(亮ちゃんもそうかのう?)
期待をしていたじいさんに、亮の大暴投が。
「あぁ、確かに暑いですね」
(夕方だけど、夏だからね)
誰かのため息が、耳元で舞った
(意味がわからん)
八平は亮にのんびりツッコミ。
「うちわとは言っとらん。家に嫁にじゃ」
(『うち』に『わ』を勝手につけとる)
ボケ少女ここで、宇宙の果てに一気に大暴投!
「え……?」
(家が夜?
燈兄ん家だけ、真っ暗ってことかな?)
何も返してこない亮の言動を見て、八平はまた、勝手な解釈をして、一人幸せそうな顔で、
(そうか、わしの言葉が耳に入らんほど……亮ちゃんもそうなんじゃな。
知らんかったのう、こんなことになっとったとは……。
どれ、ちと感想を聞いてみるかのう)
ここで、やっと明らかになる。燈輝と亮が今どういう状態か。八平は若者ふたりを前にして、
「亮ちゃん、燈輝の腕の中はどうじゃ?」
(さっきから、そのまんまじゃ)
亮はぽかんとして、
「え……?」
(燈兄の……腕の中?)
彼女は八平から顔を外して、左へ顔をゆっくり向けた。すると、今すぐキス出来そうな距離に燈輝が。亮はびっくりして、大声を上げ、
「えぇっっっ‼」
(な、何で、こんなに近くなったの⁉
わっ、燈兄に抱きしめられてる⁉
な、何だか、恥ずかしいよ)
燈輝の腕の中で、顔を真っ赤にした。武術の達人はボケ少女をかばうために、右腕で軽々と抱きかかえていた。しかも、自分の背と同じ高さに持ち上げて。やりすぎである。
燈輝も珍しく、びっくりして、
「っ!」
(師匠、罠ですか?)
大騒ぎした若者ふたりを見て、八平は満足そうに微笑んだ。
(ふたりとも、いい反応するのう)
八平は、今までの自分の行動を心の中で長々と語り始める。
(わしはのう。
燈輝の様子が朝からおかしかったから、家から気配を消して、つけてきたんじゃ。
心配じゃったからの。
天照庵を出たあと、燈輝が家と違う方向に急に動き出したから、何をするのかと思って急いであとを追ったんじゃ。
そしたら、そこに亮ちゃんがいたんじゃ。
何やら意味あり気に見つめ合ったりしてな。
これはもしや……わしの修業バカな孫にも、とうとう春が来たかも知れんと思ったんじゃ。
そのあとすぐに、ふたりで移動し始めたから、どこへ行くのかと思ってつけて来たら……夕暮れの公園じゃ。
なかなか、いいシチュエーションだと思って、しばらく見とったんだが、ちっとも側によらんからのう。
これは、ちと、わしが手を貸してやらにゃいかんと思ってな。
燈輝にわかるように、殺気を消さずに亮ちゃんを狙ったんじゃ。
そしたら、燈輝はわしの攻撃から、亮ちゃんを守るために、右腕であっという間に抱きかかえおった。
わしの計画通り、急接近じゃ。
やっぱり、好きなもん同士、側にいるのが一番じゃ。
燈輝の気の乱れも一気に直ったしのう。
恋の力は偉大じゃ)
じいさん、勘違いして、ある意味余計なことを思いっきりしていた。弟子は師匠にまた、心理戦で負けていた。
「降ろす」
燈輝は短く言って、亮を下に降ろそうとして、
(重心の移動。
浮身を解く)
亮と燈輝の気を読んで、八平は妙に感心。
(燈輝、お前もやるのう。
それで、亮ちゃん立たせたら、お前に寄りかかるじゃろうが。
まさか、武術を恋愛の手口に使うとは……真っ直ぐ過ぎるお前もずいぶん成長したのう。
わしは、もう思い残すことはない。
このまま死んでも、本望じゃ)
師匠は暮れてゆく夕焼けを見上げて、少し涙ぐんだ。動きを封じたり、相手の意識を奪う技だ、合気は。それを、恋愛に使ったら、近くに寄らせたり、押し倒すことも簡単だろう。
一人盛り上がっているじいさん、すぐさま訂正。
(いや、まだ、死ねん。
わしはあの計画をかなえるために、長い間、待っとんじゃ。
それをかなえるまでには、死ぬわけにはいかん)
バカみたいに盛り上がってる師匠の心の内に気づかず、弟子は亮をすっと下に降ろした。八平が予測した通り、亮はなぜか足下が、ふらふらして、
「え……?」
(あれ?)
そのまま彼女は、燈輝にもたれかかった。燈輝は亮を受け止めて、低い声で、
「どうした?」
(なぜ、俺に寄りかかる?)
亮は燈輝の顔を見上げて、
「足に力が入らないんだよね」
(どうしてだか、わからないんだけど……)
燈輝は亮を自分の体から離してみるが、彼女は彼に支えてもらわないと、立っていられない状態に。
燈輝は亮の気を探ぐり、
(なぜ、力が入らん?
気の流れは、変わっていないが……)
気の流れとは違うところに問題がある。亮は不思議そうに首を傾げて、
(真っ直ぐ立ちたいんだけど、体が傾くんだよね。
頭もさっきからずっと、ぼうっとしてるし)
密着している、燈輝と亮を眺めて、八平は一人、幸せに浸る。
(ええのう。
夕暮れの公園で寄り添うふたり……ランデブーじゃ)
祖父は孫の心理を勝手に妄想。
(お互い好きじゃったが、今まで言えんかったのかも知れんのう。
どう言おうか、燈輝はずっと迷っとったんじゃな。
だから、燈輝は二十四になるまで、誰とも恋しなかったんじゃな。
そういうことじゃな。
ということは………わしがここに居ては、邪魔じゃの)
八平は気をきかして、若者ふたりに声をかけた。
「わしは帰るのう」
(がんばって告白するんじゃ。
上原家の未来がかかっとるからのう)
師匠はブランコからすっと、立ち上がり、滑るようにふたりから離れ出した。
(帰ったら、小十郎と美智子さんに報告じゃ。
今日は、赤飯でお祝いじゃ。
そうじゃ、商店街で、鯛の尾頭つきを買って……)
完全に盛り上がっている八平は軽い足取りで、公園から出て行った。
亮は燈輝に寄り添ったまま、不思議そうに公園の出口を見つめ、
「八平さん、何しに来たのかな?」
(何だか、変だね)
「知らん」
(何か、笑いを取ってるのかも知れん)
弟子には師匠の考えは、まったく見当がつかなかった。
そして、静かになった。夕暮れの公園にふたりは取り残された。
お互いの香りが、夏の空気と混じり合い、それぞれを酔わせるような空間。無言のまま、呼吸の音だけがやけに大きく聞こえる。
寄り添ったまま、亮と燈輝は、それぞれ違う感覚で、
(す、すごくドキドキするね、小さい頃はこんなことなかったのになぁ)
(また、気が乱れてきた)
燈輝はふと、今の状況になる前のことを思い出して、
(気の乱れ方が、今日は不規則だ。
なぜ、さっきだけ、正常に……いや、いつも以上に気の流れがよくなった?
胸の意識が一瞬で消え、腹、正中線の意識が一気に高まった。
どうなっている?)
亮を守ろうとした時の燈輝は、通常ではあり得ないほど、体が冴えていた。ボケ少女はふと公園の時計を見つけ、
(五時四十五分……‼)
「えぇっ!」
びっくりして飛び上がろうとしたが、力が入らなくて大声を上げただけだった。
(た、大変だ。間に合わないよ。
六時に、櫻井さん、来るって言ってたのに。
ど、どうしよう⁉)
半ばパニック寸前になっている亮に、燈輝は顔を近づけ、
「どうした?」
(胸の意識が、いつもよりもさらに前に出ようとしている)
亮は彼の香りを感じて、ドキッとする。
「あっ、あの……」
(さっきよりも、ドキドキするよ)
燈輝は何も言わず、彼なりの対処を開始。
(落ち着く気の流れを、お前に送る)
気を自由に操れるのも、合気の醍醐味。すると、亮は少しずつ落ち着いてきてた。
「六時から、家でパーティするんだよね。だから、帰りたいんだけど……どうしたら、ちゃんと歩けるのかな?」
(遅れちゃうのは、よくないよね。
困ったなぁ。
歩きたくても、立ってるのも、一人で出来ないし……)
燈輝は短く、
「運ぶ」
(状況を打開する。
時間に遅れるのは、いかん。
正中線と正中線。
重心の移動)
武術の達人は一瞬のうちにそれらをして、亮を右肩に軽々と担ぎ上げた。
「えぇっ!」
(な、何で肩に乗せてるの⁉)
亮は目を大きく見開いたが、自分で動けないので、されるがままだった。燈輝は彼女のカバンを左手で持ち、
「家は、どっちだ?」
(気が乱れる。なぜだ?)
魂の奥底にある何かに、武術の達人の気の流れは揺すぶられていた。亮は目線だけ動かして、
「あ、あっち……」
(さっきよりも、もっと恥ずかしいけど……。
で、でも、仕方ないよね。
自分じゃ歩けないし、運んでもらうしかないよね)
燈輝は亮の気の流れを読んで、方向を判断。
「わかった」
(お前の気が向かった方に、移動……!)
そこで、やっと気づいた、燈輝は。師匠が恋愛の手口と勘違いした技の残骸を。燈輝は少しため息をついて、亮に急にまっすぐ謝った。
「すまん」
(技、解くの忘れてた。
ずっと、お前の重心、奪ったままだった。
お前が一人で、立てないのも無理ない)
最初、亮が後ろに倒れないために、重心を前へ移動させた。暴れると危険だと思い、亮の重心を燈輝が奪った。次に、師匠の言葉に驚いて、亮を落としそうになり、彼女の重心を上へ移動させた。この、二番目の重心を奪った技を解くのを忘れたのだ、燈輝は。
重心を戻され、急に謝られた亮は、きょとんとし、
「え……?」
(な、何で、燈兄、謝ってるのかな?)
そして、燈輝は彼女を地面へ艶やかに降ろした。すると、亮は真っ直ぐ、自分で立てるようになっていた。ボケ少女は目をぱちぱちさせて、自分の足下を見つめて、
(あれ? ちゃんと立てるようになってる。
それに、頭がぼうっとしてたのが、消えた気がする。
気のせいだったのかな?)
燈輝の低い声が、夕暮れの空に舞う。
「送ってく」
(俺のせいで、迷惑かけた。
それぐらいはする)
「うん、ありがとう」
(燈兄は、優しいね。
昔から、変わってないんだ)
亮が屈託のない笑顔でうなずくと、ふたりはきちんと距離を取って歩き出した。