乱れた気
今日は七月七日、火曜日。
いつもなら、同じ敷地内にある道場に向かうところだが、八平に言われたため、燈輝は自宅で過ごしていた。
夏の少し湿った風を感じながら、縁側で乱れた気を整えようとしている。
獅子落としがカコンとなる中、池の鯉がちゃぷんと水面に顔を出す。綺麗に整えられた植木と、灯籠が日本の奥ゆかしさを漂わせていた。
燈輝は朝の清々しい空気の中、自分の内側に集中。
(胸に体の中心が来ている。
その丹田(*気をためるための器)の意識が異常なほど強い。
普段とまったく違う。
普段の自分は、腹の丹田の意識が一番、強い。
胸の意識は持っていない。
それは、たいてい変わらない。
自分の気の流れの特徴だ)
胸の丹田は感情を司る。腹の丹田は落ち着きを与える。いつの燈輝は、腹の方しか持っていない。
遠く空を飛んでいく鳥を、瞳に映しながら燈輝は、別の気の流れを読む。
(修業で身につけた、正中線(*身体の中心を上下に貫く、バランスを取るための気の流れ、センターともいう)が崩れている。
下の意識が衰え、全体的に前へ出ようとしている)
燈輝は一度、腹で息を深く吸う。
(感情に左右されやすい気の流れだ。
修業をするには、感情は邪魔だ。
それをなくすためには……)
燈輝はそこまで判断して、気の流れを整える修業へ。
(板の間の上に正座する。
腕組みは厳禁、胸の意識が強くなる。
両手はひざの上に乗せる。
地球の中心を感じる。
腹の丹田に意識を置く。
それを保ったまま、深くゆっくり息を吸う。
そして、下から落ち着いた気の流れを、自分の腹の丹田に入れる。
そこに意識を残したまま、息を吐いていく)
足を開いてはいけない。両脇から熱いマグマの気が体に流れ込み、胸の意識が強くなってしまう。腕組みも胸に意識がいってしまうから厳禁。感情に流されないためには、この気の流れはいらない。だが、反対にいえば、思いやりや、情熱があるということだ。決して、いけない気の流れではない。武術の達人、燈輝に必要がないだけ。
燈輝がそれらを繰り返している間、夏の風が吹き抜け、静かな時間が流れていた。
(次は正中線だ。
胸の熱い意識を消すために、冷たい正中線を作る。
水……氷……身体を上下に貫く一本の線。
前へ出過ぎている。
それを後ろに下げて、自分の中心に合わせる)
正中線とは、足元の内くるぶしから足のひらへと落とし、少し内側へ入った場所が体の中心となる。膝より下は二本の骨に支えられている上、内側の方が骨が太い。そこに重心を乗せたほうが合理的。そこから、上へと細かいポイントに巧みに気の流れを通していき、頭にある百会(*ツボ)へと貫かせる。
非常に難しい気の流れで、持っている人はほとんどいない。
燈輝はさらに、次へと進む。
(広い空間をイメージする。
目に見える範囲ではなく、宇宙の果てを感じる。
三百六十度、同じように……)
そこまで考えた時、ふと、朝見た夢を思い出した。そこで、彼は違和感を覚え、
(あの気の流れは、普段、感じている宇宙と違う。
なぜだ? 夢だからか?
……いや、違う。
感覚が、鋭すぎる。
『大切な想い』
『一緒に守りたかった……変えたかった』
誰とだ? あれは、誰だ?
胸が苦しくなる……あの感情は、何だ?)
燈輝の気を読む力はすごかった。まだ、ラピスラズリに行っていないのに、別世界だと気づいた。あの直感型、セリルよりも早かった。日々の積み重ねは大切ということだ。
体の中の気に、別のものがざざっと入り込み、燈輝は急に顔をしかめた。
「っ……!」
(いかん。また、気が乱れた。
夢を見たぐらいで、乱れるとはまだまだ、修業が足らん)
また、燈輝は乱れた気を整え始める。
(腹の重たい意識。
落ち着き。
冷たい正中線。
大きな気の流れ)
かなりのものだ、燈輝の修業は。ここまで、できる人はそうそういない。だが、なかなか乱れた気を修正することは、出来なかった。
(……最後の手段だ。
胸の丹田の性質を変える。
熱いものから、冷たいものへ。
火ではなく……氷)
そうイメージすると、胸の体温が下がっていく気がした。
『頭寒足熱』という言葉あるように、頭は冷やした方がいい。それを気の流れでやるには、氷で頭を囲まれたイメージを持つといい。燈輝はこれを、胸の丹田に応用。
武術の達人は正座したまま、深くゆっくり息を吸い、
(何が原因だ?)
目の前の、立派な日本庭園を凝視。獅子落としのカコーンという音が響いた。
(夏?
……いや、それなら、今日、突然というのはおかしい)
季節によって、調子が変わるのは、自然の気の流れに、体の気の流れが影響を受け、変質してしまうからだ。
燈輝は美しいまでに、真っ青な青空を、見上げ、
(雨?
いや、今日は雨は降っていない。
晴天だ)
雨が降ると、冷たいものが降り注ぐ。そのため、胸の熱い気が消されないようにと、いつもより熱を持つ。雨の日にイライラしたり、体がだるくなるのはこのせい。
燈輝は記憶を朝まで巻き戻した。
(食事?
いや、朝の食事は和食。
油物、肉類は食べていない。
ここ、数日そうだ。
過剰に食物の摂取もしていない。
胸に中心が来るような原因は、何ひとつない。
おかしい)
食べ物で、気の流れは決まる。逆もまた然り。気の流れで、好きな食べ物が決まる。胸の丹田がある人は、肉や脂っこいものが好物。腹に丹田がある人は、和食や食物繊維が好き。食べすぎは、気の乱れを引き起こす原因のひとつ。
燈輝が気の流れを整えている間、彼自身には聞こえない声が、魂にずっと呼びかけていた。
【追憶 五千年の時を経て 愛しき者 再び巡りあう】
呼びかけてる人も大変だ。全然気づいてもらえないのだから。
燈輝は修業をずっとしていたが、鋭い気の流れを察知。
(後方から……)
素早く、右へ身体をずらした。間髪入れず、自分の左側の床に、木の棒がびゅっと勢いよく降りてきた。そして、床にぶつかるかるかと思いきや、流れるような仕草で、自分の左側へ方向転換してきた。
体に触れるのを阻止しようと、燈輝は木の棒を左手でつかんだ。やってしまった。このあとどうなるか、予測がつく。
「!」
朝とは違い、攻撃を阻止した燈輝は日本庭園を眺めたまま、木の棒を自分へ向けてきた相手に抗議。
「師匠、木刀は危ないです」
(今、本気で狙ってました)
「甘いのう」
年老いた声が聞こえたと同時に、燈輝の身体が傾いた。彼は無意識のうちに、全てを判断。
(合気かけられた。
防ぐのは無理だ)
かけられたら最後、返す手がないのだ、合気は。186cmもある燈輝の体は軽々と宙に浮き、怪我をしないように対策を取るだけで手一杯。
(受け身)
縁側の空中で前転して、床の上に仰向けに、大の字に寝転がった。150cmしかない師匠は、弟子を見下ろして、心の中で指導。
(今日のお前は、いつもにも増して、甘いのう。
木刀に触れたら、合気かけられるじゃろうが)
木刀の動きが不自然だった。真っ直ぐ床に落ちる寸前に、燈輝に向かってきたのだから。心理戦でやられてしまった、二十四歳の若者は。
物理的に接していれば、合気はかけられる。師匠の持っている木刀に触れたら、合気をかけられて当然。相手は、世界的に有名な武術家なのだから。
これを応用して、相手の武器を奪うことも簡単にできる。
「…………」
カラスがカーカーと鳴きながら飛んでいく間、186cmもある燈輝は、しばらく、不思議なことに話すことも、動くことも出来なかった。
意識も奪われて、体の動きも封じられてしまう。通常なら、合気をかけられた瞬間から覚えていない。何が起きたのかさえわからないのだ。気づいたら、倒されていたという感じだ。
だが、燈輝はなんとか覚えている。それだけ、達人なのだろう。
「っ…………」
一分経過。
床に寝転がったまま微動だにしない燈輝。息は苦しそう。木刀を握ったまま、だが、それも自分の力では外せない。一方、八平も木刀を持ったまま、空を悠然と眺めた。
「いい、青空じゃのう」
師匠の声も、聞き取れない弟子は。
「っ…………」
五分経過。
それでも動けない燈輝の息はまだ苦しそう。それはなぜか、自分を保っている気流れ全てを、師匠に奪われているからだ。正体不明になっているのと一緒。
二分経過。
師匠は弟子にかけていた技をやっと解いた。木刀を燈輝の腕から、するっと抜いて、
(未だに、気の乱れは直っておらんようじゃのう)
やっと動けるようになった燈輝は、体の違和感を抱きつつ、
(頭が、くらくらする。なぜだ?)
合気をかけられただけでは、頭はクラクラはしない。別の何かが起こっている。
木刀で自分を本気で襲ってきたという、殺傷能力の高いことをしてきた師匠。後ろへ振り返り、弟子は、
「何ですか?」
八平は燈輝の違和感の原因を説いた。
「修業のやり過ぎじゃ」
(一体いつまで、そうしてるつもりじゃ?)
八平は回りを見るように促した。燈輝はそこで、やっと気づいた。
(陽がだいぶ西に傾いてる。
夕方……)
彼は朝から、修業にずっと没頭していて、時間をすっかり忘れていた。本当に修業好きである。
燈輝は珍しくため息をつき、
「やり過ぎ……」
(しかし、出来ん。
朝から、ずっとしているが、乱れた気は一向に直らん。
なぜだ? なぜ、直らん?)
八平は、また修業を始めそうな勢いの孫を見て、
(修業ばっかりで、他のことに興味が向かん。
このまま、一生終えそうな勢いじゃ。
わしの、あの計画は無理かも知れんのう)
八平じいさんには、切なる願いがあった。孫に、祖父らしく優しく、
「脳が疲れとる」
(それ以上やっても、身にならん)
修業し続けたい人間がやってはいけないこと。燈輝は盛大にため息をついて、
「…………」
(意識がぼうっとして、頭が痛い。
確かに、脳が疲れてる。
しかし……気の流れを整えないと……)
脳疲労を起こしている。休まないといけない。それなのに、燈輝は修業に気を取られて、まだ続けようとしていた。八平は孫に、ひとつ提案。
「天照庵の水まんじゅうとあん団子、買ってきてくれんかのう?」
(大事なことじゃ。
脳が疲れた時には、甘いもんが一番じゃ)
弟子は真っ直ぐツッコミ。
「もう、お茶の時間過ぎてます」
(四時過ぎです)
師匠は心の中で、激しくツッコミ。
(それは知っとる、そこまでぼけとらん!)
「お前の分じゃ」
八平は優しく微笑んだ。修業バカ、燈輝は真面目に、
「夜は、食いません」
(夜食べると、感覚が鈍る)
感覚を鋭くするには、夕食は避けが方が極力いい。師匠は、それを聞いて、心の中でため息を。
(何をそんなに必死になっとるんじゃ?
仕方がないのう)
師匠は、弟子が一番気にしてる点をついて、上手く言いくるめた。
「明日の修業に差し支えるじゃろうて」
(どうじゃ?
これで、わしの言うこと、聞くじゃろ)
燈輝は師匠へあきれた顔。
「…………」
(天照庵へ、買い物に行かせるために、わざわざ木刀持ってきたんですか?
しかも、本気で襲ってきました。
どういうつもりですか?)
自分の身長近くまである木刀を軽々と持つ八平。186cmの燈輝を投げ飛ばしたのだ、木刀ぐらい扱うのは簡単だ。得意げに師匠は、ニーッと笑う。
(木刀でお前を襲ったのは、わしのすごさを見せつけるためじゃ)
じいさんは、一体誰にすごさを見せつけたかったのだろうか、謎である。おそらく、これは笑いだろう。
祖父は、袂からお金を出して、
「これで、買ってくるがよい」
孫は素直に二千円を受け取り、
「わかりました」
(明日の修業に差し支えるのは、いかん)
美青年は艶やかにすっと立ち上がって、縁側から長い廊下を通り、玄関まで歩いていく。その間、燈輝の心の中は、次の言葉でいっぱいに。
(縮地。
正中線。
丹田)
全然、師匠の話を聞いてなかったというより、燈輝は無意識のうちに修業している、いわゆる修業バカなのだった。
草履を履いて、少しオレンジ色に染まり始めた空を見上げ、
(もうすぐ日が暮れる。
あと、何の修業が出来る?)
武術の達人らしいことを考えながら、商店街へと歩き出した。