第6話「続く、物語」
夏。
私たちはそれぞれの試験会場で、教員採用試験に挑んでいた。
とはいえ、その姿勢は私と純哉とでは全く違う。
真剣に先生になり、教壇に立つことを目指す彼。
一方で、試験を受けながらもどこか真剣になれない自分。
結果は明確……なはずだった。
世の中とは、何か不思議というのか、残酷というべきか。
純哉は受験した全てで一次試験を突破することはできなかった。
そして、私は何故か、一次試験を突破してしまった。
最近は小学校の教員の採用数が以前に比べれば増えてきているとはいえ、目指す人間も多いし、やはり何か「持っている」人が新卒でも採用に至るのだろう。
以前から講師を続けて何年も試験を受け続け、採用というパターンはよく聞く。俺も迷った。それが近道なら、そうするべきか。それとも……。
地元の教員採用試験は面接や模擬授業、集団討論などを重ねていく。緊張の連続だ。
もともと緊張に弱い。さらに他の受験生の模擬授業の迫力に圧倒されてしまう。面接では何を言ったかすら覚えていない。討論なんてできるはずもない。
純哉や教員採用試験に詳しい就職課の人に対策を練ってもらったが、私の試験は二次までで終わった。
まるで自分のことのように私の対策に日々力を貸してくれた純哉には、お礼を言っても言い足りない。
本心ではないが、やるだけやって燃え尽きてしまったような私を見た家族はさすがに心配したようだ。
父親はこれ以上教員になることを勧めはしなかった。
「今の絵里には、この仕事をできるだけの気力がないんじゃないか」
悔しいが、確かにそうだ。今の自分には、到底務まらない。
大学4年の後期の授業が始まる。久しぶりに学校に顔を出してみた。もう内定をもらっているか、焦りに焦っているかのどちらかだ。
実家に帰って仕事を探したいと言っている友達がふと言った。
「恵子ちゃん、この大学じゃない大学の院に行くんだって。かなり前から決めてたらしいよ」
恵子ちゃんは同じ学部の友達の一人だ。意外といえば意外だったが、そういえば就職活動とかとは一線を画していた気がする。そうか、そう考えていたんだ……。
私は珍しく、すぐに恵子ちゃんに連絡を取ってみた。
「恵子ちゃん、院に行くの?」
「うん、前々から行くつもりで準備してて。本当はこの大学の院に行くつもりだったけど、ゼミとかで使う文献をいろいろ調べてたら、自分の研究に近い先生がちょっと遠い大学にだけどいらっしゃることが分かってさ。夏に試験受けてきて、合格したの。でも、そこを修了したらまたここに、今のゼミの先生のところに戻ってきたいな」
ある意味、完璧とも言える彼女の計画に圧倒された。
そして、自分も……と考え出した。
私の今いるゼミの先生は今年定年退官される。その後にだれか先生が来られると言う話は聞かない。
それならば。いっそのこと、今やっている、自分の興味のある研究を、極めてみるのもいいんじゃないか。この学部でなくても、他の大学や他の学部でも。
私は「大学院に進学する」という方向に進路を決め、情報を集めだした。
俺が今まで続けてきた研究は、卒業したら途切れてしまう。たとえ、正式に先生になって、また大学院に戻ってきたとしても、研究テーマは全く変わったものになるだろう。それはもったいない気がした。
それに、俺が先生になって、どこまで上に行けるかはわからないが、その途中で1年や2年大学院に行くのはやっている仕事を中断することになる。
それなら、最初から行くべきところに行っておいてもいいかもしれない。
俺の気持ちは大学院進学の方にだんだん傾いてきていた。
「うーん……」
他の大学の大学院を調べてみるが、やはり内部進学に有利だったり、専門的にその勉強をしてきた人間でないと対応できないような内容だ。
今いる学部はよく言えばいろいろなことを学ぶことができるが、そこまで専門的に深く掘り下げる学部ではない。入学当初はそれが魅力であり、そこから興味ある世界を見つけて行こうと思っていた。しかし私が一番力を注いだことは本来なら学部の範囲外であった教職課程の内容だった。
それなら、この大学の教育学部の大学院に進学して、今の研究に近いこととこれまで勉強してきたことを合わせられる研究をしてみよう。
私はまず事務室の大学院担当の人に話しに行ってみることにした。
絵里にはまだ俺がどちらの道をとるかは伝えていなかった。
大学院進学となると、そのまま三原先生のゼミに残るのが妥当だろうし、研究を続けていく上でもふさわしいだろう。後は、冬の試験まで過去問を解いたりこれまで授業で使ってきたテキストを復習することだ。
絵里は大学院に行くつもりだと言っていた。今は他大学の院を検討していると言っていたが、どうなのだろうか。
今はお互いが納得いく道を見つけて歩んでいくしかない。それが、別の道になっても。
本当は、大学二年の頃のように二人で一緒にいれたらな……とも思うが、我儘というものだろう。
私は、事務室の大学院担当の人から過去問のコピーと希望の教授のところに行って対策を聞くようにアドバイスを受けた。
「試験まであまり時間ないし、急いだがいいと思うわよ」
ある意味突飛な私の相談に、普段は愛想のない事務の人は丁寧に対応してくれた。
今までに授業を受けたことのある、吉野先生という先生の研究室に、突然ではあるが訪問してみる。何度か研究室にレポートを提出しに行ったことがあるので、電気がついていれば必ず在室だということは経験で分かる。
うちのゼミの先生のように研究室を持っていても電気を付けっ放しで部屋を出て行く先生も数多くいる。それに比べればわかりやすい。
「失礼します」
突然の訪問にも、吉野先生は快く応えて下さった。
一通り私の話を聞くと、先生は言う。
「そうだね、真中さんの研究したいテーマで、これまでの経歴から見ると、うちより隣の三原先生の研究室の方が適切じゃないかな。訪ねてみてごらん」
そして、他学部から教育学部の大学院を目指すにあたってどのような勉強をすればいいかを事細かに教えてくれた。
意外だった。三原先生からも吉野先生からも授業を受けてはいたが、どちらかというと吉野先生からの方が多かった気がしたからだ。だからこそ、まっすぐに吉野先生の研究室に向かったのだから。
隣の三原先生の研究室の電気も点いている。レポートよりも試験重視の先生だったから、研究室に行くのは実は初めてだ。
ドアをノックすると、「はーい」と言う声が聞こえてきた。
「失礼します」
三原先生は、自分の想像以上に驚いていた。
先生とこうやって、向かい合って話すのはもちろん初めてだ。
私は、自分の気持ちや考え、そして吉野先生にこちらに来るように言われたことを伝えた。
「真中さん」
「はい」
「本郷くんと、付き合っているんだろう」
サッと血の気が引いた。なぜ、この人はそれを知っているんだろう?
先生は続ける。
「本郷くんを、追いかけてきたのか?」
「えっ……?」
純哉は、先生に、講師になって、教壇に立つものとばかり考えていた。大学院の話もしていなくはなかったが、まさか……。頭が真っ白になる。
「その様子なら、本当に何も知らなかったようだね」
私は何も言えない。
「さっきの真中さんの話を聞くと、中途半端な気持ちだったり、単に彼氏を追いかけましたというわけでもなさそうだ。ただ、教職課程を取っていて、教員免許を取っていたとしても、学部が変わって、さらに高いレベルを求められるというのはあなたにとって厳しい道になる。それでも、ここに来るかい?」
「自分の精一杯……頑張ります。やれるだけ、やります」
今言えることは、それだけだ。
三原先生はほんの少し表情を緩めたようだった。
「確かに、吉野先生の専門から真中さんの研究は少し外れてるから、うちのゼミかもしれないな……もしかしたら……」
そして私の方を向き、目を見据えて言った。
「吉野先生も、真中さんと本郷くんを同じゼミの同級生にしたかったのかもな」
それは私にはわからないが、吉野先生は入試対策をすごく丁寧にしてくれた。私が他学部からなのだと思っていたが。
「私にはそこまでは分かりません……」
だんだん三原先生の表情が楽しそうになってきている。笑顔まで見える。
「とにかく、入試に合格することだな。そうしたら、このゼミにおいで。歓迎するよ」
最近ほとんどメールやメッセージでのやりとりしかしていなかった絵里から珍しく電話がかかってきた。絵里からかかってくるなんて付き合い始めて数えるほどなのに。
「純哉、院行くの?」
「あれ、言わなかったっけ……?」
「聞いてないよ……おかげで、びっくりさせられた」
「誰にだ?」
「三原先生」
それに驚いたのはこっちの方だ。何で、絵里と三原先生が授業外で、いや、授業でも直接接触することはなかったのに?
「私、教育学部の院に行くことに決めて、先生に話を聞きに行ったら、純哉の話されて……てっきり純哉は講師になるとばかり思ってたから、目が点、頭真っ白になっちゃった」
「いつ決めたんだ?」
「うーん、ずいぶん前から考えてはいたけど、決断したのは最近。純哉はいつ院に行くって決めたの?」
「ずいぶん前から……だから、絵里にはてっきり伝えたものとばかり思ってた」
「知らなかったよ。最初、私、吉野先生の研究室に行ったら、三原先生の研究室の方が向いてるんじゃないかって言われて。で、素直に三原先生の研究室に行ったら純哉を追っかけて来たのかなんて言われてさ。驚かされたし、からかわれたし。純哉はてっきり講師になるってばかり思ってたものだから」
「俺も初耳だから驚いた。絵里は他の大学の大学院に行く気でいたみたいだったから……」
絵里は少し声のトーンを落とす。
「いろいろと、私には厳しい。だからって、教育学部の院が簡単だなんて思ってないし、先生たちからも他学部から高いレベルを求められるのは大変だし、厳しい道になるって言われた。でも……今の私にはこの道しかない」
彼女はまだ思いつめている感じがした。でも彼女が望むなら、その手助けをするまでだ。と言っても、今の俺に何ができるかわからないが……。
「なら、二人とも頑張って、一緒に合格しよう。三原先生の掌の上で転がされているような気もしなくはないけど、同じゼミで、同級生になろうぜ」
「三原先生、それを知ってすごく楽しそうにしてた。最初は私にすごく怖そうな顔してたのに、自分からその話をしだして最後は笑顔になってたもん」
「そこがあの先生のいいところだと俺は思ってる。感情が豊かというか、まるで大きな子どもみたいというか……。俺、頑張るよ。絶対受かるように」
「私も!」
俺たちは、二人揃って背中をドンと押されたようだ。他でもない、ゼミの先生、三原先生に。
途切れると思っていた俺たちの物語は、どうももう少し続くことになりそうだ。