甘くないお菓子
家の隣に送迎の馬車が横付けされると、御者がドアを開けるのももどかしく、自分でドアを開けて馬車から跳び下りた。驚く御者の白い手袋を後目に屋敷の中に駆け込むと、執事も召使たちもびっくりした顔をしている。
「父上は?」
食ってかかるように執事に尋ねると流石は我が家の司令塔だけあって、すぐに冷静さを取り戻してしゃんとした佇まいで僕を見る。
「旦那様は坊ちゃんをお出迎えになるご用意をされていますが」
「僕が部屋に伺う。お前たちは誰もついてくるな」
言い捨てる様に言い置いて、畏まって頭を下げる執事を背後に置いて僕は屋敷の中も駆ける。階段を上がって廊下を走って父上の部屋の前まで着くと、部屋から出て来た父上と遭遇した。
「おおセイ君。どうしたんだい随分慌てて。今君を出迎えに行こうと思ってたところなのに」
「父上」
ずっと走ってきたから流石に少し息が上がった。僕は一つ大きく呼吸をして、それを整える。それから、自分より背の低い父親の顔を見下ろした。
「お話が」
「なんだい?」
愛嬌のある丸い瞳が怪訝そうにきょとんと僕の顔を覗き込む。いつも通り、何の威厳もない、気の良さそうな父上だ。でっぷりしたお腹が邪魔で歩くのが辛そうな。
「今日、アシュの屋敷で見て来たんです。アシュが薬を注射されていました」
「ああ」
父上は、それを聞いて眉を寄せた。
「見てしまったのかい。可哀相に。ショックを受けたろう? セイ君はアシュ様と仲睦まじいからね」
可哀相に? 誰が? 僕が?
まさか!!
可哀相なのは、アシュだ。
ようやく薬が切れて虚ろな笑いを止めたと思ったら、真っ青になってソファに横になって、何度も洗面器に向かってげーげーと嘔吐を繰り返した。胃の内容物がなくなって吐けなくなっても、痙攣を続けて胃液を出し続けた。惨めそうに僕に向かって自分を見るな出て行けと怒鳴ったアシュは、まるで毛を逆立てる野良猫のようだった。
アシュは、吐き気と頭痛でのたうち回って、カナさんの持ってきた酒入りの牛の乳で無理に寝てしまうまでずっと体を震わしていた。
「僕は、なんともありません。でも、アシュは。アシュは一応女の子です。あんなやり方は、ないんじゃないですか」
僕の言葉に父上はいつものにこにこ顔を崩さずに、ちょっと首をかしげるようにした。
「女の子である前に、あの子は天気姫だしねえ。こちらも天気庁で天気予測を決めている以上、その天気を遂行してもらわないと困るんだよ」
「必ずしもいつも天気予想通りにしなければいけないってわけでもないでしょう」
「そうだよ。だから、必ずしも予想通りにしなければいけない日にだけ薬を使うんだ」
必ずしもいけないって、カナさんは来賓の為のガーデンパーティーの為にと言っていたぞ? そんな事の為に、アシュはあんなに苦しまなければいけないのか?
僕の顔色を読んだかのように、父上は諭すように言った。
「ただの庶民であるあの子が、あんなに贅沢な暮しをしていられるのは、天気姫であるからだ。だったら、天気姫である事の責任もとってもらわなければいけないだろう?」
「でも、あれは酷いです。暴力を振るうのも。僕は反対です」
「セイ君」
父上の顔が、ようやく困ったようになる。白い口髭を生やした口がへの字に結ばれ、眉根がぎゅ、と寄った。
「わしを困らせないでくれないかい? これは、必要な事なんだよ」
「父上の力なら、どうにかなるんじゃないですか? 他の貴族と話し合いの場を設けて、この件を止めさせるとか。お願いです。そうしてください」
父上は昔から僕に甘かった。僕が頼めば、なんでもやってくれた。僕は、昔からかなわない願いなんてなかった。
だから今回も、僕が父に頼んだならなんとかなると思っていた。貴族の中でもかなりの大貴族となるハレノ家の力をもってすれば、他のほとんどの貴族は従わせる事はできると。
「無理だよ、セイ」
父上が、僕の名前を呼び捨てした。我に返ってみれば、父上は笑っていなかった。厳しい顔で僕を見つめていた。父上のこんな顔、初めて見る……。
「いくらお前のお願いでも、これは聞けないんだ。お前もそろそろ良い年齢だ。現実を受け入れて行かなければいけないよ。この事は貴族院の取り決めで決まっている事だし、何よりハレノ家だってこのやり方で助かっている面がたくさんあるんだ。お前だってゆくゆくはこの家を継いでそのやり方を継続して行くのだから、これは受け入れなければならない事なんだよ」
だいたい、と父上は僕が聞いた事がないくらい冷めた声で話を続けた。
「本当に薬や暴力が嫌だったら、あの子がもっと自分の感情を自分で制御できるようにすれば良いだけの話だろう。その方が我々の良心だって痛まないしね」
違う。今日アシュが笑えなかったのは、僕のせいだ。僕があの子に意地悪をしたせいだから。あの子のせいじゃない。
大体、感情なんてそんな簡単に制御できるもんじゃない。ライウに挑発された時の僕に比べれば、アシュはもっとずっとそれをできている。
「少し、頭を冷やしなさい。一時の感情に流されて、冷静さを失ってはいけないよ」
父上はそう言って、それから厳しくしていた顔をにへらと緩めた。
「さ。お茶にでもしよう。今日は珍しい果物を手に入れてね……」
ぽん、と肩に乗せられた手を必要以上に乱暴に振り払って、僕は父上に背を向けた。吐き気がした。
自分が今まで信じていたもの。自分が今まで大事だと思っていたもの。それは本当に、僕が思っているかたちをしているのだろうか?
次に会った時、てっきりアシュは落ち込んでいるのだろうと思ったのに、アシュはいつも通りだった。まるで、いつも通り。つん、と生意気に本を読みながら僕を出迎えた。ソファの上に両足を投げ出したいつもの姿勢で、くつろいで本を眺めている。僕が黙り込んでそんなアシュを眺めていたら、アシュは怪訝そうに顔を上げた。
「どうしたの? 機嫌悪いわね」
「別に」
「そう? ……そう言えば、ライウ様に頂いたお菓子がまだ残っているのよ。特別に振舞ってあげるわ」
アシュは思いついたように言って、カナさんを振り返る。
「カナ、お茶の用意を」
カナさんもまるでいつも通りで、音もなくお辞儀をして去ってしまう。僕はアシュと二人きりなのがなんとなく落ち着かなくて、視線を絨毯に落とした。濃い赤の絨毯には、一面に細い幾何学模様が入っている。
「気にする必要はないわよ」
声が聞こえたので見ると、アシュはまた顔をつんと逸らして本を眺めている。こちらを見てもいない。でも、言葉はそのまま続ける。
「ちょっと痛い思いするだけでこんな贅沢な暮しができるんだもの。代わって欲しいって人、いっぱいいると思うわ」
僕は、また絨毯に視線を落とした。まともにアシュを見る事ができなかった。僕の家も、アシュを苦しめるのに一役買っているのだ。その家の人間である僕が、アシュに何を言えるだろう? それでも、アシュの言葉を額面通り受け取ってそうかそれなら安心だと開き直れるほど、僕も神経が図太くなかった。
「……アシュが懐いている父上も、あれを止めさせてはくれなかった。逆に、僕が叱られた」
僕が呟くように言うと、アシュは呆れた様な声を上げた。
「馬鹿ねえ。ハレノのおじ様にそんな事頼んだの? 可哀相、おじ様。セイの事、溺愛しているのにそんな非難されて」
「僕は、父上の事を嫌いになりそうだ」
呟いたら、アシュはちょっと黙った。服の擦れる音、軽い足音がするな、と思ったら、突然アシュの大きな目が僕の顔を下から覗き込んだ。
「家族は大事にしなきゃだめよ? 代わりになるものなんて、ないんだから」
なんだか、聞いた事がある台詞だ。僕の頭の中を、微かな既視感が掠めた。それの尻尾をつかむ前に、アシュは僕から身を離してちょっと肩をすくめた。
「らしくないわねえ。下ばっか向いちゃって。大丈夫よ? 本当にセイが思っているより全然辛くないの」
「じゃあなんでアシュは外の国に憧れるんだ?」
ライウの持ってきた本を目を輝かせながら読んで、外国に逃げた過去の天気姫のお伽噺をうっとりと語って。それは、アシュの心の中の表れだろう? ここから逃げ出したいという、強い望みの結果だろう?
アシュはちょっと迷うように口を噤んだ。僕の顔をちらりと伺って、目が合うと困ったような顔になった。笑い飛ばすか、何かを言おうか迷っているような奇妙な顔だった。それまでの平然とした顔と少し違っていたから、僕は勢いづいて言葉を重ねる。
「ねえ、なんでだよ?」
アシュはちらりと背後のドアを確認する。カナさんはまだ戻って来ない。それから、早口に囁くように言った。
「あたたかい場所でしか育った事のない人間には、そうでない人間の気持ちなんてわからないわ」
だから、どういう意味だと聞こうとしたのに聞けなかった。カナさんが静かにドアを開ける音がしたので、アシュはくるりと僕に背を向けてソファに戻ってしまった。中途半端な言葉が僕の頭の中に謎を残す。
「ハレノ様。こちらを」
考え込みながらカナさんに差し出されたお菓子を無関心に口に含んだ。甘いと思ったのは一瞬、すぐにしびれるような痛みが舌中に走る。驚きで咳き込む僕を見てアシュはにっこり。
「次は辛子って言ったでしょ?」
いつもの憎たらしい顔。憎たらしい声。でも今日の僕は、いつものように睨みつける気になれなかった。
アシュの家を出てから、僕は御者に一人で帰るように申しつけて、自分は貴族院議会堂に併設されている書庫に寄る事にした。ここは重要書籍や機密書籍の宝庫で、それ故に一部の貴族にしか入る事は許されていない。幸いなことに、ハレノ家はその一部の貴族だ。僕は一度もこの書庫を利用した事はないけれど。
暇そうな司書にハレノのバッチを見せると、司書は畏まったように背筋を正して利用者簿を差し出す。出された名簿に記名をしようとして、直前の利用者の名前を見て苦々しい気持ちになった。
『ライウ・アマミ』
アシュに教えていた知識はここからも。
名簿を司書に渡して、書庫の鍵を受け取ると、僕は一人でそこに踏み込んだ。背の高い本棚一杯に圧倒されるほど本が並んでいる。目録を頼りに、極秘扱いの近世史の本や政治の本、それに天気姫に関する本を何冊も机の上に山積みにして、夜になって司書が呼びに来るまでランプの明かりを頼りにその本を読みふけった。読めば読むほど、自分の無知を知った。
この国は現在二つの外の国と敵対関係にある。国境付近で小競り合いのような戦いが何度か起きた事もある。ここまでは、僕も寄宿舎の歴史や政治の授業で習っていた。また、この国で庶民が何度か反乱を起こしていたのも知っていた。税率や法律への反発が主な理由だということも、全て国の軍隊が制圧して容易にかたがついていることも、知っていた。反乱軍側の要求が通った事はない。
でも、こんな事実は知らなかった。なんとか戦争と名付けられた戦争ではいつの時も、こちらの国の領地で戦う際は天気が味方につく。もっとえげつないのは、反乱軍に対してで、農民主導の反乱がおきている間、国には雨が一滴も降らない。漁民主導の反乱が起きている時は、毎日が大雨。そうやって相手の弱点をつくやり方で弱らせて、最終的に捕えた首謀者たちは尽く処刑される。首謀者たちと貴族院の間でやり取りをされた手紙が史料として残っていた。貴族院は首謀者たちに「お前らが反乱を止めない限りこの天気は変わらない」という主旨の脅しを何度もしている。天気姫の存在こそ明確にしないが、自分たちが天気を支配できると仄めかしている。
その反乱のせいでおきた日照りで、貧しい農民たちの何割かは壊滅している。その反乱のせいでおきた豪雨の影響で、洪水が起こって近隣の村が潰れている。
これらのやり方に抵抗する為になのか別の理由でだかは分からないけれど、歴代の天気姫はもがき苦しみ色々な方法を試していた。ライウの曾祖母は人格者であったライウの曾祖父と結婚する事により、貴族院への影響力を強めたアマミ家に仁政を行わせた。だけどその人も苦労をしたせいか、随分と早くに病気で亡くなっている。その次の代の天気姫は有名な貴族の娘で聡明で強い女の人だった。彼女は貴族院に自分のやり方に決して口を挟ませる事をしなかった。彼女は家の力を最大限に利用して、出来うる限り自分の権力を守って自分の思い通りの生き方を送った。でも、この人も40の年に届く前に、謎の死を遂げている。謎の死、となっているけれどおそらく貴族院に暗殺されたのだろう。天気姫が死ねば、新たなる天気姫が生まれる。扱い辛い天気姫は貴族院にとって邪魔でしかないのだ。
その次の天気姫は、アシュと同じに貧しい庶民の出で、貴族院のいいなりだったようだけど、最期に貴族院に大きく刃向かった。突然屋敷を逃げ出し姿をくらましたのだ。その後数カ月貴族院は彼女を見つけられず、見つけた時には既に彼女は腐った遺体となっていた。
歴代の天気姫には今のアシュにとってのカナさんのように影のように寄り添う侍女が一人必ずついていて、その侍女たちが克明な日誌のようなものを残している。その日誌の中からうかがい知れる天気姫たちの苦しみは痛々しいものだった。
ライウの曽祖母や貴族の娘の例は稀で、たいがい天気姫は貴族院の言いなりにされている。それを苦悩して死んでしまっている人や、気がふれてしまった人もいた。歴代の天気姫の例を読んでいて一番幸せそうな最期を迎えていたのは大昔のお伽噺になっている外の国に逃げ出した天気姫で、そうだからこそお伽噺となったのだろうし、アシュもそれに憧れる。きっと。
アシュも大かたの天気姫たちのように不幸になってしまうのだろうか? 天気姫の中でも、自分のしている事に気づかぬまま幸せに一生を終えた人もいる。そういう風に、どうしてアシュは生きなかったのだろう? どうして知りたいなどと言ってしまったのだろう? 暴力を振るわれるよりも、あの薬を使われるよりも辛いと思う事を。
司書に促されて、家に戻る道すがら考える。僕はどうすればよいのだろう? 僕に何ができるのだろうか? いや、父上に断られてしまった以上、僕にできる事などないのだ。ハレノ家はまだ僕の家ではなく父上の家だし。
父の力を使えない僕にできる事があるとは思えない。
……何が、護衛だ。
盗賊から天気姫を守る? そんなのよりもっとずっと酷いものから、僕はアシュを守れてない。護衛だなんて偉そうな顔をして、ただ傍にいただけだ。何も気づかずに。
とても歯痒かった。何も知らなかった自分が。何もできない自分が。
きっと、アシュが望んでいる事は守られる事じゃない。ここから逃げる事だ。今ならそれが分かる。アシュはきっと、涙を止めている時でもずっと泣いている。あの屋敷にいる限り、笑っていてもきっと、泣いている。
幼いころのアシュの泣き顔が、僕の目の裏にちらつく。昔から、多分僕はアシュの泣き顔に弱いんだ……。