謎の男の役割
その日も翌日も、僕の気分は晴れなかった。侮辱された怒りも勿論あったけれど、それだけではなく、経験のないような正面きっての非難はいつも僕の頭の片隅を陣取っていて、胃の中がむかむかとするような不快感が常につきまとっていた。何をしても、それは一向に晴れてくれない。
ライウに言われた言葉が事あるごとに頭に蘇る。何をしていても、ふとした拍子にすぐそれを思い出してしまって気分を害した。
「どうしたの? なんか落ち込んでるみたいじゃない」
鼻先に砂糖菓子の薫りを感じたと思ったら、アシュがひょいと僕の顔を覗き込んだので、僕はぎょっとして反射的に仰け反った。しまった、またライウの事を考えていた。今はアシュの部屋で護衛中だと言うのに。
「……別に」
僕はアシュのまっすぐ覗き込む瞳から目を逸らす。なんとなく、こういう気分の時にアシュに顔を見られるのは嫌だった。
「この前から、機嫌悪いのね」
アシュは呆れたように肩をすくめて、付き合っていられないとでも言うように定位置のソファへと戻って行く。
「もしセイが天気姫だったら大変。感情もコントロールできないから、国民はころころ変わる天気に大迷惑」
伸びやかに歌うような楽しげな口調だけど、言っている事はいつもの嫌味だ。
元から気が立っている僕は、それにもまた苛々とする。
大体、誰のせいで僕がこんな思いをしているかと言えば、発端は全てアシュなのだ。アシュがいなければ僕はライウと関わる事もなく、あんな侮辱を受ける事もなく、奇妙な敗北感を味わう事はなかった。
アシュの事を何も知らない、というライウの言葉がまたもや頭に蘇る。あいつ、なんて言ったっけ? ストール?
「ねえ、なんで君ってストールしてるの?」
無表情を装った僕の言葉に、アシュは手にしていた刺繍から顔を上げた。その表情が少し意外で、何かが僕の心にちくりとひっかかる。表情豊かなアシュには珍しい、奇妙な一瞬の無表情。すぐにアシュはつん、と生意気に顔を逸らしたけれど。
「お洒落だからに決まってるでしょ」
「お洒落ったって。別にしてなくても可愛い服いっぱいあるじゃないか。別に流行ってわけでもないし」
むしろ、近年の社交界の流行としては若い女性はストールなどを巻かずに大胆に肩や腕を出している。アシュだってそういったところには顔を出すのだから知っているだろう。
「セイなんかに気安く見せてあげるほど、お安くないの」
アシュはそう言って、肩にひっかけていたストールをわざとらしく前にかき寄せた。
おちゃらけて何かをはぐらかそうとしている気がする。ライウが知っていて、僕が知らない何かを。
何だ? ストールは誰かの形見だとか? いやでも、いつも全然別のものしてるし。他にストールに理由なんてあるのか?
ストールを前にかきあわせながらやり辛そうに刺繍をするアシュを見る。ストールの目的。本来的な意味は、防寒。そして、肩や腕を隠す事。隠している? 肩や腕にある何かを?
「痛っ……」
僕は大きい声を上げてその場に蹲った。絨毯の柔らかい毛先が僕の頬を撫でる感触がするほど体を折り曲げて、腹を押さえて歯の奥を噛みしめる。
「セイ? どうしたの?」
怪訝そうなアシュの声。
「なあに? お腹痛いの? ねえ」
声が不安そうに揺れて、ソファから下りた軽い足音が絨毯を踏む微かな音が僕の耳に聞こえる。僕は腹を押さえたまま、更に身を小さくした。
「セイ、ねえ。ちょっと。大丈夫なの!?」
強張ったアシュの声がごく間近で聞こえたのを確認して、僕はパッと体を起こしてその腕からストールを引き抜く。アシュの呆然とした顔が怒りに朱くなるよりも前に、僕は驚きで目を大きく見開いた。
アシュの腕には無数の赤黒い斑点がある。折れてしまいそうな程細い腕の、白い肌のいたるところに転々とそれがある様は、見ているのも痛々しい。
呆然としてしまった僕が何か言葉を発するより前に、僕は自分の頬に弾けるような痛みを感じた。一瞬の衝撃の後、それはじんじんと痛みを続ける。僕の目の前では、今まさに手のひらで僕の頬を打ったその本人が大きな目をぎらぎらとさせて僕を睨んでいる。でも僕は、アシュの怒りを気にしている余裕はなかった。
「アシュ、何それ。もしかして、アシュ……」
何かの病気なのだろうか? 不安が胸の中に渦巻く。
アシュはそんな僕の様子を見て、ふんと大きく鼻を鳴らして僕の手の中からストールを奪い返して自分の体をそれでぐるぐる巻きに覆った。アシュの返答はそれだけだった。何も言葉を発しなかった。それが、アシュの怒りの程を僕に伝えていた。
「セイ様、お戯れは自重なさってください」
カナさんの冷静な声が僕の衝撃を少し落ち着かせる。
それでもまだ、頭は混乱していた。
「カナさん、あれは……」
僕が問いかけようとすると、カナさんは人差し指を唇の前に当てて僕に黙るように指示を出した。その仕草の重々しさに、僕は口をつぐむ。
「アシュ様、本日は晴れの予報なのです」
カナさんがきっぱりとした口調でそう言ったので窓の外を見ると、いつの間にか空は暗雲に覆われていた。
「分かっているわ」
アシュの声は、感情を押し殺すかのような低い声だった。
「本日は、クモル家に大事な御来賓があってのガーデンパーティーとのこと。どうしても、晴れでなくてはいけないそうです」
「知ってるってば」
「では、わたくしがこれからする事をお許しくださいませ」
カナさんは静かに一礼すると、いつもの足音のしない歩き方で部屋を出て行ってしまう。僕はアシュと二人、部屋に取り残されてしまった。アシュはぴりぴりとしたいかにも険悪な空気を発していて、下手に話しかけたら刺繍用の針でぐさりと刺されそうだ。
部屋には重苦しい沈黙しかなく、何か話さなければと思うほど頭の中は内側から熱さているように火照って、自分が気になる事の他には何も良い話題が思い浮かばない。酷く口の中が渇いている気がした。アシュの刺繍の針音さえ聞こえてきそうな絶対的な静かさの中で、いたたまれない気持になる。
だから再びドアがノックされてカナさんが戻って来た時、無口なカナさんといえども誰かがいてくれる事に僕は少し安堵した。カナさんが伴って来た人物を見るまでは。
その男を、僕は以前に一度見た事がある。アシュが突然泣き出した時、やはりカナさんが連れて来た男だ。顔の青白い、不健康そうなひょろ長い体型の中年の男。病的なくまがその目の下を縁取っていて一層不健康そうに、また不気味に見える。首の後ろで無造作に束ねた髪もほつれてからまって、あまり清潔感はない。
「アシュ様。いつものお部屋に参りますよ」
男の言葉は丁寧だったけど、どこか命令するような高圧的なものを含んでいた。アシュはがくりと頭を俯けて立ちあがると、足を重そうに引きずるようにして部屋を出て行く。長い髪がその顔を覆って、表情が見えなかった。
「素直で結構な事です」
それにしてもこの男の声は、耳障りだ。
まるでそれが良く為される行為のように手慣れていて。どこにも僕の入る隙間はなさそうなので、僕は呑まれたように黙りこんで、去って行くその二人の後ろ姿を見つめていた。
「何をなさっているのです?」
いつの間にか僕の隣に来ていたカナさんが、珍しく僕に声をかけて来た。僕が振り向くと、いつも表情の乏しい顔に少しだけ呆れのようなものを浮かべている。
「知りたいのでしょう? アシュ様のあの傷の事情を。では、後を尾ければ良いのではないですか」
「後を?」
「あの部屋で行われている事を見れば、大体把握は出来ましょう。アシュ様以外ハレノ様に隠したいと思っている方はいらっしゃらないですから、警備もないですし、簡単に入れますわ」
カナさんらしい感情のこもらない口調だったけど、普段のカナさんには珍しい僕への干渉。どういうつもりなんだろうと考えるよりも早く、僕はくるりとカナさんに背を向けて、足音を忍ばせながら前を歩く二人の後を追っていた。
人通りの少ない廊下を歩きながら、廊下に面した窓から外を見ると、かろうじて雨が降らないだけの、重苦しい暗雲が空を覆っている。お陰で光の入らないこの廊下は廃屋の様な陰鬱な薄暗さと静けさに包まれている。昼間の明るさを押し籠めた様な雲が作りだす奇妙な薄暗さは僕に軽い眩暈を覚えさせた。廊下を彩る柱の彫刻や、窓枠、壁にかかった絵画などがどこか不気味さを際立たせているようだった。
目の前に細く伸び続ける長い廊下を、遠くに見える二つの背を追って、足音を殺しながらつかず離れずで歩いて行く。前を歩く二人の引きずる様な足音が、いやに響いて聞こえた。
二人は階段を下りて、一階の一番奥の部屋へと到着した。僕の入った事のない部屋なんてこの広い屋敷にはたくさんあって、ここもその一つだ。男がポケットから鍵を取り出して、何の変哲もない簡素なドアに差し込む。普段は施錠をしてある部屋なのか……。
二人の姿が消えたのを確認して、僕も部屋に近づいた。中の様子をドアの外から伺って、少し待ってからそっとドアノブを回して僅かな隙間を作る。細い隙間から、小さくだけど会話が漏れて聞こえて来た。
「心の準備はできましたか? アシュ様」
「嫌だって言ってもやるんでしょ」
アシュの声はなんだか投げやりだった。
「では、腕を」
衣擦れの音がする。僕は更に体をドアに近づけて、細い隙間から中を覗く。薄暗くて良く分からないけれど、殺風景な部屋だった。ドアの正面の壁には大きな窓がしつらえてあるからそこから入る日光がこの部屋唯一の採光なのだろう。部屋の中央に粗末な木の椅子が一つあって、無表情のアシュがこちらを向いて人形のように座って右腕を前に差し出していた。
見ていると、脇のテーブルでこちらに背を向けて何か作業をしていた男が、手に細長い円筒状のものをもてあそぶようにしながら、アシュに近づいた。
「失礼します」
しゃがれた耳障りな声がして、男がアシュの腕に軽く触れて手の中の円筒状のものを押しつけるようにする。アシュの眉が一瞬だけきゅ、と顰められた。
あれは、注射じゃないのか? じゃああの男は医者?
男の手がアシュの腕から離れる。男はそのまま、もうアシュには興味をなくしてしまったようにテーブルに戻って何か片づけをしているようだった。器具同士の擦れ合う音が僅かに耳に届く。そのまま、男はアシュを振り返りもしないでドアの所に近づいてきた。僕は動揺して慌ててドアの隙間から体を離す。一歩程の距離を離れたところで、男が部屋から出て来た。僕の顔をちらりと見たけれど、特に表情を変えないで「ああ」と呟いた。まったく無感情な様子に、僕は少し拍子抜けする。覗き見の後ろめたさに、とがめられるかと思っていたのに。そのまま男は辛うじて会釈と分かるくらいの浅い礼をして、僕の前から立ち去ろうとしたから、僕は思わず男を呼びとめていた。
「お前、今ここで何をしていたんだ」
男は億劫そうにのったりと僕を振り返って胡乱な瞳でこちらを見た。
「……アシュ様にお薬を」
「薬?」
「ええ。ご気分がすぐれないようでしたの気分が晴れる薬を少々。本日は晴れにならないと困るとお聞きしていますので」
僕が更に質問を続けようとしたのに、男はそれを拒絶するようにくるりと振り返って歩きだしてしまった。まるで僕の相手をするのが面倒くさくてたまらないかのように。
釈然としないで立ちつくす僕の耳に、微かな笑い声が届いた。くすくすという細かな、羽毛の上を撫でるような笑い声。部屋の中からだ。僕は今男が出て来たドアを振り返る。何の変哲もないような真鍮のノブ。体重を押し付ける様にして慎重に回してみると、鍵はかかっていないようだった。ゆっくりと、音を立てないようにそれを押すと、ドアは難なく開いた。
そこに現れた光景に、僕は息をのんだ。
さっきまで曇っていた筈の空は、すっかりと晴れ渡っていた。日の光が対面にしつらえられた窓から一直線に差し込んで部屋全体を眩く照らし、部屋の中心に座るアシュに容赦のない光の雨を降り注いでいた。目がくらむような真っ白な眩しさの中で、アシュは笑っていた。くすくすと、楽しげに。声を立てて。髪からも服からも光が弾け飛んで、まるで飾り物の人形のようだった。
人形のように、僕を見ても何も反応しないで。ガラス玉のような瞳は僕を映してはいなくて。
ぞっと、ぼくの背筋を寒いものが駆けあがる。
「アシュ?」
胃の中を駆けあがってくる何かに促されて、僕は思わずそう呼んでしまった。だけど、返事はない。アシュに僕の声は届いていない。アシュは相変わらず楽しそうだけど。笑っているけれど。完全にそこにはアシュ独りしかいなかった。アシュ独りの世界だった。ただ独りで、楽しそうに笑い続けているだけ。
「アシュ」
呼びかけて、肩をつかむ。思ったより細くて握ったら折れそうな華奢な肩にぎょっとする。それでも両手で掴んで、顔を覗き込んでもアシュは何も反応しない。視点はこちらで実を結ばない。
「落ち着いてくださいませ」
夢中になってアシュの体を揺すってその名を呼んでいたら、背後から冷静な声が聞こえた。振り返ると、カナさんが相変わらずの冷静な顔ですっと背後に立っている。僕は飛び上がる様にしてカナさんに詰め寄った。
「カナさん……カナさんは、知っていたんですか? これ。なんですか? これ」
「あまり取り乱されませんよう。薬が切れれば元のアシュ様に戻られます。そうですね、今からですと夜には」
言いながら、カナさんは慣れた手つきで机の上に出しっぱなしになっていた器具類を部屋の中にある唯一の戸棚に閉まって鍵をかける。そして、アシュに近寄って、その手を取ると軽く引っ張った。
「アシュ様。行きますよ」
カナさんがその手を引っ張って歩かせると、アシュは特に抵抗もなくそれに従う。くすくすと笑ったままで。ふわふわと、心もとない足取りで部屋を出る。
「鍵を閉めます。ハレノ様も出てください」
言われて僕は慌てて後に続いた。カナさんは鍵を閉めた後、慣れた手つきでアシュを部屋まで連れて行き、ソファに腰掛けさせる。僕は木偶の坊のように二人の後に従うしかなかった。アシュはずっと、カナさんにされるがまま、全ての意思を放棄してしまったように見える。
「どうしても予報を違えられない時は仕方がないのです。ご本人もわかっておいでです」
部屋に戻ったカナさんは何の感情も含めない声で言った。
「ただ、このお薬は切れた後に具合があまりよろしくなくなるのと、腕に注射の傷がいくつも残ってしまいますから、あまりお好きではないようですけれど」
お好きではない? そんな言い方生ぬるい。大嫌いの間違いだろう?
僕の非難が顔に出ていたのか、カナさんはちょっと肩を竦めた。
「どうしても雨を降らせなければいけなのに泣けない時には、アシュ様は暴力を振るわれます。勿論あまり跡が残らないように、持続する痛みでないように専門の者が慎重にやりますけれど。まだ気分を落ち込ませるお薬で副作用が軽いものは開発できていないそうですので。ただ、部屋の外で待っていますと、悲鳴が聞こえてきます。それよりは、お薬の方が良いとは思いませんか」
さっきから、体の震えが止まらない。心臓がどくどくと僕の耳元で鳴っている。
僕の顔は、青褪めていたのだろう。カナさんはちょっと首をかしげた。
「ご存じないのは、ハレノ様くらいだと思いますわ。クモル様もアマミ様も、ハレノ様のおうちであるハレノ家も、みなさんこの方法を仕方のない事と容認しておられますもの」
僕の家も。僕の両親も。
賛成している?
アシュに心を操る薬を注射する事を。アシュに暴力をふるう事を。
呆然とした僕の頭の中に、いつかのライウの言葉が反響していた。自分はなんでも知ってると思いこんで……。僕はそれを、単なる侮辱としか受け取らなかったけれど。
僕は一体、どれだけの事を知らないのだろう。
新PC使いづらい…。