遠い国の本
ライウの翌日はヒョウの当番だったからそのまた翌日に、僕は見事な曇天の下を天気姫邸へと向かった。ライウが帰ってそんなに残念か。昨日は差し込む日差しが鬱陶しい程に晴れ渡っていたぞ。
さて今日は本当に辛子かとドアを開けた瞬間扉の陰に跳び退いたけれど、今日に限って特に攻撃はない。部屋の中ではアシュとヒョウがぽかんと僕を見つめている。カナさんだけはいつもの通り無表情。いたたまれない。どうする事もできないので痛々しい空気感の中、何事もなかったかのように部屋に入って跪いて挨拶をする。いつも通りの侮蔑の言葉が降ってくるかと思いきや、アシュはさらりと慣例通りにそれを受けただけだった。機嫌が良いからか……。
今日のアシュの服装は、柔らかい薄緑色のワンピースに濃い赤のストール。その隣に立つヒョウの格好はと言えば、舞踏会などに着て行くような礼服で、意味が分からない。
今日は曇りか晴の予報だからアシュは曇りを選択したのか、特にうかれも沈みもしない様子で淡々と本を読んでいる。挨拶を終えた僕は部屋の隅に待機して手持無沙汰になったのでヒョウに話しかけた。
「何その格好?」
「セイこそ、その格好はなんだ。気が抜けてるんじゃないか?」
僕の格好は、寄宿舎学校で武術の授業の時に着用していた運動服だ。簡単な構造の上着と脛までの長さのズボンとでできていて、良い布でもないしもちろん見栄えだってそんなに良くはないけれど、何しろ動きやすい。機能性を考えれば文句なしなのだ。別に今日からこの格好で来たのではなく、最近はいつもこの格好だ。
ヒョウは僕よりは多少改まってはいたけれど、それでもやはり割と動きやすい格好をしていた筈だ。それが、今日は礼服。しかも白。
「とうとうあのライウ殿が動き出したんだぞ? 負けてたまるか」
ヒョウはこぶしを握り締めて言う。張りあうつもりはあったのか。
「ライウ殿が来てるってよく知ってたね。……もしかして、一度家に帰って着替えて来たの?」
「そのくらい噂ですぐ分かるよ。昨日の快晴っぷりはすごかったしね」
噂流れるの早いな。この屋敷の人間は暇人なのか。
まあそれはいい。それよりも、ヒョウの格好。
「いやでも、礼服はないだろう。僕たちは仮にも護衛なんだよ?」
「そんな建前言う仲でもないだろ? 俺たち」
いや護衛しろよ。
見れば部屋の隅には見慣れない大きな花束がどこか居心地悪そうに飾られている。高価な花ばかりごてごてと使われていて逆に悪趣味に決まっている逸品だ。
「助言するなら、アシュ様は花束よりも甘い菓子の方が喜ばれるよ。あと、礼服よりも警備隊の制服」
「それはもう僕じゃなくてライウ殿だ」
「うん」
だからヒョウが何をしようと無駄だと思うよ、とは口に出しては言わなかったのだけど、ヒョウはちょっと腹を立てたようにつん、と顔をそむけた。
それからすたすたと歩いてアシュの所へ行き、帰りの挨拶を始める。僕はやはり手持無沙汰にその光景を見ていた。
「思いだすわ。セイが護衛として来た初日の事」
ヒョウが挨拶を終えて出て行くのを見計らったように、アシュは乾いた声で言って、僕を見てにやりと笑った。
「ねえ?」
ああもうこいつ、本当やだ。
そうですよ。僕も礼服で、花束持参で来ましたよ。その時は、ライウ殿の噂なんて知らなかったけどね。喜ばれると思ったんですけどね!
アシュはまたお気に入りの白いソファに座って、足を投げ出して本を読み始めた。
「カナ、セイ様が不満そうだからお茶でも出して差し上げて」
こちらをちらりとも見ないで、ぞんざいにそんな事を命令する。カナさんは僕に一礼をして部屋を出て行った。
「機嫌いいですね、アシュ様」
やり込められてばかりでも癪に障るので、僕はたっぷり嫌味を込めて話しかけてやる。アシュは本から顔を上げて、怪訝そうに僕を見た。ぱちくりと、丸い瞳が一つ瞬きする。
「ライウ殿がいらっしゃって、そんなに嬉しかったですか」
精一杯の嫌味だ。お前の気持ちなんて、ダダ漏れなんだぞ。社交界中の噂になって、笑い物になってるんだぞ。庶民出身の、特別に美人というわけでもない小柄でひ弱な女子が、ただ天気姫だからという理由で優しくされているだけなのに思いあがって完全無欠のライウに恋焦がれているらしいと、貴族のご婦人がたは陰で笑ってるんだぞ。
てっきり恥ずかしがって赤面するか顔を隠すかするかと思ったのに、アシュはけろりとした顔で頷いた。
「そりゃあそうよ。ライウ様がいらっしゃると、すごく面白いわ」
隠しだてもしない。呆れてしまう。庶民の文化習慣の中には恥じらいというものがないのだろうか?
「見て、これ」
アシュはひらひらと僕を手招きして呼ぶので、僕は渋々アシュの座っているソファの所に行く。
「隣に座っても?」
「特別に許してあげるわ」
偉そうだ。
乱暴にアシュの隣に腰掛けると、思った以上に体が深く沈み込んだ。あおりをうけたアシュは小さく声を上げて、体勢を整えるためか慌てて僕の腕につかまる。驚いた顔を僕に向けて、すぐに慌ててその手を放した。
「び、びっくりしたわ」
僕もびっくりだ。
このソファの思わぬ柔らかさにも、何故かちょっと赤面するアシュにも。こいつ、生意気な口利く割に男に対して免疫が本当にない。
アシュは気分を切り替える様にちょっと乱暴に、肩にかかった髪を手の甲で振り払い、膝の上に乗っていた本の中身が僕にも見える様に本を両手で立てて斜めにして少し傾けた。
本の中は両面見開きで、風景の絵。長閑な田園風景だ。随分緻密に、色とりどりに青い空や、白い雲や、緑の田畑が描かれている。絵画集? 僕が疑問に思っていると、すぐ隣からアシュの弾んだ声がする。
「これはね、この国の農村の風景なのよ。暖かくなり始めた頃に水を引いてきて、暑くなると、その水路のほとりで子供たちは遊ぶの」
アシュの視線はもう絵に釘付けで、その瞳は嬉しそうにきらきらと光っている。こっちを見る様子はないから、僕はなんとなくその横顔を観察する。社交界のご婦人方が陰口を叩くほど、すごく悪い見たくれではない。白くつるんとした頬は上気してうっすらと薔薇色に色づいているのがあどけない印象で可愛らしくなくはないし、髪の色と同じ色の睫毛はくるりと長い。楽しそうに笑っている姿を見ていたら、ちょっと微笑ましいような気持がして来て、こちらもつられて笑顔になってしまいそうになる。
知ってるよ、僕だって自分の領地の見回りに行く時に見た事があるよと水を差す事はとうていできない雰囲気だ。アシュの小さな手は頁をぱらりとめくる。今度は一転、見慣れない港の風景。港はこの国にもあるけれど、見慣れないのはそこにある建物や道行く人々の服装。見慣れない屋根の形。見慣れない窓の形。人々は頭にみんなかぶり物をしていて、何故か男もズボンをはいていないで長いスカートのようなものを穿いている。ああこれは、この国じゃない。寄宿学校の地理の授業で習った事がある。
「これはお隣の国の港町なんですって。ライウ様がおっしゃるには、外の国には天気姫はいないんだそうよ。天気は季節によってだいたい予想は出来るらしいんだけど、細かい事は分からないから天気予測はなくて、人はよく準備なしに雨に濡れてしまうんだって。不便よね」
ライウの入れ知恵かよ。
アシュはまた軽やかにぺらりと頁をめくる。今度もまた、見慣れない風景。どこか栄えた都市の街中だろうか。だけど、建物や人々の服装はやはり見慣れない。先ほどの港町の物とも違う。人々の服装は極彩色で、髪型は男も女も奇抜だ。建物もぎらぎらと派手なものが多く、壁や屋根や扉にも赤や緑の原色で色を塗っていて目が回りそうだ。
「これは、お伽噺の天気姫が黒の騎士と逃げたと言われるトオノの国。ライウ様がおっしゃるには、天気姫は外の国に逃げてもこの国の天気を左右してしまうから、何度も国からの刺客が天気姫をこの国まで狙いに来たんですって。でも、その時のトオノ国の王様は随分黒の騎士と天気姫を気に入っていて、その度に刺客を追い出してくれたらしいの。本当かしらね? もう何百年も昔のお話だけど本当にあった事だって、ライウ様はおっしゃるんだけど」
本当だろう。多分。僕もちらりと耳にした事がある程度だけど、お伽噺の天気姫の話は、多少お伽噺風にアレンジしてあるところはあれどほぼ実話であるとは知っていた。数百年前にこの国は時の天気姫の不在の期間を迎え、貴族院は大分困ったそうだ。その時から、貴族院は天気姫を丁重に且つ厳重に鳥かごの中の鳥の如く何一つ不自由なく育てるという今の方針に決めたらしい。屋敷に引き取って甘やかすだけ甘やかす。欲しいものはなんでも与える。でも、あまり多くの人間とは接触させない。特に外の国の人間。それからもう一つ、余計な教育は一切与えない。特に、地理や歴史やなんかは。なぜなら天気姫が外の国に興味を持ってしまったらまた外の国に逃げられてしまうかもしれないから。天気姫に与えられる物語や芝居も全てそういう内容を吟味されて、無害なものが選ばれる。その筈なのに。
「どこの国を探しても、天気姫がいるのはこの国だけなんですって。その代わりと言うわけではないんでしょうけど、トオノの国には一人だけ動物と話をできる人間がいるそうよ。その人が王様に協力しながら国を治めてるんだって。それから、雪って知ってる? 雨みたいに空から降ってくるんだけど、白くて冷たくてふわふわしていて、触るとすぐに溶けてなくなってしまうらしいわ。この国でも昔何度か降った事があるらしいのだけど、どうやったらできるのかしらね? でも、一年のほとんどがその雪の国もあるんですって。そこはすごく寒くて、雪は降ってくるのは美しいけれど、地面に残って覆ってしまうからとても大変なんですって。その国には、雪を輝かせる能力を持った人がやはり一人いて、その人は国中を旅しては、光る雪を配り歩いているらしいの」
なんだこの知識量。僕は「雪」という単語は知っているは知っているけれど、遠い国での気象現象としてでしか把握していない。それがどんなものか、よく知らなかった。興味もなかったし。
そんな事を話すアシュは夢中で、窓の外はいつのまにかすっかり晴天。当然か、さっきからライウライウと連呼しているわけだし。
「それからね、ライウ様のひいおばあさまは天気姫だったらしいの。だからお詳しくってね。大恋愛の末にライウ様のひいおじい様と結婚したんですって。その次の天気姫は珍しく貴族のおうちの方で、一生涯独身を通した方なんですって。とても賢くてお強い方で、どの家もよせつけず、みんなを平等に扱ったとか。それから、先代の天気姫が……」
「アシュ、それ全てライウ殿から聞いた?」
僕はとうとう絶え間なく話し続けるアシュの言葉を遮ってそう尋ねた。アシュは僕の険しい顔が不思議だと言うように、僕を見上げて小首をかしげる。
「ええそうよ。この本も、ライウ様から頂いたわ」
それがどうかして? とアシュはけろりと言う。
勿論、どうかする。ライウはどういうつもりなんだ? なるべく外の国の情報を与えないようにと決まっている天気姫に対して、なんでもかんでも教えてしまうなんて。アシュが喜ぶから、これもご機嫌取りの一つだろうか。様々聞こえてくる噂から、もっと思慮深い男かと思っていたけれど、そんな考えの浅い人間だったのだろうか。もしこれでアシュが外の国に憧れてしまったらどうするんだ。
貴族院は容赦がない。あり得ないけれど、もし万が一アシュがこの国を捨てて外の国に逃亡しようなどという事を考えたら、今まで甘やかして育てていたその態度をくるりと変えて、全力でアシュの命を狙いに来るだろう。おまけにもう一つ言うのならば、貴族院の人間はアシュが人形のように大人しくなんでも言う事を聞くのを望んでいる。下手に強い自己を持たれて反発などし始めたら扱いにくくなる。だから、意思が強く他の干渉を許さなかった先々代の天気姫の話などはアシュに対して伝わらないように周囲の人間は皆戒められていたのに。
「お待たせ致しました」
物音も立てずに、カナさんが台車を押して部屋に入って来て、お茶の準備をし始めた。僕の隣でアシュが小さく「あ」と声を上げる。
「こんなお話をしているのは、周りの人には内緒だと、ライウ様と約束しているの。だから、セイも誰にも言っちゃ駄目よ?」
声を小さく囁いて、悪戯っぽくくるりと瞳を回して、人差し指を柔らかく唇に軽く立てて、ちょっと擽ったそうに微笑んで。その頭の中にはきっと、ライウの事しかない。ライウとの仲のよさを見せつけられたみたいだ。
アシュはいかにも楽しそうにぴょんとソファから立ち上がり、カナさんの持ってきた台車に歩み寄る。
「今日は随分良い香りなのね」
「先日アマミ様がお土産にくださった茶葉ですので」
「まあ」
その弾んだ声が、なんだか癪に障る。
「セイ、喜びなさい。おいしいお茶を振舞ってあげるわ」
言いながら、茶葉をポットに移し替えて陶器の容器に入っているお湯をその中に注ぐ。アシュの手元から白い湯気が立ち上って、微かに部屋の中にお茶の薫りが漂った。
「いい」
自分で意図したよりも、随分低い声が出た。
アシュの怪訝そうな視線を避ける様に斜め下を見て、僕もソファから立ち上がる。僕はなんでこんなに苛々しているのだろう?
「僕はいらない」
「なんで? 本当に、高級なお茶なんですってよ。ライウ様がわざわざ……」
またもやライウ。
「君の淹れたお茶なんて飲みたくない」
どうしてこんな乱暴な口調で、こんなことを言ってしまったのか分からない。別に、そんな事を思っていたわけじゃなかった。アシュの淹れたお茶なんて、何度も飲んでるし。なのになんでか、とっさに言ってしまった。なんとなく飲みたい気分ではなかった。でも、他に断る口実なんていくつでもあったはずなのに。
言いすぎたと思って取り繕おうとした僕は、その場で硬直した。カナさんもちょっと驚いたように珍しく表情を動かして「アシュ様?」と呼びかけた。
アシュは泣いていた。くるりとした瞳からぽろぽろぽろぽろと、涙が零れている。窓ガラスを、雨が打つ音が唐突に聞こえた。瞬く間に外は真っ暗になって、激しい雨の音が部屋に満ちる。
「あの、アシュ」
戸惑った僕の動揺した言葉を無視して、アシュはぷいと背を向けてしまう。そして、ハンカチでしきりと顔を拭っている様子。カナさんは何かにはっと気がついたかのように部屋を駆けだしてどこかへ行ってしまった。待ってよカナさん。僕を一人にしないでよ。
どうすればいいんだ僕は? どうすれば泣きやむの? これ。
「アシュ、今日は雨予報じゃないんだけど」
僕の馬鹿者。
もっとまともな事を言え。何かアシュがぴたりと泣きやむような。ああくそ、ライウならこんな時なんて言うんだろう? あいつなら、知ってるんだろうな。アシュの喜びそうな言葉の一つや二つ。簡単に言えるんだろうな。僕には分からない。見当もつかない。たかが四歳しか違わないのに、すごく大きな壁を感じる。どうやってアシュの涙を止めるんだ? あいつ。
「知ってるわよ」
言った声は結構しっかりとしていた。ずず、とハンカチで鼻をかむと、くるりとこちらを振り返る。鼻の頭が赤くなっていて、ますます幼く見える。
「ちょっと目にお湯が入って痛かっただけよ」
は? お湯?
僕のぽかんとした顔をふふんと見下した様子であざ笑って、いつも通りの生意気な口調で言う。
「何? 自分が泣かせちゃったと思ったの? 馬鹿ね。わたしがセイなんかの言葉で泣くわけないじゃない」
「なっ……」
なんて言い返せば良いんだろ。動揺して思わず混乱していた後だから、上手い言葉が見当たらない。
考えて見れば、この女がそんなしおらしい訳がないか。でも、腹立ち半分、ちょっと安堵したのも半分、だけど。
ドアをノックする音が聞こえて、カナさんが戻ってきた。その背後に、屋敷の使用人かと思われる男が一人ついてくる。アシュはさっと体を強張らせて、何故だか僕の背後に隠れた。
誰だ? 見かけない男だ。病的に青白い顔に、眼鏡をかけた、細身の中年男。
「アシュ様。先ほど天気が狂ったとお伺いしたのですが」
錆びた鉄を擦った様な不快な声の男だ。アシュは、身を固くしたまま、僕の背後で小さく首を振る。
「申し訳ありません。もう回復しましたわ」
アシュには珍しい、蚊の鳴くような小さな声。微かに震えているような気さえする。見れば、アシュはストールの上からぎゅ、と両腕を握り締めていた。
男はそのじめっとした瞳でアシュと窓の方をちらりと見て、それから緩慢な仕草で頷いた。
「そのようですな。ではこれで私は失礼します。また何かあれば、お知らせください」
最後の言葉はカナさんに向けて言って、男はぬらりと歩いて出て行ってしまう。
異様な雰囲気を放つ人物だ。何者なんだか、とその姿を見送っていたら、右膝裏に突然衝撃を感じた。少しバランスを崩して傾きながら見ると、アシュが腹立たしそうに僕のひざ裏を蹴るの図。
「何すんだ」
「腹たったから」
僕の釈然としない顔なんて気しないで、アシュはぷいと僕から顔をそむけるとお茶の台車の所に戻る。
「あーあ。せっかくのお茶が冷めちゃったわ」
さっきの泣き顔の件がある僕は、お湯が目に入ったとはいえなんとなく罪悪感。それを払しょくすべく手を伸ばす。
「飲むよ」
「え?」
アシュが驚いた顔をしたのは一瞬。次の瞬間、僕の顔面でぬるいお茶が跳ねあがった。前髪から雫を滴らせて呆然とする僕に、アシュは毒々しくにっこり。
「飲みたくないんでしょ?」
本当にこの女、性格悪い。カナさんがタオルを取りに走る背中を見送る僕になんてもう興味を失ったように、アシュはソファに戻ってまた本を広げ始めた。