天気姫と護衛の幼馴染
ドアを開けた瞬間、僕の顔面を何かが覆った。べちょ、という音も聞こえた様な気がした。しかも冷たい。
何が起こったのか把握する前に、口内に入ってきた飛沫に反応して味覚が働いた。甘いチョコレートの味、その後を追うように舌の上がすっと冷えるようなすっきりとしたミントの薫り。……まぎれもなくチョコミント味。何故。
とりあえず目の上を覆うそれを手でかきわけて視界を確保する。冷たいしべたべたする。やだなミントだから目に入ったら痛いかもしれない。あ、やっぱ痛い。しょぼしょぼさせながらなんとか目を開くと、ミントが原因で生理的にどうしても発生してしまう涙で揺らいだ向こうに、華奢な体格の女の子の姿が見えた。涙でぼやけて良く見えないけれど、元々知ってるから彼女の容姿の描写はそう難しくない。栗色のふわふわとした巻き毛の髪の毛を今日はどうやら二つ高くで結って、いつも通り高そうなリボンや鎖や花飾りなどでじゃらじゃらと贅沢に装飾している。着ている服もおそらくいつも通り、肌触りの良い布を使った装飾過多な膝丈のワンピース。その両腕に肩から腕の先まですっぽりと覆うようなストールをひっかけてゆらゆらと揺らしているだろう。その表情はおそらく必ず、口元に意地悪な笑みを浮かべているに違いない。
「ドアを開けるなりチョコミントアイスが跳んでくるって……」
ドアを開けてから今に至り、ようやく僕の第一声。普通慣習としてドアを開けたらまず挨拶なのだけど、ここまでされて何事もないように跪いて挨拶をできる程僕も人間ができていない。思わず気持ちが口からこぼれおちてしまった。
「まあセイ様いらっしゃいませ。……あら? ご挨拶を頂いていないようですけど?」
ようやくはっきりとした視界の向こう、予想通りの表情で彼女はにっこりと毒のある笑みを浮かべた。子猫を思わせる黒目勝ちの少し釣り目の目が僅かに細められて、愛らしくピンクの唇を綻ばせて。
嫌がらせに加えての嫌味の連鎖攻撃って、小姑か。
言われなくても分かっている。どうせチョコミントアイス飛来事件はこいつの仕業だ。お嬢様然として澄まして微笑んでいるけれどとんでもない。こいつは世にも稀に見る性悪女。
「……アシュ様におかれましては、本日もご機嫌麗しそうでなによりですほんと」
既定の文面なんて守ってやるもんかと僕が棒読みで挨拶口上を述べ上げると、そのアシュ様は呆れたというように大袈裟にストールを引っ掛けた肩を竦めて見せた。濃い紫のストールの下で、繊細な透かし地の布を重ねた薄桃色のワンピースがふわりと軽く揺れた。
「まあ。天下のハレノ家のご子息がきちんとした挨拶口上のひとつもできないだなんて、ハレノ侯のご心労も察して余りありますわ。あら、もしかして先日寝込まれたのも……」
「ご心配ありがとうございます。それはくしゃみに端を発した持病のぎっくり腰の為なので全然全くご心配には及びません」
甘い! 喋ってる間にも目の上から溶け出したチョコミントがだらだらと口の中に入ってくる。しかも顔のいたるところを流れ落ち、そろそろ衣服の中に侵入しそうだ。だけど、それよりもこの会話の応戦だ。僕はそれをあくまでもないものとして振舞って会話に集中する。
「あら、ハレノ侯ったら心労のあまりぎっくり腰に……」
どこまでもこの女は。
アシュがふう、とわざとらしく頬に手を置いて憂わしいため息をついた横で、控えていたヒョウという男が見かねたように僕のところに歩いてきて、用意してあったのかタオルを差し出した。ヒョウは僕と同年代で、顔を合わせる機会も多いので結構親しくしている。
「セイ、とりあえず顔を拭こう」
「事前に分かってたんならそんな準備を整える前に、止めてくれ」
「いや止めたよ?」
目が泳いでいる。僕はとりあえず受け取ったタオルで力任せに顔を拭いた。準備も万端濡れタオルだ。
「きちんと、止めてくれ」
「いやあ、僕そんなにアシュ様に対して発言権ないから。今度、僕が標的になってもやだし」
爽やかな顔して本音が出やがった。
でも気持ちは分からないではない。ヒョウにしたって僕にしたって、なるべくアシュには気に入られていたいのだ。いや、気に入られていなければならない。それが、僕らの将来を更なる栄光に導く鍵になる可能性を含んでいるからには。もっとも、僕に関してはその可能性が現在進行形で限りなく低いけれど。でも、ヒョウだってグレイゾーンだ。僕よりは高いけど、もっと上は他にいる。
「あら。ヒョウ様を責めないでください。今のは試験でしたのよ? セイ様がわたしをきちんと守り抜けるのか。本当に、この役目に相応しいのか。……飛んできたアイスクリームも避けられないような方が、盗人からわたくしを守れるのかしら?」
ならそのアイスクリーム試験、僕以外の奴にもやれよ!
内心の反論を大人にも抑えて、僕はむすりとしながらも濡れタオル片手にアシュに向き直る。
「それは申し訳ありませんでした。次回よりアイスクリームが跳んでくる可能性を考慮してドアを開けます」
「あら。次回は大量の辛子の予定ですわ?」
にっこりと笑みを作って無邪気を装って言うアシュは確実に悪魔の化身だと思う。
僕の感想など測ることも思いつかないアシュは、そのまま身軽な動作でくるりとヒョウを向き直る。髪につけた装飾がしゃらんと軽い鈴のような音を立てた。
「ではヒョウ様。また明日お待ちしていますわ」
「あ……お名残り惜しいです。姫様」
ヒョウは慌ててその場に膝をつき、くどくどと既定の辞去の挨拶を述べた。絶対名残惜しいと思ってない。あいつ、部屋出たら絶対「あー、面倒くさかった」って言うぞ。僕はいつも言う。
僕の冷めた視線なんて痛くも痒くもない二人は恒例の仕草を淡々とこなし、ヒョウは最後に僕に軽く挨拶してドアを閉める。植物模様の繊細な彫刻の入った重いドアが閉まると、僕はアシュと二人きりになった……わけではなく。
「カナ、セイ様のタオルを」
アシュが気取った声で言うと部屋の端に控えていた女の人が頷いて、猫が獲物を狙う時のような慎重な足取りで僕に近づいてきた。このカナさんは、アシュの付き人という大変なお役目の人で、いつもアシュの側に控えている。僕より二つ年上なだけなのに、とても落ち着いた大変無口な女性で、自分から口を開く事はあまりない。動作も存在もとても静かで、時々その存在を感じさせない事さえある。
僕からタオルを受け取るとカナさんは部屋を出て行ってしまい、これで本当に僕らはこの部屋で二人きり。僕が定位置の窓際に立つのと、アシュが大きなため息をついてソファに跳ね座るのは同時だった。小柄なアシュの体は一度ふわりと跳ねてからソファの布に大きく沈み込む。
「あーあ。疲れた」
肩にかかった髪をばさりと片手の甲で跳ねあげて、行儀悪く足を放りだす。おいお前、さっきの上品な姫様然はどこいった。
「っていうか、暇! 何か面白い事したいんだけど」
そう言うアシュの足元にはばらばらと様々な玩具や流行りの物語本、美しい絵やレコードが色とりどりに散らばっている。この部屋の箪笥には目がくらむほどの贅沢な服が所狭しと押し込められているし、装飾品も同じ事だろう。それに、アシュがそれをしたいと言えば、有名な楽団の出張コンサートやアシュの為だけに開催される演劇だって行う事は出来る。思うがままの贅沢生活を行っているのにこの我が侭さ!
「僕に言われても」
「もー。これだからへたれは。やってらんないわ。主人を楽しませるために小粋な小話でもかましなさいよ」
「っていうか僕、君の護衛であってお守じゃないし」
言ったら陶器の花瓶が降ってきた。馬鹿な。慌ててそれを受け止めて、元あった棚に戻す。可哀相にカナさん。戻ってきたらすぐに水汲みと絨毯掃除だ。この姫様に仕えていたら、体が休まる暇がないだろう。あの人だって、一応貴族の娘の筈なんだけどな。僕やヒョウよりは家の格が落ちるけれど。
「生意気っ。ハレノのおじ様の単なる道具のくせに」
その言葉にはいささか僕もむっとする。するけれども、特に反論しなかった。できなかったわけではない。ハレノのおじ様とは僕の父の事だし、父が僕を溺愛しているのは僕も知っているから単なる道具ではないのは自覚している。敢えてむきになって反論する必要性も感じないのだ。でも確かに、僕がここにいるこの状況は、父の道具として使われているという事で間違いはない。まあ、ひいては僕の将来の為でもあるのだけど。
僕の家は国でも五本の指に入る大貴族だ。僕はその一人息子で、本来ならば家で坊ちゃん坊ちゃんと傅かれて育っている身分。その僕が何でこんなクソ生意気な女の子に良いように使われているかというと、もちろん事情がある。
まず事情となる前提。目の前のソファで行儀悪くふんぞり返る女の子アシュは「天気姫」である事。
天気姫、とは国民の誰もが知っているお伽噺のお姫様だ。もっとも、国民のほとんどはそれが架空のお話だと思っている。国には正式に発表された的中率90%以上を誇る天気予測があって、みんなそれに従って天気を把握しているけれど、それが何の根拠があって作られたものかはよく分かっていない。実際は、農業やその他産業の状況を把握して、最適な天気になるように天気庁が決めている。そして、それを実行するのはこの天気姫だ。
天気姫は、その感情によって天気を左右する。彼女が笑えば空は晴れ、彼女が泣けば雨が降る。お伽噺であるこれが事実だと言う事は、国の極秘事項でごく一部の貴族や天気庁の役人にしか知られていない。それが広まって万が一誘拐なんてされたら困るからだ。天気姫が毎日泣き暮らすようになったら国は毎日雨しか降らなくなって農作物は育たなくなってしまうし、災害も起こってしまう。そんなわけで天気姫は国が極秘裏に用意した豪華なお屋敷で、ひっそりとだが勝手気ままに好き放題贅沢三昧をして暮らしている。お伽噺の天気姫は空の上のお城に住んでいる事になってるけれど、実際には主都のど真ん中、行政機関である貴族院議会堂の敷地の中の高い塀に囲まれた屋敷に住んでいる。そして面倒なことに、政治を動かす貴族院のおじ様方が一丸となって全力で甘やかすので、こんな手のつけようもないほどの我が侭娘に成長してしまったのだ。昔はずっと素直で可愛かったのに。
僕は幼少期このアシュのご学友というものに抜擢されて、アシュが天気姫として連れてこられた時から僕が十歳になって寄宿舎学校に入学するまでの4年間を共に過ごした。あの頃のアシュは地味でやせ細った陰気で冴えない小さい女の子だったけれど、いつもびくびくと僕の後をついて歩くような従順さと素直さで、僕の庇護欲を大変くすぐった。だから、ひと月ほど前にアシュに護衛が必要だから戻ってくるようにとの実家からの命令で寄宿舎から呼び戻された時も、そのつもりでいた。脆弱で大人しい女の子をまた守ってやろうと面会した僕が、六年経って昔の面影が見る影もなく消え去った悪魔のような彼女と再開した時の衝撃は筆舌に尽くしようもない。六年の間に人が入れ替わってしまったんじゃないかとまで思ったけれど、その面影は一応昔のままだし、何より彼女はきちんと僕の事を覚えていた。僕が木から落ちてズボンを破いてパンツ丸出しで庭を駆け回った事だとか、父親と喧嘩して部屋に閉じ込められて大泣きした事だとか、不名誉な思い出話ばかり。
一流の寄宿舎学校で勉学に励む僕やヒョウが呼び戻された理由は、アシュの護衛のためだ。元々アシュの警護は万全で、屋敷の周りは衛兵が厳重に警備してある。それでも尚更なる護衛が必要となったのは、世間を騒がせる盗人集団影蛇からの予告状のせいだ。
『お初にお目にかかります影蛇と申します。このたび我々の次回の標的が天気姫と決まりましたので、事前にお知らせ申し上げます。ご了承を』
いやに馬鹿丁寧なこの予告状は主都の新聞社などにばらまかれ、天気姫の存在を知らない一般国民は何かの暗喩かと色々な推測を巡らせての大推理を展開しているけれど、天気姫の存在を知っている一部貴族や天気庁の人々は顔面蒼白になった。慌てて警護の人数を倍に増やし、見回りを強化するものの、摩訶不思議な手腕で何度も警備隊が取り逃がして尻尾を掴めもしない影蛇に対する恐怖は測り知れず、身近にも誰か護衛が必要だと言う事になった。天気姫のプライベートルームにまで入り込める、有能で身元のはっきりとした護衛。ここまで言えば武術でも寄宿舎学校で優秀な成績を収め、大貴族の息子であり、これ以上ないくらい身元がしっかりとしている僕が呼び戻された理由は分かるだろう。護衛は、基本的には僕とヒョウの二人で交代制で回している。そして今まさに、ヒョウから俺への交代が行われた所だ。
「出かけるわ」
アシュは突然そう言い放ってさっき座ったばかりのソファから身を弾ませて立ちあがった。
「は!?」
僕と、ようやくタオルを置いて戻ってきたカナさんの言葉が重なった。僕たちの当惑など配慮する気なんてさらさらないアシュは既に箪笥を開けて色とりどりの衣服の中から上着を選び出す。
「あの、アシュさん? 君、狙われてる身だって分かってる?」
「あら? セイ様はわたくしを守ってくれるのではなくて?」
ひらりと柔らかそうな上着を羽織ると、アシュはそう言って偉そうに微笑んだ。流石に十年以上お嬢様として生活させられただけあって、その仕草は一種堂に入ってるといって差し支えない。人目のないところでは言葉使いも乱暴だし仕草もだらしないけれども。
カナさんは最初の驚きを通り越すと流石は有能付き人、とっとと走って外出用の靴を取りに行く。ああもう外出決定だ。本当に、この女は自分が狙われているという自覚があるのだろうか? 警備が厳重な屋敷の中にいた方が絶対安全なのに。でも今この時、彼女の機嫌を損ねるわけにはいかない。今日の天気予測に雨やましてや雷なんて予報はないのだ。
随分久しぶりに新作です。軽い気持ちでファンタジー。男主人公で長編なんて珍しいのでどう転ぶかなんですが、軽い気持ちでお付き合い頂ければと思います。恋愛度はまあ二割五分くらいでしょうか。タイトルの割に低いなオイ。