チョコレート化学実験。
「(あ、雪…。)」
羽菜は水滴でぼんやりしか見えない窓の外を手でこすって覗きみる。
どうりで曇っていると思った。
音もしないゆらゆら揺れるボタン雪と一緒に、羽菜の決心も揺らぐ。
「雪だな。」
後ろの方から聞こえた低い声に、羽菜は跳ねるように振り向いた。
放課後の理科室は少し寒い。
新田先輩は、もう雪の写る窓から目を離し、同じガラスはガラスでもフラスコの方へ気持ちは移っているようだった。
眼鏡の奥の真剣な眼差しで毎日見られているフラスコや試験管が、正直羨ましい。
「そうですね、雪ですね。」
ホワイトバレンタイン、ですね。
羽菜はキュキュッと窓ガラスに人差し指を滑らせた。
今年は、
今年こそは、渡したい。
このくすぶる気持ちとチョコレート。
中学生の時も、結局渡せなかった。
四年越しの、重たい重たい、
申し訳ないぐらい重たいこの気持ちを、
小さな小さなチョコレートに乗せて。
羽菜はゆっくりと机に戻り、化学部日誌に今日の実験を書き写す。
「羽菜。」
「はい。」
「カリウム10㎎を12㎎に書き換えて置いて。」
「はい。」
新田先輩は実験台から一回も目を離す事なく羽菜につげた。
古くて大きい理科室のストーブがしゅんしゅん言っている。
白衣は化学部のユニフォームと言ってもいい。
そしてそれが似合い過ぎている先輩には、それなりにファンもいる。
目立たないけれど、こっそり。
地味だけれども端正な顔立ちにくらりと来てしまった理系女子は少なくない。
“受け取るぐらい良いでしょう?”
去年。
グラウンド挟んでお隣の高等部の校門で、先輩がなにやら女子生徒と揉めていた。
ピンクの、
リボンだったと思う。
可愛くラッピングされた、中身を見なくても分かるバレンタインのチョコレート。
それを受け取る受け取らないで揉めているらしい。
ブレザーに身を包んだ、美しい人だった。
そして、先輩も当たり前だけど、ブレザーを着ていて。
居合わせたセーラー服の自分と、全く世界が違うように感じた。
“いや、受け取れない。”
“どうして?別にお返し期待してるわけじゃないのよ?いいじゃない貰ってくれるぐらい。”
“すまない。”
“…っ。”
“…。”
“……この、変態化学オタク!もういいわよ!!”
ベシンッ
と、美人の平手打ちをくらい、先輩の眼鏡が飛んだ。
走り去る彼女を目で追って、また視線を戻すと、
“あれ、蓮田か?”
眼鏡を拾っている先輩に気付かれてしまった。
…
“何故受け取られなかったのですか?”
なんとなくそのまま先輩と並んで歩く事になって。
顔には出さなかったが羽菜はおおいに動揺していた。
それでも自分の口からは冷静な質問が落ちる。
…先輩、身長伸びた。
“受け取ったら返さなければならないだろう?”
“え?でも”
あの人は返さなくていいって。
首を傾げる羽菜に、新田先輩はうん、と頷く。
“そうだけど、でもそれは俺が嫌なんだ。”
羽菜は先輩を見上げた。
“手紙も、年賀状も、誕生日プレゼントも。貰ったら必ず返す。気持ち悪くないか、そういうの、返さないと。挨拶を無視するような、そんな気持ち悪さがさ。”
先輩は眼鏡をくいくいいじっている。
どうやらさっきの衝撃で少し曲がってしまったらしい。
“かといってアレは、他とは別の気持ちが入っているからな。あの人にものは返せても、さすがに同じ気持ちは返せない。返せないものは受け取らない。”
珍しく饒舌な先輩に、羽菜は一言、そうですかと言った。
そうですか…。
羽菜のカバンの中で、渡せそうにもないチョコレートがカサカサ鳴った。
それならば、
こちらにも考えがあります。
化学部の扉をまた叩いて早11ヶ月。
自分を包むものはセーラー服からブレザーへ。
グラウンド分あった距離は、理科室の机分まで縮まった。
呼ばれ方も、蓮田から羽菜へ昇格だってした。
ついでに数少ない他の部員は、雪の予報も手伝って見事に皆サボリ。
この期を逃せば、もう一生渡せそうにもない。
…あの時。
とても悲しかった。
先輩をじっと待って、バッッと渡してバッッと帰る予定が、いきなり先輩を見つけて、…まさか渡す前にあんな形で玉砕するとは。
その時は思った。
あの人と同じように、受け取るぐらいいいのにって。
でも。
もし先輩が受けとってくれていたら。
先輩は律儀に返すのだろう。
もしかしたら世間の『ホワイトディは三倍返し』なんていうのを真に受けて本当に三倍返ししてくるのかもしれない。
でも、そんな事されたら。
期待、してしまう。
1㎜でも、一瞬でも、期待してしまうから。
あぁ、だから先輩は受け取らないんだなと思った。
どこまでも、律儀で不器用な、変な人。
羽菜はアルコールランプの火を付けた。
ビーカーに牛乳を入れ、アルコールランプにセットする。
優しい炎が赤や青に揺れている。
先輩から充分離れた理科室の隅で、羽菜はそれを静かに見ていた。
…本当は渡したいのだ。
捨て身になって、綺麗にラッピングした、可愛い可愛いチョコレートを。
でも、それは先輩の負担になるから。
先輩の困った、戸惑った顔を見たくないから。
羽菜は沸騰直前のミルクを火から下ろし、自分のカバンからそーっと板チョコを一枚取り出して、静かにパキンと割る。
ひとかけら、ビーカーにポチャンと入れ、ガラス棒でゆっくりとかき混ぜた。
ドキン、ドキン、と心臓が時を刻む。
バレないように。
気付かれないように。
毒を仕込むようにそっと。
雪はまだ降り続いている。
「先輩。」
羽菜はゆっくり、ビーカーからコップにホットチョコレートを注いだ。
「どうぞ。」
柔らかい湯気が、天井へゆらりゆらりと上がっていく。
「今日は寒いですから。」
新田先輩は試験管からコップの中のホットチョコレートへ視線をずらし、ほんの少し微笑んで、ありがとう、と言った。
──ありがとう。
羽菜はギュッと胸に手をやる。
そう。それでいい。
先輩は何も気にせず、その中にどんな重たく濃い思いが入っているなんて、一生気付かず、ただ飲み干して欲しい。
何でもない、ただの部活中の一杯として、飲み干して欲しい。
「…ん、うまいな。…あれ。これなんか入ってるか?」
「…!!!」
羽菜は冷や汗を流しながらあらぬ方向をみた。
「………ココアです。」
「ココア?いや、なんかココアって味ではないんだが。」
「いいえ、ココアです。ココア以外の何者でもありません。ものすごくココアです。ココアの中のココアです。」
馬鹿じゃないの私。
なんで先輩なら気付かないと思ったんだ。
羽菜は早足で自分のカバンが置いてある隅の席に戻り、焦るあまりせかせかと何故か現国の教科書を出したり入れたりした。
危険だ。
ものすごく危険だ。
絶対、バレてはダメだ。
先輩に気付かれては、ダメだ。
落ち着け、落ち着け私、と羽菜は思い切り深呼吸する。
落ち着け。
落ち着け。
なんとかここを切り抜けないと。
羽菜はどうにかしようと意味もなくカバンの中をあさり続ける。
と、
目の端に、先ほどの板チョコが目に入った。
落ち付くためには…糖分摂取…っ!
羽菜は少し遠い位置にいる先輩に背を向けたままこっそり板チョコにかじりついた。
ふわりとビターな風味が口いっぱいに広がる。
美味しい。
うん。…少し落ち着いた。
喉の奥から全身に糖分が駆け巡る。
痛いぐらいに舌を刺激する暴力的な甘さに、羽菜はこの時ばかりは感謝した。
「あ、やっぱりチョコか。」
え、と目を見開く羽菜の肩に、離れた場所に居たはずの、先輩の大きい掌が乗る。
ゆっくり振り向いた羽菜の目には、クイズに正解でもしたかのように喜んでいる先輩の微笑んだ口元があった。
「…コ、コアです…。」
糖分を摂取したはずなのに、こんな答えしか、言い訳が思い当たらない。
羽菜はじっと古くて黒づんだ床を見つめた。
「いいや、あの風味、油分の量、該当する答えはチョコ以外考えられない。」
先輩は得意そうに眼鏡をくいっとあげて敵を追い詰める。
「ちなみに。」
「…はい。」
「今日はなんの日か、知っているか?」
「……っ」
こ、
これは…。
「…そう。世間でいう、バレンタインだ。」
ほぼバレている…っ
羽菜は胸に板チョコを握りしめながら固まってしまった。
鏡を見なくても分かる。
多分、今とてつもなく、顔が赤い。
「す、すみませんでした。」
羽菜は思わず頭を下げた。
バレンタインのチョコレートをこっそり、そして無理やり食べさせた事がバレてしまったのだ。なんだか色んなものをひっくるめて、一目散に逃げ出してしまいたい。
そんな羽菜を先輩が意味深げに見下ろす。
「時に、羽菜。」
「…はい。」
「チョコ、どれぐらい入れたんだ?」
「…ミルク200㏄に対し、ひとかけらです。」
あの…、それがなにか。と、羽菜が顔を上げたその時。
「…足りないな。」
「え、、」
くいっとアゴを指で掴まれ。
ペロリと口元に付いたチョコを舐めとられた。
「…っ……」
え?
え?!
「うん、うまいな。」
顔をひたすら白黒させる羽菜に、新田先輩はニヤリと微笑む。
「な…え…ど…」
なんで、え?どういう…という言葉一つまともに発音出来ず、羽菜は固まったまま動けなかった。
「…訳が、分からないか?」
新田先輩が優しく微笑んだまま、ゆっくりと首を傾ける。
羽菜は内心パニックになりながら、つられるようにおずおずと頷いた。
「そうだな。んー…。たとえば。知らないと思うから言うけれど、俺が下の名前で呼んでいる女子は、羽菜だけなんだが。」
先輩は羽菜の耳元に、じわりと唇を近付ける。
「そして、羽菜を“蓮田”と呼んでいた時から、俺はそう呼びたかった。ずっと、そう呼びたかったんだ。
どういう意味か、…分かるか?」
どういう…
意味か…。…⁈
羽菜は戸惑いながらも、それ以外に動き方を知らないようにカクカクと頷いた。
し、信じられない。
信じられないぐらい大きな幸福感が津波になって背後から羽菜の肩を覆う。
しかし、とにかくこの距離の近さに羽菜は生命の危機を感じた。
既に許容範囲がオーバーしているのだ。
こ、これ以上は、死んでしまう…。
顔を真っ赤にしながら一歩後ずさる羽菜に、新田先輩は嬉しそうに微笑んだ。
「ホワイトデーは三倍返しだから、覚悟しておいてくれ。」
ああ、だから死んでしまうって言ってるのに。
フラフラしながら羽菜はなんとか先輩を見上げると、彼は羽菜の手を逃がさないとばかりに優しく、でもちょっと強引に引っ張った。
【Fin】
作者は眼鏡白衣の意味深な微笑みが好物です。