疑惑 〜王子の内緒話〜
「グスッ・・・グスッ・・・ウッ・・・」
誰かが泣いている。
ある朝、エリリーテはそんな気配に目を覚ました。
まだ、早朝。小鳥たちもやっと目覚めるような時間。部屋の中は薄青い宵闇の気配と、朝の冷たい空気が漂っている。
「グスッ・・・ヒック・・・」
やはり、気のせいでは無い。エリリーテは寝台の上に身体を起こして、声の気配を辿る。それは、窓の外、庭の方から聞こえている。
「誰?」
肩に掛かっている長い髪をサラリと払うと、夜着の上に部屋着のガウンを羽織る。そして、室内用の布で出来た室内履きに足を入れると、そっと立ち上がる。そのまま、テラスに繋がるガラスの扉を開けると、朝霧を含んだ冷たい空気がその隙間から部屋に流れ込んできた。
その小さな声は、テラスの下から聞こえているようだった。エリリーテはそっと足を進めて、テラスから庭へと降りていく。そこにはエリリーテの母国トリデアルダの迷宮庭園を模して造られた、低灌木による迷路のような植え込みが広がっている。この中に迷い込んだなら厄介なことになるんだけどと、エリリーテが思っていると、その声は、テラスのすぐ近くから聞こえた。
テラスの脇の植え込みの横に、その小さな姿を見つけて、エリリーテはホッとした。
「ティカーン様」
驚かせないようにそっと呼びかけると、幼い王子は泣き濡れた瞳をエリリーテに向けて、泣きながら両手を差し伸べたのだった。
「マーリン」
部屋に戻ったエリリーテが侍女の控えの間で休むマーリンに声を掛ける。
「エッ?あ、エリリーテ様っ!どうかなさいましたか?」
そして、慌てて部屋から出てきたマーリンは、そこにいる主の姿に驚く。
「そちらは・・・ティカーン様ですか?」
エリリーテの腕の中には、白い寝間着姿の王子が抱かれていた。
「ええ。乳母達が探しているといけないから、誰か使いをやって、庭で迷子になられていたのをお預かりしていると伝えてちょうだい。それから、湯浴みの準備をお願い。ティカーン様の身体が冷え切っているの」
「わかりました」
マリーンが使いを出し、厨房からお湯をもらってきてくれて、エリリーテが沐浴をするときに使う桶に湯を張った。ティカーンの足に付いた泥を拭ってから、寝間着を脱がせて湯に入れるとティカーンはホッとしたのか、ウトウトしはじめる。
「あらあら、泣き疲れられたのでしょうか」
マーリンがそっと小さな身体を大きめの水取り布でくるむ。そのまま、他に着替えも無いので、大きめの布でくるんでやり、エリリーテが抱き取り寝かしつけていると、バタバタと足音が聞こえてきた。
エリリーテの居室の取り次ぎの間から、声が聞こえてくる。間もなく扉の向こうからティカーンの乳母シアーナが現れた。
「ティカーン様っ!!」
エリリーテは飛びつかんばかりのシアーナを目で制して、
「静かに。今、眠られたところですから」
と、告げる。
その時、うっすらと目を開けたティカーンが、うっとりと微笑みエリリーテの腕の中で呟いた。
「・・・かあさま・・・」
「ティ、ティカーン様っ!!」
乳母のシアーナが驚いたように呟く。ティカーンの着替えを持ってきていたティカーン付きの侍女も、とても驚いたようにティカーンとエリリーテを見つめていた。
ティカーン王子は三歳にしては言葉数が少ないと、乳母は気にしているのだという。
「元々が大人しい気質のお子であれば、それほど気にすることはないでしょう」
そう、エリリーテが言うと、
「でも・・・ただのお子様ではございませんから・・・」
と、乳母は表情を曇らせる。
そう、ティカーン王子は第一位の王位継承権を持っている王子なのだ。
眠るティカーンをエリリーテはそっと抱きしめた。この小さな身体に、それほどの期待を背負わされているのだと思うと胸が痛む。
「言葉を多く話すようにと思われるのなら、多くの言葉で語りかけるのが良いと、我が国ではそういう子育てが行われていますが、そういう教育は?」
そう聞くと、乳母達は顔を見合わせて、
「でも、まだ王子はお小さいので、お話ししても理解されないのでは?」
そう、王子付きの年若い侍女が言う。
「そうではありません。言葉に興味を持つことから言葉を覚えるのですよ」
エリリーテはため息を付く。
ダリューシェン様がお元気なら、きっと我が子に話しかけ、会話をされることだろうと思いを馳せる。
「わかりました」
「正妃様?」
「王にお願いして、毎日少しづつでも私がティカーン様のお相手をしましょう」
母が側に居てくれない、それは仕方がないこととはいえ、とても辛く寂しい物だということはエリリーテは身をもって知っていた。
「私ではダリューシェン様の代わりは務まらないかもしれませんが、精一杯お世話しましょう」
少しでもティカーンの寂しさが安らげばいいと、エリリーテは腕の中の温もりを愛おしく思うのだった。
まだ幼いティカーンは「エリリーテ」と呼ぶことが出来ず、縮めて「エリー」と呼ぶようになった。
毎日、昼食を一緒に取るようになって、十日間が過ぎ、ティカーンはすっかりエリリーテに懐いている。
昼食後は一緒に絵本を読んだり、散歩をしながら花の名前を覚えたり、お昼寝の時間までのほんの一時を、エリリーテとティカーンは楽しく過ごしていた。
ティカーンの乳母や側仕え達を喜ばせたのは、ティカーンの表情がみるみる明るくなり、言葉数が増えたことだった。今までの言葉数が少なかったことが嘘のように、色々と話をするようになっていた。
「これは?」
「薔薇です」
「あの白いのも?」
ティカーンが小さな指で庭に咲いた花を指さす。
「そうです。こちらの赤いお花と大きさも色も少し違いますが、同じ薔薇の仲間ですよ」
穏やかな午後の日差しの中、エリリーテは王子の手を引いて花を眺めている。
「エリー」
「はい、ティカーン様」
「ずっとここに居たい」
ティカーンがそう言ってエリリーテの手をぎゅっと握りしめてきた。いつも、お昼寝の時間だと乳母が連れに来ると、ティカーンは泣きそうになる。
だが、乳母達に、
「正妃様もお仕事があるのですよ。我が儘を言ったら、もう呼んで下さらないかもしれませんよ」
と、諭して、また明日も会うと約束をすると、寂しそうに帰っていくのだ。
「かあさまは・・・ずーっとねんねなの」
「そうですね、ご病気ですから・・・」
ティカーン様はやはりお寂しいのだと、エリリーテの胸は痛む。
「抱っこもしてくれない」
「あら、でも、初めてティカーン様にお会いした日、お母様に抱っこされていらっしゃったでしょう?」
そう、あの晩餐会の日、ダリューシェン妃はティカーン王子を抱いて現れたのだ。
ティカーンは不思議そうな顔をして、エリリーテを見つめる。
「ティーは、かあさまに抱っこしてもらったことないよ?」
「えっ?」
「ティーのかあさまは、ずうっとねんねだからね」
どういうこと?小さいからあの晩餐会の夜のことは覚えていらっしゃらないのかしら?エリリーテはもう一度聞いてみた。
「あら、では、初めてお会いした日に、ティカーン様を抱いていたのはどなたかしら?緑色のドレスを着て、とても美しい人だったでしょう?」
あの日、現れた彼女の姿に、エリリーテは完全な敗北を感じていた。
「あれは・・・」
ティカーン王子は少し考えてから言う。
「・・・おじうえだよ」
「えっ?」
「本当は内緒なの。でも、エリーには教えてあげる」
そう言って、ティカーンは無邪気に微笑んだ。
何を言われたのか一瞬分からなくて、エリリーテは首をかしげた。
あの時に現れたダリューシェン妃はクリアージュ様?
「かあさまのドレス着てたけど。へんなのって言ったらないしょって言ってた」
「ティカーン!!」
植え込みの向こうから、突然トシェンが現れて、大きな声で名前を呼んだので、ティカーン王子は驚いてエリリーテにしがみついた。
「何をらちもないことを言っている?エリリーテが驚いているだろう?」
そう、トシェンは笑顔で言うが、目が笑っていない。明らかに苛立ちを押さえて、平静を装っている。
このトシェンの明らかにいつもと違う様子を見て、エリリーテは確信した。ティカーンが言ったことは事実かもしれないと。
あの時、エリリーテの前に現れたのは、ダリューシェン妃ではなく、クリアージュ様だった?
では、本物のダリューシェン様は?
何故?どうして?




