32.妹
茜色に染まる空のせいか、昼間は透き通るような青一色だった海面が、いまは紫がかって見える。
風は少し強いが、そんなことすぐに気にならなくなるほど、実に幻想的な景色だった。
……出てきて良かったな。
船の客室からデッキにやってきた僕は、背筋を伸ばして、大きく息を吐き出した。
昨夜、ほとんど眠れなかったせいか、それとも、疲れが一気に押し寄せてきたのか。島を出てからというもの、僕はずっと、船の客室でぐっすりと夢の中だった。
「……あ」
どうやら、先客がひとりいたらしい。
僕は、デッキの先端のほうで夕焼けを眺めている人物に近づいて、声を掛けた。
「どうも」
彼は――フェイスは僕の声に反応して眉を吊り上げると、
「……君か」
ちらと僕を横目にして、それからまた、水平線へと視線を移した。
「綺麗な景色だね。黄昏時っていうのかな。昔から好きなんだ。こうやって、ずっと空を眺めてると、なんだか頭の中が空っぽになったような感覚になってね。嫌なことを考えずにすむ」
僕はフェイスの隣に並んで、彼と同じ景色を眺める。
「君は、オレのことをどう思う?」
「……どうって? どういうことですか?」
視線はそのまま、二人は会話を続ける。
「狂ってると思うかい?」
「…………」
「妹が死んだのは、彼女達のせいじゃない。学校でいじめられたからでもない。……ただ、弱かっただけなんだ。野璃奈は、目の前に立ち塞がる壁を乗り越えることができなかった。立ち向かうことなく、逃げ続けた結果、居場所をなくしたんだ。……そんなふうに、オレは何度も自分に言い聞かせて、納得しようとした。…………でも、無理だった。どうしても、許せなかった。野璃奈が死んだことも知らずに、野璃奈が作り上げたギルドで楽しそうにしている彼女達が、どうしても、許せなかった」
「……でも……そのためにあなたは、何の関係もない紅蓮さんも殺した。別の選択肢もあったはずなのに」
フェイスは景色から目を離すと、デッキのほうに向き直り、手すりに背を預けた。彼はそのままズボンのポケットからソフトパックのタバコを取り出すと、ビニールを剥がし、とんとんとリズム良く叩いて、一本口に咥えた。
それから、ちらと僕のほうを見やって、
「君もどうだい?」
と、進めてくる。
「いえ、やめときます」
僕が断ると、
「そうかい」
フェイスはオイルライターを取り出して、火を点けた。
ふぅ――っと。
彼は紫煙を吐ききると、僕に言った。
「覚悟だよ。……彼を殺すことで、もう後戻りできなくなる。迷いを消すためでもあったのさ」
「なら、やっぱりあなたは狂ってると思いますよ」
僕は嫌味っぽく言った。しかしそれを聞いたフェイスは、何故か嬉しそうに笑みを浮かべる。
「はっきり言うね。――まあでも、安心したよ」
何が安心なのか、僕にはさっぱりだった。理由を訊こうとも思ったが、なんとなくその気になれなかった。
「実は、僕にも妹がいるんです」
かわりに、僕は別の話題を切り出した。
フェイスはタバコを吸いながら、僕に目を向ける。どうやら、僕の話題に興味を持ったらしい。
「夏休みに入る前、その妹がはじめて彼氏を家に連れてきたんです」
「――へぇ、それで?」
「相手は大学生で、僕よりも年上。髪を染めた、垢抜けた感じの奴でしたよ」
「なるほどね」
「で、当たり前のように僕のことをお兄さんって呼ぶんですよ? 誰もお前のことなんか認めてないのに、勝手にお兄さん扱いするんじゃねえッ! って思いましたね。自分より年上の人間にお兄さんとか……正直、殺意すら芽生えましたよ」
「ははっ! そりゃさぞかし君としては面白くない話だったろうね!」
「ほんと、最悪ですよ。……で、そいつが帰ったあと、妹に散々悪口言ったのを覚えてます。あんなやつダメだとか。さっさと別れろとか」
「あっはっは! 可愛いんだね。妹さんが」
「違います! ほっとけないだけですよ! いつも僕のやることにあーだこーだって、文句ばかりつけてきて、可愛いところなんてひとつもないんですから」
「だったら、誰と付き合おうが妹さんの勝手じゃないのかい? お兄さんって呼ばれることくらい、我慢してやりなよ」
「認めませんよ。そんなこと。例え妹がそいつと結婚したとしてもね」
僕はきっぱりと言い放った。それから、僕は大きく息を吐いて、海のほうを見やった。
「だから、フェイスさんの気持ちも少しは理解できます。…………理屈じゃないんですよね、こういうのって……」
フェイスは頬を緩ませて、紫煙を吐き出す。彼は携帯灰皿を取り出すと、タバコを押し付け、火を消した。
「そうかい…………ありがとう……」
風にかき消されそうなほど、小さな声だった。
フェイスは再びタバコを取り出し、ちらと僕を見やる。
「君もどうだい?」
「…………じゃあ、一本だけ」
僕はフェイスからタバコを一本受け取り、口に咥える。それから、彼の取り出したオイルライターの火に、タバコを近づける。
ゆっくり息を吸い込むと、海風のせいだろうか、僅かに潮の香りがした。