28.二つの傷痕
午後 五時三十五分。
林の中を、生ぬるい風が吹き抜ける。
僕とナゾシンは『Gigas』の彫像を前に、呼吸を荒く、佇んでいた。
二人の視線の先――彫像の真下には、うつ伏せに倒れている女性。シエルの姿があった。
「遅かったか……」
ナゾシンが小さく言った。
「まだ……。まだ、生きてるかもしれない」
僕はうつ伏せに倒れるシエルに近寄って、膝を折った。
彼女の後頭部からは出血が。何かで殴られたような、打撃痕があった。
僕は思い切って、彼女の肩に手をかける。
「…………」
冷たい。まるで彫像のように冷たく、無機質で、とても人間の肌を触っているようには思えない。彼女の死は明らかだった。
僕は、襲い来る絶望感と、胸の内から込み上げてくる怒りに、奥歯をぐっと噛み締めた。それから、シエルの身体を仰向けにする。
彼女の表情は、恐怖に怯えるようでも、怒りに顔を引きつらせているわけでもなく、ただ無表情に目を閉じていた。
「シャドー君。あったぞ。プレートだ」
ナゾシンの声に顔を上げる。彼は彫像の土台部分に置いてあったプレートを拾い上げると、刻まれたメッセージを読み上げた。
「『Gigas』」
もはや想像する必要もないメッセージに、僕は大きく息を吐いて、脱力した。
「……くそ…………どうしてこんなことに……」
言ってから、僕は拳を強く握りしめた。どうしてフェイスは、次々と、こんな簡単に人が殺せるんだ? ノリナという女性の復讐のため? ふざけるな!
「絶対に、見つけ出してやるっ……!」
静かに、怒りを込めて、僕は言った。これ以上、好き勝手させてたまるか!
「そうだな……」
ナゾシンは、プレートをズボンの後ろポケットに挟むと、僕に言った。
「日暮れも近い。暗くなる前にシエルさんを運ぼう」
僕は空の様子を伺った。日が沈みかかっている。あと一時間もすれば、あたりは真っ暗になるだろう。
「地下砦に台車を取りに行っている時間はない。重労働だが、このまま二人で運ぶしか方法はない」
僕はナゾシンにうんと頷いてから、「あっ!」と声を上げる。
「ちょっと待って!」
「……? どうした?」
「これ……なんだ?」
僕は、シエルの首に妙な傷痕を見つけた。……これは、爪痕?
「首を絞められた痕か?」
いつの間にか、ナゾシンも隣にしゃがみこんで、彼女の首の傷跡を観察していた。
「たぶん……。けど、なんで?」
「……ふむ。もしかすると、シエルさんは殺されてから後頭部を殴られたのかもしれない」
「どうして?」
「『Gigas』の武器は棍棒だ。他の殺人と同じように、モンスターの特徴になぞって殺されたように偽装したかったのでは?」
「そっか……。それなら納得できる……」
しかし、彼の推理だとひとつ引っかかる点がある。
絞殺なんて、普通、かなりの苦痛を伴うはずだ。なのに、姉さんの表情からはそんな風に感じ取れない。
「そうだ! 凶器は?」
「それらしいものは見当たらなかった」
ナゾシンは即答した。僕が遺体を調べている間に、彼は周囲を観察していたらしい。
「だが、凶器になりそうなものはそこらじゅうにある」
そう言って、彼は落ちている枯れ木を指差した。確かに、太くて丈夫そうな木の棒は沢山落ちているが……
「どれが凶器になったかはわからないか」
「そもそも、クキさんが殺された時に使われた凶器も見つかっていない。凶器を特定するのは無理だと思うが?」
「……それもそうか……。ここからだと崖も近いし、海に投げ捨てられたら探しようもない。そもそも、紅蓮さんは洞窟で襲われたって言ってたな……」
僕は、独り言のようにぶつぶつと話し続ける。
「その証言をもとに考えると、二人は洞窟で襲われたってことになる。なら、ここに落ちてる木の棒が凶器になったとは考えにくい。別の何か、落ちていた石か……あるいはバットでも持参してきたか……。いや、そんなことよりも、フェイスさんは紅蓮さんを気絶させたあと、どうやって姉さんをここまで連れてきたんだ? 姉さんが素直について行ったとは思えない。当然、抵抗したはずだ。そうなると、殺害現場となったのはやっぱり洞窟か――」
「シャドー君」
「え?」
僕はナゾシンの声にはっとして顔を上げる。
「考えるのはあとにしないか? そろそろ行動しないと、日が暮れる」
「……あ、うん……」
僕は、素直に首を縦に振った。ナゾシンの言う通り、のんびりとしている暇はない。それに――、考えれば考えるほど、混乱する一方だった。
僕は一旦、考えるのをやめにして、シエルの遺体を『ディグルスの地下砦』まで運ぶことに集中した。