1.船酔い
青い空、白い雲。
コバルトブルーの海は遥か彼方――水平線まで続いている。
眺めは最高。どれも文句なしに美しい。……もっとも、陸から見ていればの話だが。
見た目に騙されるのは愚かなことだ。海を甘く見ていては命を落としかねない。そう、今の自分がまさにその良い例だ。
外の景色が綺麗だというので、船のデッキに出てきたのがそもそもの間違いだった。
地球上に存在する乗り物は数多く存在する。車、電車、飛行機。どれも大好きだ。当然、乗るのも大好きである。……が、そんな乗り物好きの僕にだって、例外は存在する。
……船だ。
この船特有の揺れは、内臓を無重力状態にさせる。ちゃぷちゃぷと波音を立てる水面よろしく僕の胃袋もゆらり揺られて、あげく激しい嘔吐感に襲われるのだ。
「おえぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇっ!」
僕は手すりから上体を乗り出し、このだだっ広いコバルトブルーの海にごく少量のキャラメルブラウンを混ぜ合わせた。
たぶん、これで最後……。吐き出す物がなければもう大丈夫だろう。
僕は現在、大学の夏休みを利用して旅行にきている。といっても、ぶらり一人旅というわけではない。
以前からプレイしていたオンラインゲーム『UoE』のギルドメンバーと、オフ会をかねて、とある孤島に向かっているのだ。
「……う」
安心するのはまだ早かった。夏のビッウェーブがまだ残っていたらしい。昨晩食べ過ぎたなと、今更ながら後悔する。
「おい、シャドー君。大丈夫か?」
今度こそ全て吐き出してスッキリしたそのタイミングで、親切にも背中をさすってくれる青年がいた。
……なんともタイミングが悪い。もう吐き出す物もないのに……
「ほら、我慢せずに全部吐いたほうがいいぞ」
さっきから左手を振って、「やめて」と声にならない声でアピールしているのに、彼はそれに気付くことなく、僕の背中をさすり続けている。
「あの、ナゾシンさん、もう、いいですから。大丈夫ですから」
僕は苦い表情を浮かべながら、言った。
口を動かすだけでも気持ちが悪いのだが、このまま背中をさすられ続けると胃液すら吐いてしまいそうだ。
「そ、そうか。でも、まだ顔色が悪いな。……よし、水を取ってきてあげよう」
ナゾシンが船内へ消えて行くのを見届けると、僕は大きな溜め息ついた。
水を取りに行ってくれたのはありがたい。たった今、海水で口をゆすいだらやっぱり塩辛いかな。なんて馬鹿げたことを考えていたところだ。
それから暫くして、ナゾシンが紙コップを手に戻ってきた。
彼はやや長身の――細身の男性で、白のポロシャツと白のジーンズをごく自然に着こなしている。男臭さの感じられない整った顔立ちからは、中性的な魅力が。まさに『白馬の王子様』と呼ぶに相応しいルックスを彼は兼ね備えていた。
僕が女の子だったら、優しく介抱してくれる彼にきっと恋しただろう。
ゲロから始まる恋物語。……いや、やっぱないわ。
紙コップを受け取り、口内をゆすいでさっぱりさせた後、僕らはデッキに設けられたパラソルテーブルに腰を落ち着けた。
……まだ気分が悪い。
仲間内で旅行を企画したのなら、船だけは絶対に避けたんだけど、今回の旅行はそうもいかない。
なにせ、招待された身なのだから――
「それもしても立派な船だなあ……。とても個人の所有物とは思えないよ」
僕は溜め息混じりに言った。
この船(というよりは超巨大クルーザーと言ったほうが近い)には現在、僕を含めたオフ会メンバー七人と、船長と乗組員の皆さん、それから料理人とベッドルームの清掃員さんまで、結構な人数が搭乗している。
オフ会に参加するメンバーは全員で八人なのだが、この旅行の主催者であるメノウは準備のため、先に現地に到着しているのだった。
しかしそんなことはお構いなしに、昨晩から乗船していた僕らオフ会メンバー七人は、一流シェフの作るバイキング形式の料理と、まるで水のように振舞われるビンテージワインにもうすっかり舞い上がってしまい、彼女のことなど忘れて明け方近くまで大宴会を繰り広げていたのだった。
「そうだな。メノウさんはお金持ちのお嬢様だと聞いていたが、まさかこれほどとは」
ナゾシンは両手を頭の後ろにまわして上体を仰け反り、パラソルの日陰を避けて見える青空に目を細めている。
メノウのことは僕も詳しく知らない。ただ、有名な財閥の令嬢とは聞いていた。
財閥の令嬢がネトゲ? そんな馬鹿な。なんて思ってもいたのだが……
ここにきてようやく、ネット上での彼女のクセのある『でつまつ』口調や摩訶不思議な発想力にも納得ができた。
ネトゲ廃人の財閥令嬢。その心理を凡人が理解できるはずがない。
『縁あって弧島を手に入れたんでつ。今度その島をUoEみたいにしようと思ってるんだ。完成したらみんなでオフ会しようじぇ!』
現在からさかのぼること一年。彼女のこの一声が、そもそもの始まりだった。
もちろんその時は半信半疑で、まさか本当に実現するとは夢にも思わなかった。
「お嬢様ね……。もうそんな年じゃないだろうに」
僕は鼻で笑った。彼女の実年齢を考えると、失礼とは思いつつも笑いが込み上げてくる。
「ふむ。それだけ余裕があればもう大丈夫だ。それにしても、本当に船に弱いらしいな。この船……そんなに揺れてないと思うのだが」
「弱いものは弱いんです!」
真顔で見つめてくるナゾシンに、僕は強く言い返した。揺れの強弱が問題ではない。揺れていることが問題なのだ。
ナゾシンは「ふむ」と相槌を打ってから、続けた。
「しかし落ち着いたのなら、そろそろ他のメンバーと合流しないか?」
「うぅん……。そうですね……」
僕は少し考えたが、だいぶ気分も良くなってきたので素直にナゾシンの誘いを受けることにした。
せっかく旅行に来たのだ。楽しまなければ!
興奮しているな。そう自覚しながらも、僕は浮かれていた。