第三話
第二章 名も無き戦争(1)
ブエルは、午後の日が僅かに傾いた頃に「ディエル」の街に到着した。
遠くにそびえる山々を背景に、広大な荒野に土煙と地響きを立てて、十頭立ての水牛に牛車を引かせてやって来た。
廻りを荒野に囲まれた「ディエル」では、派手な土煙を上げてやって来る姿が、小さな点の頃から確認できていた。そのため、街の入り口でブエルを出迎えるのは簡単なことだった。
出迎えの先頭は、昨夜妙案を思い付いた虎頭であった。その後ろを住民達が扇状に囲んだ。
十頭の水牛は、街の入り口まで入ると急制動を掛けて停まった。長い手綱で結ばれた牛車は慣性で最後尾の水牛近くまで走ったが、ぶつかることは無かった。
「ブエルだ…」
「流浪のブエル…」
居並ぶ住民たちの口々からこぼれた呟きが、ざわめきとなって広がっていく。
そんな中、牛車の扉が勢い良く外側に開くと同時に、腰の曲がった人影が転げ落ちた。
「まったく、なんてこったい。水の匂いに反応して暴走気味だよ。年寄りには向かない土地だよ、まったく」
ぶつぶつと苦言を漏らしながら立ち上がったのは、鶏の頭をした腰の曲がった亜人であった。それこそが『流浪のブエル』である。
『ブエル』それは、誰も縁を知る者が無い亜人である。噂では数百年を生きると言われ、全知に通じ未来さえも見通す力もあると言う。近頃では、魔術も習得したらしく、益々化け物に近づいたらしい。生まれ付いてから老婆であったとも言う者がいるのも事実であるし、ここ「ディエル」に住む老人達ですら『ブエル』が今以上に若かった頃が記憶にはないのだ。
「ブエル、良く来てくれた」
出迎えた虎頭がブエルに手を貸して言った。
「我々はある決断を持って、おまえを待っていたのだ」
そう言う虎頭を一瞥してブエルは、よっこいしょとばかりに立ち上がる。しかし、腰が曲がっているせいもあってたいした高さになりはしなかった。
「なんだい、ここで『人間』でも育てる決心でもしたかい? ヒッヒ、足りない頭で考えるのはよしときな。知恵熱が出るよ」
喉の奥でコケコケと笑うような嗄れ声が、虎頭を皮肉った。
「真面目に聞いていただきたい。おまえは、流浪の身。あらゆる荒野、山林、大海すら見知っていよう。その自由の身であるおまえにしか出来ないのだ」
鶏頭のブエルは、虎頭の言葉など聞いていないかのように、牛車に繋がれた水牛達の手綱を解くと、水辺に向けて尻を叩いた。我先にと水牛が走り去るのを眼を細めて眺めた後、牛車に戻って扉を開く。
「ブエル…話を聞いてくれ。このままでは亜人も人間も、いずれ絶える。そうしないためにも、おまえの力が…」
「うるさい男だのう。話は聞いてやる。その前に、あたしにもすることがあるんだよ。ちょっと黙っていておくれ。マギは、おるかい?」
牛車の中をごそごそと探り、ブエルはマギを呼んだ。マギとは、昨夜の男達の話に出た、子供を失くし嘆き悲しんだ母親の名ではなかったろうか。
「…ブエル様…マギにございます。昨年はお世話になりました」
おずおずと人垣の後ろから声がした。すっと割れる人垣をマギは進み出る。痩せぎすの白山羊の女は、伏せ目がちにお辞儀をする。
「おお、マギ。どうだい、その後は? 見た限りじゃ元気そうじゃないか」
「ブエル様のお薬のお蔭で、あれ以来大分落ち着きました。よく眠れますし、あの子の夢も観る回数が減りました」
「ああ、カノコ草が効いたんだね。それはよかった。…しかし…なんだね…どこにいった…もんだかねぇ」
見た限りと言いながらブエルは一度もマギを振り返ることは無かった。先刻からずっと牛車の中に上半身を突っ込んだまま、どたばたと何かを探しているようだった。
「あおん、おった!」
急に奇声が発せられ、取り巻く人々がびくっと蠢いた。
「マギ、今のおまえさんなら預けられよう」
そう言ってブエルが右手に掴み上げたものを見て、一斉にどよめきが上がった。その声に反応したものか、ブエルの右手のものが泣き出した。
「…メェ…メェ…」
ブエルが右手にかざしたものは、白山羊の顔をした子供であった。ただ、抱くのではなく首の後ろを掴み上げる格好なので、誰もが悲壮に思ったのだ。首を掴まれた子も苦しいのであろう。泣き声もおぼつかないほどだ。
「この子はね、去年の秋に、ここから山脈を越えた、人間の街の近くで拾ったんさね。マギに良く似た白山羊さね。育ててみるかい? ヒッヒ」
ブエルが言い終わらぬうちにマギは子供に飛びついていた。掻き抱くように、愛しむように子供を抱えてひざまずくマギを、誰もが慈愛の眼で見つめた。先だって子供を失くした母親達ですら、自分のことのように眼を細める様は、この世界で命の育みを自由に出来ない性ゆえか…。
「さぁ、あたしの用事は済んじまったみたいだから、あんたたちの話でも聞いたげようかね」
ディエルの街の中央付近に広場のように開けた場所がある。その場に丸テーブルが置かれ、ブエルと虎頭と数人の男がそれに付いた。後の人々は、マギに付いて行った者もいたが、大半は今も回りで人垣を作ったいる。
器用に水牛の角で作られた杯にくちばしを付けて、中身の液体をブエルは飲みながら、一同をぐるりと見た。杯の中身は果実を絞ったもののようだ。
「…これだけ神妙なのは、かなりの覚悟なんだろうねぇ」
呆れたような口ぶりのブエルに、虎頭は大きく頷いてみせた。
「先日生まれた子も…流された…。このままでは、いずれこの街も絶える」
「それが、どうかしたかい? ヒッヒ」
合いの手のようにブエルは茶化す。
「真面目に聞いてくれ! ブエル…おまえは世界を知っている。人間の街も、亜人の街も…」
「もったいつけるねぇ。はっきりしないのは嫌いだよ。言ってみな」
虎頭は、一度周りを見渡して、大きく息を吐いて言葉を継いだ。
「この街で亜人の子が生まれる確率は無いに等しい。このまま天文学的な確率に頼ってみても未来は無い。しかし、人間の街では人間の子が生まれる確率に等しいくらいで亜人が生まれている」
「…だから?」
「俺達は、ここで生まれる子も、人間の街で産まれる亜人も、出来うる限り救いたい。その為に、おまえの力を貸して欲しい」
「具体的に言いな。あたしに何をしろと?」
俯き加減のブエルの視線が虎頭を射た。薄ら寒くなるような気がして虎頭は杯を煽った。
「先刻、マギに子供を授けてくれた。それと変わらない。ただ、ここで生まれた人間の子を人間の街まで連れて行って、代わりに亜人の子を連れて来てくれればいいのだ。難しいことではあるまい。お礼もその都度する」
まくし立てるように言い放って、虎頭はブエルの答えを待った。
「ヒッヒ、そんな話かい。くだらんねぇ」
「く・くだらんとは何事だ! 子供を失う母親やこの街を救うのだぞ! 延いてはこの世界すら救えるかもしれん! 生まれる命を無駄に死なせない為にも必要なのだぞ!」
「熱くなっても変わらんよ。ヒッヒ、いいかい若造、この世界を救うなんて大仰なことを考えるんじゃないよ。世界も輪廻も廻るんさね。その根源なんてものは知る必要はないんだよ」
「どういう意味だね?」
ブエルのくちばしから溜め息がこぼれた。呆れているようにも見える。
「この世界は、今や無秩序さね。生きるも死ぬも運が左右する。生まれたのが亜人なら人間とは生きられず、人間なら亜人とは暮らせない。運良く生き延びても、その子もその運命に左右されるんさね。連なる鎖のように連綿と続くんだ。おまえさんの思い付きも永遠の連鎖に飲まれ、代替わりをする。そして、その後に何が起こるだろうねぇ」
ブエルのくちばしの端が吊り上る。笑っているのだろうか。
「亜人も人間も世界に溢れる。あたしには見えるよ。各地の小競り合いが大きな火となり、あっという間に世界を包むさね。救った命は、救った以上の命を奪うのさね」
一同は言葉も無かった。提案者の虎頭ですら、顔色を失ってしまった。よかれと思った手段が戦火の火種になるかもしれないのだ。
実際、今の世界でも何処かで亜人と人間の小さな諍いは続いていた。大きな戦火に発展しないのは、点在する絶対数が少ないためだ。先の理由で人口そのものが増えることを拒んでいる以上、爆発的にどちらかが優位な立場になることが難しい。大きな戦争にでもなれば、どちらかが生き残る可能性も少ないというわけだ。
虎頭の提案は理想的ではあるが、結果的に人口密度を増やす。そうなれば、領地の奪い合いは各地で起こり、やがて近隣を巻き込み徒党を組む。結果は明らかだろう。
失意の空気が流れた。やはり、子供を救うことが出来ない。
「ヒッヒ、そう悲観するんじゃないよ。誰もやらないとは言ってないだろう」
「な・なんだと?」
「急場を凌ぐぐらいなら、かまわんさね。お礼もいらないよ」
虎頭が身を乗り出して丸テーブルが揺れた。
「ただでやってくれると言うのか?」
ブエルのくちばしの両側が先程とは比べ物にならないほどに吊り上った。見るものが見れば邪悪といえるかもしれない。だが、だれもその表情ではなく、ブエルの言葉に歓喜し、気づく者などなかった。
「もちろんたださね。でも、ひとつ頼まれ事をやってほしいだけさね」
つづく