第十話
魔人の山(5)
グリモア卿が牛車を降りたのは、まだ街まで数キロほどの距離があった。恐らく街からこちらを見ても、微かな輪郭が見える程度で、牛車の姿までは確認できまい。
今の現状が、人間にとっても亜人にとっても、好ましくない状況に陥っていることは、少なからず知らされているはずである。昨夜の現象に端を発し、人間側が好機として亜人討伐に踏み切ったことは、夜明けと共に各地に飛んだはずだからだ。
たっぷり一時間を要して、グリモア卿はイルムの街の入り口に差し掛かった。
頭からマントを被り、長剣は目立つので、短剣より少し長い、予備の剣を背中に当てているが、柄の部分が肩越しに出ないので丸腰のような装いだ。
イルムの街は、閑散としていた。
普段であれば、カルンテスの街に入る流浪の民や、亜人や人間の差別無く商売をする行商などで、比較的賑わっているはずの街並みは、石造りの家々のドアは閉ざされ、道幅狭しと広げられたテントの露天すら見えない。
グリモア卿は、大通りといえる広い道を歩き、左右の家を探ってみた。
確かに人の気配がある。閉じられた窓が薄く開き、砂塵舞う道を歩くグリモア卿を覗き見ているようではあるものの、そこから顔を出すような者は一切無かった。薄く開いた窓の前をグリモア卿が歩き過ぎるまで、その監視は続けられ、見えなくなると音も無く閉ざされるのだった。
住民達の中に、言いようの無い不安と恐怖かあることは、間違いないだろう。
大通りをしばらく進むと噴水を湛えた池かある。昔に聞いた話では、この噴水は地下の水脈の出口であって、人の手を介して作られた物ではなく、自然と吹き上げているとのことだった。その水を大きな御椀型の器で受け、そこから太いパイプを繋げ、各家庭の中に引かれた水路へと流れ込んでいる。そのために、このイルムの街にには井戸は存在しない。余った水も、水路を巡り、最終的に元の池に戻り、そこに浸透させ地中へと還ることになっている。
そんなことを思い出して、グリモア卿は薄く笑った。大きな角の鹿頭をした長老が自慢げに胸を張っていたのが懐かしい。
「そこのお前! 止まれ!」
噴水の手前で、頭上から怒声が響いた。
見上げてみれば、噴水脇の大きな家の屋上から弓を番えた猫頭の若者が、グリモア卿に狙いを定めていた。左右を見渡してみれば、前後左右も同じように弓を番えた若者が陣取っている。
恐らくは、この噴水の番人達であろう。
この街、イルムは、この噴水で生活用水を賄っている。ここに毒のひとつでも放り込まれれば、程無くしてイルムは全滅するのだ。そのために、番人を置くのは、至極当然といえよう。
「マントを取れ! 刃向かうと容赦はしない!」
猫頭が怒鳴った。身体に似合わない大きな弓を引いてるためか、その右手は震えている。今にも放たれてしまいそうな矢を、身体全体で抑えているようで、滑稽な格好にも見える。
「チシャ。わたしだ」
言ってグリモア卿は、頭から覆っていたマントを剥いだ。
「グリモア卿? いや、グリモア卿といえど許されません。何しにいらした?」
僅かに引いた弓の力を抜いた猫頭は、グリモア卿を認めたものの、狙いは外さずにいた。
「やはり、既に進軍は伝えられていたか」
ふうっと吐く溜め息に、グリモア卿自身苦笑した。当然といえば当然のことだろう。この街までなら、早駆けの馬でも十分にグリモア卿達より速く伝えられる。
「チシャ。わたしは、戦いに来たのではない。グリフダールに会いに来たのだ。取り次いではもらえないか? 出来れば、街の主要なメンバーもそろえて欲しい」
「……武器は?」
「護身用に予備の剣だけだ。外そうか?」
「……いえ。そのまま、そこでお待ち願えますか? 繋いで来ます」
「頼む」
チシャが消えるのと同時に、グリモア卿はマントを叩いて埃を落とし、今度は顔を隠さずに肩で覆った。両手は軽く開いて左右に広げている。いまだに狙いを外さない数人の番人に敬意を払っての事だったが、狙いを付けている当人達には、理解されたかどうか。
「数日を置かずして、亜人の軍も動くであろう。集結はまだだろうが、それも時間のもんであろう。人間の軍が大きく動けば、それに呼応して亜人の軍も整えるであろうからな」
グリモア卿が呼び込まれたのは、噴水横の大きな家であった。家という呼び方が正しいかどうか。入ってすぐは大きな部屋になってはいるが、その奥やそこから繋がる階段などを見ると、生活臭がまったく無い。噴水の見張り台といえるかも知れないが、それだけとは思えない。何かの倉庫とも感じられる。
グリモア卿を迎えたのは、黄色い嘴をもった大鷲頭の男であった。しかし、他の亜人とは明らかに違うものがこの男にはある。背中に大きな翼が織り畳まさっている。
獣人だ。
普通の亜人は、頭や手足が動物のそれに類似していることはある。しかし、魚のエラや鳥の羽、獣の牙や爪を持つ者はほとんど存在しない。そのなかに稀にそれらを兼ね備えて生まれて来る者がいる。エラを持てば水中を泳ぎ、羽を持てば空を飛ぶ。そういった者達を亜人と区別するために『獣人』と呼ぶが、人間達の間では、亜人は獣人を含めて呼称するもので、特別区別はされていないのだった。
グリモア卿を迎えた大鷲頭もそのひとり。イルムの街の軍事顧問グリフダールであった。
「インジヒ卿のことだ。手近な街を餌食にしてデアブロに向かうだろう。わたしでもそうする。ゴーラの街での殲滅が恐怖になっている南では、軍勢が動いただけで戦意を失うだろうからな」
グリモア卿は、椅子も無い部屋で、マントと背負っていた剣を外して壁に立てかけて、グリフダールに向き直った。
「……いいのか? 軍勢の進路を明かせば、こちらに有利になるやも知れんぞ」
「構わん。どうせ、デアブロに向かうにはイアナ渓谷に集結せなばならん。そうなれば、誰の眼にも明らかだ」
大きく息を吐いたのはグリフダールであった。呆れたというより、緊張をほぐすような意味合いであったようだ。
「それで、お前は何でここに来た? 戦力でいえば、お前なら騎馬隊一隊にも匹敵しよう。それが、戦線を離れ、ここにいる必要性が分からんが?」
「わたしは。今回の進軍から外された。王の信頼を失ったのも確かだが、この状況を何とか打開したい」
「それは、亜人との戦争を止めるってことか?」
そこまでを話した時に、裏手の扉が開いて数人の亜人が入って来た。先頭は大きな角の鹿頭。この街の長老である。その後ろに狼頭、豚頭、象頭が続き、最後が猫頭のチシャだった。
「お久しぶりです、長老。こんな再会になって残念ですが」
「よい。それより、聞き逃せんことを話しておったようじゃな。続けよ」
チシャが持って来た椅子に長老は腰掛けて、グリモア卿に手を振った。
「恐らくは、どんな手段を使っても、この戦争を止めることは無理だろうと思う。王は、この機会を好機と見ている。大義名分を背負ったと思っているであろう。それが、兵士や住民達にまで波及している。これを止めることは、もはや不可能だ」
「ならば、何故、ここにいる? 俺達に逃げ出せと進言しに来たのか?」
「……逃げ出せとは言わん。ある程度の膠着状態を作ってしまいたい。そのためには、ある程度の街を捨ててもらわねばならん」
グリフダールは返事をしなかった。大きな嘴に右手を当てて考え込んだ。その他の者達も口を開こうとはしなかった。
「ここから北に向かい、全ての村、街に呼びかけ、大きく迂回しながら東の街ザラクに城塞を築く。ザラクは、後ろを断崖と山に囲まれた街だ。左右には断崖に落ち込む川があり、街としてもかなり大きい。そこに集結し城塞を築き、篭城してもらえると助かる」
「馬鹿なことを。全ての亜人を集めるとしたら、いくらザラクであろうと溢れるわ。それに、大移動を始めれば、いかなデアブロに向かった軍勢であろうと気付かぬわけはない。取って返し、無防備な移動を狙われたらひとたまりもなかろう」
「そこでだ。デアブロには後退してもらい、西のゴルクアルに移る。軍勢が追従したのを見計らって、北に回りこむ。そこから軍を引き付けて、北東に移動。ズドクの城塞に逃げ込んでもらいたい。そうなれば、ザラクとズドクの位置関係で、軍を半分に裂く余裕が無くなる。どちらかを攻めることになれば、背中から襲われることになる。自然と膠着すると予想できるんだが」
「なるほど戦略家だな。しかし、そううまくいくか? 軍勢が二手に分かれない保証はなかろう。デアブロとて持ちこたえられず、ゴクアルに辿り着けない可能性もある」
「デアブロさえ動けば、自然と事は成る。インジヒ卿は馬鹿ではないが、初心を覆すほどの利巧でもない。とにかく、今は犠牲者を減らし、時間を稼ぎたい。今のまま、各地に分散した亜人の軍では、遠からず軍門に下る」
グリフダールは、大きく頭を振って長老を見た。
「良いだろう」
そう言った長老は、既に立ち上がっていた。二言三言、チシャの耳元で何事か囁くと、チシャは駆け出して部屋を出て行った。
「グリモア卿の提案に乗ろうではないか。しかしな、街を捨てられん者もおる。それだけは理解して欲しい。準備に一日。明日の夕刻を出発の刻限とするが、時間を稼いで何とする? それで、この騒動が収まるのかの?」
「その前に。昨夜の出来事。亜人の者が何かしたということは、ありますまいな?」
「無い。といことは、人間の仕業でも無いということかな?」
「原因は定かではありません。辺境で何かが行われたという可能性も否めない。ただ、それを確かめることで、この戦争を回避できる可能性もあると思えるんです。長老。すみませんが、わたしに託してはもらえないでしょうか?」
じっと長老を見つめるグリモア卿に、長老はニコニコと手を振った。
「よいと言っておろう。既に他の街とデアブロには使者を送った。明後日には、動き出せよう」
「すみません。わたしも急ぎ原因を追求いたします」
言うが早いか、グリモア卿は剣とマントを纏うと、一礼のもと部屋を後にした。
喧騒としだすイルムの街を出たのは、既に日も傾いた夕刻の時間であった。
つづく