第7話・雨の夜
雨は、午後から降り続いていた。
強くはないけれど、止む気配もない。
店の前のアスファルトが、街灯をぼんやり映している。
暖簾をくぐる客は、いつもより少ない。
雨は、夕方になっても止まなかった。
軒先の提灯が濡れて重たそうに揺れる。
「今夜は、静かだな」
俺は、暖簾を見上げて言う。
「雨っすからねー」
コウは俺の言葉に雑に返事を返すと、手元にある皿をしまう。
カウンターの向こうでは、モモがグラスを並べ、
奥のキッチンでは、マナが黙って包丁を動かす。
マナは、コウの幼馴染で、
医療系の専門に通う2年生だ。利発で、人懐こい笑顔だが、たまに毒を吐く。
ヤヨイはいない。
昨夜から熱が下がらず、今日は休ませた。
それを口に出すヤツはいないが、
店の空気は、その不在をちゃんと伝えていた。
焼き台の前で、俺は黙って手を動かす。
パントリーに、ヒロミとモモ。
キッチンに、マナ。刺し場に、コウ。
「雨の日ってさー」
モモが、グラスを拭きながら話しだす。
「なんか、こう、気持ちも湿るよね」
「分かる。客足も、心なしか重たい」
ヒロミが笑って返すが、いつもより、その笑顔は短い。
「で、彼氏なんですけどぉ、」
モモは、声を少し落とした。
「あー……うん」
ヒロミが、相槌を打つ。
「優しいんですよ?優しいんだけどさ...…」
「うん...…」
「...…聞いてる?ヒロミさん」
マナが、包丁を置かずに言う。
「聞いてるフリしてる人って、いるよねー」
「ちょ、マナ、もう」
モモが苦笑する。
それでも懲りずにヒロミに向き直る。
「で、ラインしても、理由もなく、何日もスルーなんですよー
気づかなかった、とか言ってさー」
モモの声が少し高くなる。
「ヒドイと思わないすか?
約束しても、ドタキャン多いし」
マナが笑いながら、茶々を入れる。
「モモ、そいつ、ダメンズだね。考えた方がいいんじゃない」
「えー、マナ、やっぱし?えー、ヒロミさんどう思います?」
「お前ら、少しうるさい」
俺は、声を飛ばす。
コウは、その声に、何かピリピリしてんな、と感じた。
「あ、すみません」
モモがすぐに切り替える。ヒロミも、はい、と短く返した。
空気が、すっと締まる。——同時に、少しだけ冷える。
——ああ。
ヤヨイさんなら、どう言うのかな。
コウは、そう思っている自分に気づき、小さく首を振った。
ホールは回る。オーダーも出る。
誰もミスしていない。
それなのに、俺の中に、何かが少しずつ、引っかかる。
「コウ、次、揚げ物先な」
「はい」
「マナ、もう揚げ物出せ」
「出します」
「モモ、ドリンク」
「はいはーい」
「ヒロミ、新規」
「はい、――いらっしゃいませ、何名様ですか?」
俺は、店内の空気に集中した。
全部、見逃さないように。
焼き台から動かず、ホールの様子も、キッチンの流れも、視線だけ走らせ、指示を出す。
今、ザキが来てくれたら、気晴らしになったのに。
アイツは、毎日いるくせに、こういう時に限って出張なんて、
なんてタイミングの悪い奴なんだ。
いつもと変わらないような顔をして、店の空気が流れていく。
少し店の空気に落ち着きが出た頃、
「……ヒロミさん」
モモが、急に声を落とした。
「なに?」
「彼氏...…やっぱ変かな」
ヒロミは、手を止めずに聞く。
「連絡、来ない、とかさー」
「うん...…ちょっと怪しいよね」
モモは、ため息をつき、チラッとカズネを見る。......変化はない。
ヒロミが、訪ねる。
「いつも、2日とか空くの?」
「うーん、大体そんくらい?」
「やってるね」
即答だった。マナがくすっと笑う。
「ヒロミさん、容赦ない」
「だって、待たせる意味ないし」
「でもさあ、」
モモは言いかけて、俺の顔を見る。
「……何だ」
俺は串を返しながら言う。
「いや、説教?名言?そろそろかなって」
「何もねえよ。...…ただ」
ちょっと置いて、曖昧に続ける。
「“普通かどうか”で考え始めると、だいたいしんどくなる」
「来た、いつもの教え」
マナが小さく言う。俺は、聞こえないふりで続ける。
「相手がどうか、より、自分がどうかだろ」
「...…うーん…」
モモは腑に落ちてない顔で、苦笑する。
コウは、そのやり取りを聞きながら、サラダを盛る。
ヤヨイがいないと、ヒロミが少し前に出る。
それでも、完全には埋まらない場所がある。
「コウ」
俺は、コウの手元を見て、話題を変えるように、言う。
「はい」
「それ、盛りすぎ」
「……すみません」
「覚えろ」
そんなつもりはないのに、......言葉に砂が混じる。
コウは唇を引き結んで、作業に戻る。
ヒロミが、コウの顔を見て、励ますように微笑んだ。
店は穏やかに、忙しくなることもなく、
静かに時間を進めていく。
客は入れ替わり、雨音だけが続いていく。
「美味しかったです。ご馳走様」
帰り際の客が言う。
「良い店ですね。静かで」
俺は、少し間を置いて答えた。
「……今日は、たまたまです」
ヒロミが、俺の言葉を聞いて、
何か言いかけて、それを飲み込んだ。
―――
閉店後、シャッターを下ろす音が、雨に溶ける。
「お疲れさん」
片付けを終え、それぞれ帰り支度を始めた。
「コウ」
俺は、着替えているコウを呼ぶと、少しためらいつつも、言った。
「はい」
「……今日は、悪かったな」
「え」
「——以上」
コウは、少し面食らうと、はい、と小さく返事をした。
コウは、そのいつもより少し疲れた、コンドウの声を聞いて思った。
――コンドウさんっていつも、ひとりで立ってるわけじゃ、無いんだな......。
僕は、その背中を、ちょっと見つめた。
やがて、口々に挨拶をし、みんな、帰っていった。
俺は、数年ぶりのタバコに火をつけるとふーっと煙を吐き出した。
こういう夜は、欲しくなる。
俺の中から、煙と共に砂が流れ出ていく。
足元では、カズネが、真っ直ぐに俺の顔を見上げていた。
店内の灯りを落とすと、残った匂いだけがゆっくり冷えていく。
俺は外に出て傘をさし、少し早足で家路を急ぐ。
———
部屋の灯りは付いていた。
「ただいま」
「おかえり」
玄関に立ち、声をかけると、寝室から、
ヤヨイの声が返ってくる。
俺は、寝室を覗いた。
「お疲れさま」
「何だ、起きてたのか」
「うん。今日寝すぎた」
俺は上着を脱ぎ、キッチンに行くと、
湯を沸かした。その間、何も話さない。
「……今日、どうだった?」
しばらくしてヤヨイが寝室から聞いてくる。
俺は答える。
「雨だった」
「知ってる」
「...…静かだった」
「ふうん」
俺は、ふたつの湯呑みにお茶を注ぎ、
寝室に入りひとつを枕元に置く。
ヤヨイは、ありがと、と小声で言うと、
体をベッドから起こした。俺は、ベッドに腰を下ろす。
「...…いやちょっと、うるさかったかもしれん」
「うるさかった“かも”?」
「...…悪い癖が、出た」
ヤヨイは、小さく笑った。
「ブレーキ役、いないと駄目ね」
「自覚はある」
ヤヨイは、小さく笑いながら、湯呑みを両手で包む。
「ねえ」
「何だ」
「みんな、ちゃんと出来てた?」
「......ああ」
「じゃあ、いいじゃん」
「...…そうだな」
ヤヨイは、湯呑みをよこすと、
ベッドに横になった。
薄暗い寝室で、俺を見上げ、言う。
「明日は、行くからね」
「無理するな」
「するほど元気じゃない」
俺は、少しだけ息を吐いた。
「...…もう寝ろ」
「うん、...…おやすみ」
「おやすみ」
俺は、ふたつの湯飲みを手に、寝室から出た。
――次の日の昼下がり。
雨は上がり、青空が見える。
俺達は、いつも通り、店に向かい、並んで歩く。
ヤヨイは、店の冷蔵庫を覗き、豆腐を取り出した。
まだ少し鼻声だったが、顔色はいい。
「本当に大丈夫か」
「3回目」
「念のためだ」
「しつこいよ」
ミチコが、ネギを刻みながら笑う。
「仲いいねえ」
「心配性なだけよ」
「はは、そうとも言う」
軽口の聴こえる店の空気は、昨日より少し軽い。
「次は?」
ヤヨイが、笑顔で聞いてきた。
俺は、少し安心して答える。
「もつ煮だな」
「はいはい」
ヤヨイは、ふうっと息を吐くと、大きな鍋を、ガス台に乗せた。
ミチコが、まな板から顔を上げ、にっこりと笑う。
「やっぱり、ヤヨイがいないとね。...…ねえ、店長」
俺は、聞こえないふりをして、炭を熾し始めた。
「いらっしゃいましたー」
ヒロミがシャッターを開け、賑やかに入ってきた。
ヒロミとミチコが、笑顔を返す。
「おはようヒロミちゃん」
「おはよう今日も元気ね」
「回復した?」
「もう、バッチリ」
「良かった」
少し後に、コウが来た。
「おはようございます」
「おはよう、コウ」
ヤヨイの声を聞いた瞬間、コウの背中の力が抜ける。
「……助かった」
「なにそれ」
「いえ、何でもありません」
コウは、ちらっと俺の顔を見ると、ロッカーへ向かう。
引き戸が開いて、マナが入ってくる。
ヤヨイが、振り向いた。
「おはよう、マナ」
「おはようございます。ヤヨイさん、もう大丈夫なんですか?」
「うん、ありがとう」
声が重なる。
昨日と同じで、でも、どこか少し、温かい。
俺は、店内を見渡して、何も言わず、焼き台に炭を移す。
ヤヨイは、その背中をちらっと見て、暖簾を出した。
提灯に明かりが灯る。
カズネが、いつもの場所で丸くなる。
店は、また呼吸を始める。
いつも通りで、でも、少しだけ、明るい。
つづく




