第6話・コウ
ヒロミさんが帰って、店の空気が、ほんの少しだけ変わった。
暖簾が揺れて、引き戸が開く。
いらっしゃいませー、どうぞー
声が飛び交う。
いつの間にか、満席に近い店内。
僕は、ヒロミさーん、何で帰っちゃったんだよー、
と思いながら、どんどん入ってくるオーダーと格闘する。
「コウ、それ2番、先」
「はい」
焼き台の前でいつも、コンドウさんの声は低くて短い。
自分のオーダーもたくさんあるのに、僕の手元も、しっかり見ている。
今も、こんなに忙しいのに、たまにザキさんと軽口を交わしながら、
手際よくオーダーをさばいている。
...…超人か、この人は。
スゲーよな、僕には絶対無理だ。
刺し盛りに集中しすぎて、周りが見えなくなる。
揚げ物の返しが、ほんの一瞬遅れた。
「コウ」
呼ばれて、背中が固まる。
「油、見ろ。音が違う」
「...…すみません」
言い方はきつくない。——でも、逃げ道もない。
「今回はいい。次からな」
それだけ。
それだけなのに、胸の奥に、ちくっとしたものが残る。
ヤヨイさんが、間に入る。
「コウ、私やるよ。ドリンクお願い」
「はい」
救われた、と思った瞬間、情けなさも一緒に来た。
「大丈夫っすかー」
モモが、にやっと笑って言う。
「真面目だねー」
「うるさい」
「さ、手、動かしていこうか、コウパイセン。......顔こわばってるし」
「...…」
モモは、そう言い捨てると、出来上がったドリンクを手に、
お待たせしましたー、とホールへと出ていく。
その背中を見送っていると、
ザキが、カウンターでニヤニヤしながら僕の顔を見る。
「コウ、大丈夫だ。若いときはな、怒られてるうちが花なんだぞ」
「...…花、咲いてませんけど」
「それは...…枯れてから分かるもんだ」
何だよそれ、おっさん、と、心の中でザキさんに毒つく。
ふと、横にいるふたりを見た。
コンドウさんは、
お前の気持ちとか気にしねえ、と言わんばかりにてきぱきとオーダーを焼く。
ヤヨイさんは、
その横で、刺し盛りをきちっと作りつつ、
さりげなく皿を出し、コンドウさんのサポートをしている。
...…このふたり...…スゲー。
何も話してないのに、動きに無駄が無え...…。
モモの、いらっしゃいませー、と言う声が響き、
また新規の客が入ってきた。
僕は、気合を入れなおすと、いらっしゃいませー、と
威勢のいい声を上げた。
―――
バタバタと時間が過ぎ、店の音も静かになった。
僕は、あの後も何度かコンドウさんに怒られた。
シャッターを半分下ろして、片付けが始まる。
油を落とす音、グラスを洗う水音。
人のいない店内に、いつもの音が漂う。
コンドウさんとヤヨイさんは、
たまに目配せしながら、必要な言葉だけを交わす。
「明日、仕込み少し多めな」
「了解」
それくらいしか話さない。
なのに、流れが途切れない。
僕とモモは、並んでグラスを拭きながら、
結構身長差のある、ふたりの背中を見ていた。
「ねえ、コウ」
モモが、声を潜める。
「コンドウさんと、ヤヨイさんって、...…夫婦だよね?」
「...…一緒に住んでるけど、結婚してない、って聞いた」
「へえ、そうなんだ。長年連れ添ってる夫婦かと思ってた」
モモは、ちらっとカズネを見て、少し考えてから言う。
「...…この店、飲食店なのに猫いるし、ふたりは夫婦じゃないし、謎多すぎ。
でも、居心地良いよね」
「そうだな」
足元で、カズネが丸くなった。
「でもさ」
モモが続ける。
「あのふたり、...…ヤバくない?」
「...…何となく、それわかる」
モモは、じっとふたりを見て、ため息交じりに言った。
「良いなー、ワタシもあんな相手、欲しいなー」
「彼氏いるじゃん、モモ」
「ムリムリ、ただの馬鹿だもん」
モモは、苦笑する。
僕は、ぼんやりと考える。
あのふたりの間に流れる
安心感、と言うか...…信頼、というか...…
あの空気は、どうして生まれるんだろう。
―――
「お疲れ様でした、お先に失礼します」
「お疲れさん」
退勤時間になり、
僕はモモと一緒に、ふたりより先に店を出た。
駅でモモとバイバイして、電車のドアに映る、
自分の顔をボーッと眺め、思う。
何なんだ、あのふたりは...…。
――翌日。今日、明日バイトは休みだ。
授業中も、ぼんやりしていた。ノートを開いて、閉じて、
何となく、昨日の続きを考える。
「あっ」
思い出した。
サロンとTシャツ、――店に置きっぱなしだ。
授業が終わり、大学を出て、忘れ物を取りに「かずね」に向かう。
「あれ、あの人」
通りがかったオフィスビルから、店で見たことある顔を見つけて、
立ち止まる。
確か...…イズミさん、だ。
この出版社なのか..…有名だよな。こんな大手の雑誌の連載、なんて、
僕ならビビッて、ぜってー続けらんないな...…。
大人って、スゲーな。
―――
そっと引き戸を開けて、店に顔を出す。
開店したばかりの店内には、いつものように、
コンドウさんとヤヨイさんとヒロミさんがいる。
それといつもの場所に、カズネ。
「あら、コウちゃん」
カウンターには、久し振りに見るミチコさんの顔があった。
「どうした、休みだろ?」
コンドウさんが、言った。
ヤヨイさんが、聞く。
「忘れ物?」
「はい。洗濯物、取りに来ました」
「ちょうど良かった。
コウちゃん、一緒に飲もうよ」
ミチコさんがカウンターから呼ぶ
「良いんすか?」
「仕込みで入ってたんだけど、帰っても暇だし、ちょっと飲んでこうと思ってたのよ」
「そうすか、じゃ、少しだけ」
僕は、ちらっとコンドウさんの顔を伺うと、ロッカーから忘れ物を取り出し、
ミチコさんの隣に腰を下ろした。
「ヒロミさん、ヒラリちゃん具合どうすか?」
「ありがと。もう元気になったよ」
ヒロミさんからグラスを受け取ると、ミチコさんと乾杯した。
僕は、ミチコさんの話を聞き流しつつ、何となく
並んで立って、会話のない、コンドウさんとヤヨイさんを盗み見る。
「やってる?」
ザキさんがまた来た。――毎日毎日、暇なのか、このおっさん。
「お、コウ。今日は休みか」
ヒロミちゃん、ビールな、そう言ってザキさんは、僕の隣の席に座る。
「昨日バタバタしてたな」
ザキさんが、グラスを合わせて、言う
「はい。ちょっと怒られました」
ミチコさんが、笑う。
「店長、営業中、愛想無いからね」
「……ですよね」
「あの人、むかし刑事だったから、普通の人より、視野が広いのよ。
見てるんだけど、それを伝えんのが下手なのよね」
「え、コンドウさん、元刑事なんすか?」
「あ、知らなかった?ヤヨイちゃんとも、その頃出会ったのよ」
そうだったのか......。
どうりで、妙な貫禄があると思ってた。
「私は先代のころから居たから、色々仕込み方とかふたりに教えてね、
その時、ヤヨイちゃんとも色々話したのよ」
「そうなんすか……」
ザキが混ざってくる。
「俺も先代から通ってっけど、あいつらとはすぐ仲良くなったな」
「愛想ないけど、人当たりはいいもんね」
「元刑事だから、コミュ力高いよな」
「それでね...…」
その時、コンドウさんが静かに入ってくる。
「サッちゃん、そこまでで」
少し照れたような、コンドウさんの顔。
ヤヨイさんは、そんな顔を見て、少し笑っている。
「もう、過ぎた話だから。——勘弁してくれ」
「ふふ、そうね。......じゃ、この続きは、内緒で」
...…何だよ、聞きたかったのに。
僕はコンドウさんの顔を不満たらたらで見ると、黙ってグラスを傾けた。
でも、そうか、そういう出会いだったから、
あのふたりには、自然とあんな空気があるのか。
お互いに、信頼と、尊敬と、思いやりが当たり前にある関係。
......スゲー。良いなー。
カウンターの下を見ると、カズネがいつもの場所で、店内を眺めていた。
「ねえ、コウちゃん」
ミチコさんは、少しだけ小声になる。
「あの人、ちゃんと見てるわよ。言わないだけで」
ザキが、頷く。
「ヤヨイちゃんもな。裏で全部拾ってる」
僕は、思い出す。——昨日の、短いやり取り。
「バディ、ってやつだな」
ザキが言う。
「言葉少なくて、信頼多め」
「...…カッコいいすね、あのふたり」
「だな。人との関係って、ああいうの理想だよな。羨ましい話だよ」
コンドウさんは、焼き台の前。ヤヨイさんは、そのとなりの刺し場。
会話は少ない。でも、——通じてる。
僕は、グラスを置いた。
「……ここで働けて、良かったです」
ミチコさんが、微笑む。
「ちゃんと働きなさい。ここで見つかるもの、きっとたくさんあるわよ」
グラスが空いた。
僕は、カウンターから立ち上がる。
「ごちそうさまでした。お先に失礼します。明日も、学校なんで」
「そう、気をつけてね」
「またな」
「ヒロミさんも、また」
「またねー」
僕は、焼き台の前にいるコンドウさんに声をかける。
「お疲れ様です。失礼します」
「おう、お疲れさん」
「コウ、これ、持ってって」
ヤヨイさんが、キッチンから出てきて、
僕にビニール袋を差し出す。
「賄いの余り、良かったら食べて」
「良いんすか、いただきます。...…それじゃ」
手を振って、店を出る。
夜風が、少し冷たい。
――ヤヨイさん、
腹具合まで気にしてくれたんだ。あのふたり、やっぱスゲーな。
僕も、...…いつかあんな大人になれるかな。
そう思いながら、僕は歩き出した。
つづく。




