第5話・ヒロミ
――開店して1時間ほど経ったころ
まだ客はまばらで、テーブル席に仕事帰りらしい2人組がいるだけ。
揚げ物の音も控えめで、店はまだ静かだった。
ふと、レジの横でスマホを気にするヒロミの様子に違和感を感じた。
俺は、ヤヨイの目を見て、もう一度、ヒロミを見る。
「ヒロミちゃん、大丈夫?なんかあった?」
ヤヨイが声をかけると、ヒロミは慌ててスマホを伏せた。
「あ、すみません。ちょっと」
「ヒラリちゃん?」
名前を出されて、ヒロミは小さくうなずく。
「ちょっと元気なくて。熱はなかったんですけど、咳が少し」
「それは気になるね」
「はい。でも、ヒラリ、保育園は行くって言うから……」
言い訳のように続けてから、へへ、と笑った。
ヒロミは、普段はアホみたいに明るくてやかましいが、たまにこうして陰るクセがある。
理由は知らないが、何と言うか、息を吐くのが下手だ。
俺は、仕込みの手を止め、ヒロミに言う。
「心配なら、上がるか?今日はモモ来るし、別に良いぞ」
「ありがとうございます。でも今日は、...…居ます」
そう言って笑う顔は、いつもより、少し硬い。
「それに何かあったら、保育園から連絡くるし、
ミチコさんにも話してあるので」
仕込みパートのミチコは、ヒロミの家の近所に一人で暮らしている。
たまにしか帰ってこない息子より、ヒロミとヒラリのことを
可愛がってるのだ。
「無理すんな。何かあったら、すぐ言えよ」
「はい」
俺は、仕込みに戻る。
ヤヨイはヒロミの背中に手を添え、微笑んだ。
――ヒロミ、あんたさ、演じるクセがあるわね。
ヒロミの頭の中に、ミチコの言葉がよぎる。
少し呆れたような、でも突き放さない声。
あの頃から、何度もかけられた言葉だ。
(……演じてる、か)
私は、カウンターを拭きながら、心の中で繰り返す。
そうかもしれない。演じていないと、
崩れてそうな時期が、――確かにあった。
ヒラリを身籠ったとき、全ての音は、消えた。
男には、家庭があった。
それを知らなかったわけじゃない。
でも、どこかで、自分は特別だと信じていた。
馬鹿だったな、と今なら思う。
でも、当時の私は、周りの声なんて聴こえないくらい、
恋、をしていた。
その恋が、私の全てだった。
妊娠した、とは言えない。
...…怖い。壊れる。消えてしまう。
男の家庭も、恋も、自分自身も。妊娠は嬉しかったのに、
私は、——絶望した。
結局、私は黙って男の前から消えた。
電話番号を変え、ラインを消し、住んでいた部屋を引き払い、
仕事も辞めて、街を出た。
男は、ヒラリの存在を知らない。
私が、今、ここに居ることも。
私は、
初めての子供がおなかに来た時、自分から進んで、
――孤独を選んだ。
実家に帰ることは出来なかった。それでも、人の温度を求めて、
賑やかなこの街に来た。
何も考えることもできないまま、ふらふらと夕暮れの街を彷徨っていた時、
シャッターの少し下がった店の前に、猫がいた。
猫は、私を見ると、くるりと背を向け、
少し開いてる引き戸の隙間から店の中に入っていった。
「……やってますか」
気づけば、そう声が出ていた。中で人影が動き、
少しして引き戸が開くと、女性が顔を出した。
「ごめんなさい。まだなんです」
そう言ってから、私の顔を見て、少しだけ間を置く。
「私達、これから賄い食べるんです。...…一緒にどうですか?」
優しい笑顔で、そう言った。
私は、何かを感じる前に返事をしていた。
「......はい」
「どうぞ」
中には、あと二人、
少し年配の女性と、少しこわもてだけど、優しそうな男性がいた。
事情も、聞かれない。
名前も、すぐには聞かれなかった。
ただ笑顔で声をかけてくれ、温かい食事を出してくれた。
雑談が聴こえるカウンターから少し離れたテーブルで
味噌汁をすすって、――私は、泣いた。
足元には、さっきの猫。猫は逃げもせず、すり寄りもせず、
ただ、そこにいてくれた。
私は、次の日も店を訪れた。——そして、その次の日も。
1週間が過ぎた頃、コンドウさんが言った。
「暇なら、この店、手伝うか?」
雇う、という言葉はなかった。
どっちかと言えば、拾われたのかも、しれない。
それで充分だった。
——ここに居ていいよ。
そう言われた気がしたから。
こうして、今、私はここで働いている。
暖簾が割れて、ザキが顔を出した。
「やってる?」
「いらっしゃい」
ヒロミの声は、
いつもより少し高くて、明るかった。
「今日は早いね、ザキさん」
「ヒロミちゃんに、早く会いたくてさ」
「何言ってんのよ」
俺は、ザキに目だけで挨拶をする。
ヤヨイはちらっとヒロミを見てから、声のトーンを一段上げて、
ザキに笑顔を向けた。
「いらっしゃい、ザキさん
生でいい?」
「おう、よろしく」
コウがグラスを出す。
ヒロミを見て、
少しからかうように言う。
「ヒロミさん、今日は静かですね」
「そうかな?」
「やかましさ30パーオフ!」
「なにそれ、ひどっ」
「おはよーござーまーす!」
裏口から、やかましい挨拶が響く。
モモだ。
モモは、私立大2年のバイトで、快活で礼儀正しい、今どきのギャルだ。
その明るさは素直で居るだけで周りの空気が明るくなる。
ヤヨイが笑顔を返す。
「おはよう、モモ」
「あれ?今日、なんか静かすね」
「今のところね」
俺は、ヤヨイの顔を見て、軽くうなずいた。
それを確認すると、ヤヨイは、ヒロミの横に立つ。
「ヒロミちゃん」
「はい?」
「今日は、もう上がろうか」
ヒロミは、一瞬だけ言葉に詰まる。
「……大丈夫ですよ」
「大丈夫“そう”に見えるけど」
ヤヨイは、柔らかく言った。
「今日暇だし、モモ来たし」
ヒロミは、ヤヨイと俺の顔を見ると、小さく息を吐いた。
「じゃ、そうします」
「うん」
「お、上がんの?じゃ、一杯」
ザキが、その会話を聞いて、すっとグラスを持ち上げる。
「え?」
「一杯付き合ってくれよ、たまには良いだろ、ヒロミちゃん」
「......ザキさん、それセクハラ?」
「ちげーし、優しさ」
「雑だなあ」
ザキと軽口をたたきあう。
「じゃ、お言葉に甘えて、一杯だけ」
サロンを外して、隣に座る。
カズネが、足元に来て、くるりと丸くなった。
「あ、カズネ」
「来たな」
少し明るさの戻ったヒロミの顔を見て、俺は、少し笑った。
コウが言う。
「カズネは、疲れたふうの人好きだから」
「もう、ひどいなあ」
ヒロミは、グラスを受け取る。
「……いただきます」
「おう、やってくれ」
一口飲んで、少しだけ肩が下がった。
「ヒロミちゃん」
ザキが聞く。
「うまいか」
「……はい」
「それは良かった」
ザキが、笑ってヒロミのグラスに、自分のグラスを合わせる。
カチン
小さく、グラスが鳴る。
ヒロミは、カウンター越しにぐるりと、周りを見た。
焼き台の前に立つコンドウさん。
横に立つヤヨイさん。
キッチンで話すコウとモモ。
隣に座ってるザキさん。
ちゃんと、私、ここにいる。
にっこりと、笑う。
―――
「ごちそうさまでした、帰ります」
しばらくの後、
そう言うと、空になったグラスを置いて、ヒロミが立ち上がった。
「おう、ありがとな」
「気をつけてね。
ヒラリちゃん、お大事に」
ザキと、ヤヨイが言う。
「お疲れ様です」
「ヒロミさん、またねー」
コウとモモが、笑顔で手を振る。
「お疲れさん、また明日」
俺は、焼き台から目を上げて、言う。
ヒロミは笑った。ちゃんとした、いつもの笑顔で。
「お疲れさまでした。......また、明日!」
ヒロミは、そう言うと、小さく、手を振って外に出ていった。
引き戸が閉まる。
その直後、別の客が入ってくる。
いらっしゃいませー!
声が飛び交う。
夜が、動き出す。
俺は入口を見てから、焼き台の火を見る。
変わらない音。
変わらない流れ。
それでも、
少しずつ積み重なっていくんだ。
――また明日も、ここで。
(つづく)




