カズネが丸くなる場所ー和音が重なる場所・番外編
――街が眠る頃、
ぼくは路地裏の片隅で月を見上げていた。
真っ暗な空に、真ん丸のお月さま。その光は、ひげの先に優しい光の粒を落とす。
生まれてからずっと、居場所のない夜を過ごしてきた。
「もうすぐ、寒くなるな……」
ぼくは、また月を見上げると、その光に冬の気配を感じて、体を震わせた。
ぼくには家というものはない。
気が付いた時には、周りに誰もいなくて、ひとりぼっちだった。
昼間は人のいない所で隠れてやり過ごし、食べ物は時々、路地裏や公園の片隅から見つけた。
安心できる時間はほとんどなかった。
静かだな……。
月は、まるで卵みたいに、つやつやと、暗い空に浮かんでる。
「美味しそうだなあ……」
ぼうっと月を見上げていても、ぼくのおなかは、膨らまない。
もう、何日だろう……。
「おなかすいたな」
そんなことを考えながら、そばの水たまりで水を飲むと、
ぼくは、路地裏で丸くなる。
――なんか、聞こえる。
耳をピクッと立て、鼻をひくつかせる。気配――足音が、近づく。
背後に、いつもと違う温もりを感じた。
「……猫?」
ふいに、低く響く声が、上から降ってきた。なぜか警戒心が少しずつ溶けていく。
ぼくは、逃げもせずに頭を上げて、その優しい音のした方を見る。
月明かりの中に、ひとりの人間。大きくて、背筋が真っ直ぐで
落ち着いた動きと、袖口からほのかに香る煙の匂いに、
自然と身を委ねられた。
顔は見えなかったけど、その声と匂いを、なんでかな……。
ぼくは、信じられたんだ。
男は、しばらくそこに立ち止まり、こっちを見ていた。
やがて近づき、ぼくの前にしゃがむと、手を差し伸べた。
「……おいで」
迷いながらも、その手に鼻を寄せた。
おなかの下に、大きな暖かい手が差し込まれ、
体が軽くなり、世界がふわりと揺れる。
初めて感じた、ぼくじゃない体温。
なんだろう、気持ちいいな……。
――ガタン
ごみ箱のふたが開く音がして、目を開ける。
あの匂いも声も、どこにもなかった。
……夢、か。なーんだ。
ぼくは立ち上がり、大きな欠伸をすると、
食べ物を探しに、商店街の方へ歩き出した。
――これが、初めての夢だった。
それからのぼくは、あの声と匂いを待つようになった。
男のことが気になる。夜が近づくと胸がざわつく。
次に夢で会えるまで、息をひそめて身を潜める日々が
ぼくの日常になった。
そんなある日の、まだ夕方とは呼べない時間、
路地裏の、扉の少し開いた古びた店の中から、あの声がした。
何人かの声に混ざった、優しい響き。ぼくは、足を止め、振り返った。
中には、4人の人間。小さめな男と、女がふたり。
そして夢で見た、大きくて真っ直ぐな男。
――あの匂いだ。
ぼくは、思わず扉の隙間に近づく。
……カタン
小石に躓いて、思いがけず大きな音が鳴った。男が振り向く。
その瞬間、ぼくは反射的に逃げ出した。
――あんなに待ってたじゃないか。
そう思って足を止める。店の引き戸を、振り返る。
その時、ガラガラと引き戸が開き、男が顔を出す。
すぐ後ろから小柄な女が出てきた。男のとなりに立って、何やら話し始める。
ぼくは驚いて、走り出した。
しばらく走った後、ぼくは足を止める。
やっと見つけたのに……。
とぼとぼと、うつむいて歩いていた時、ふと、顔を上げ、振り返った。
「あ……そうか。あそこに行けば、会えるのか」
そう思うと、とても嬉しくなった。
それからぼくは、その店から離れられなくなった。
夜は、店の軒下で眠り、昼間は、裏に回って身を潜めた。
時折物音がして、ぼくは逃げる。
でもすぐに戻ってきて、また隠れる。何日か経ったけど、
店の灯りは、消えたままだった。
ある日、あの男より少し小さい男と、
あの女より少し大きい女が、店の裏口を開けた。
ふたりは、中に入っていく。しばらくして、微かに物音がした。
表のシャッターが、ガラガラと勢いよく開く。
ぼくはその音に驚いて、走り出した。
顔を上げると、前から、あの男と、女が、並んで歩いてきた。
店の中に入る。
ぼくは、そろそろと近付いて、中を覗き込んだ。
男は、あの低い優しい声で、
先にいたふたりと、何やら話していた。男のとなりで小柄な女が
笑いながら小さく頭を下げ、少し大きい女の手を握った。
それから男は、時折来ては、何人かの人影に混ざり、
トントンと、しばらく硬いリズムを叩いて、
そのあと美味しそうな匂いをさせた。
ぼくは、その匂いと低い優しい声に眠くなって、丸くなる。
――ぼくは男の手に抱えられた。
ふわふわと、いつもより高い揺れる風景。
頭の上から、声がした。煙の香りが鼻をくすぐる。
思わず、喉を鳴らして、身を委ねた。
「コンドウさん、子猫?」
「ああ」
「可愛い」
もう一つ、声がした。女の声。
穏やかな、でもどこか、寂しそうな..…。
女の指が、ぼくの額を撫でる。
……ああ、なんて心地いいんだろう。
「お前、名前なんて言うんだ」
男が、ぼくの顔を覗き込む。
――喉の奥が震える。
「……カズネ」
思い切って名乗ると、男は少し驚いた顔をして、
「カズネ、いい名だな」
そう言って笑った。
――暗い軒下で、目を開ける。
夢の中で聞いたふたつの声は、ぼくの、宝物になっていた。
やがて、街路樹の葉っぱが黄色く葉を落とす季節になった。
あの時名乗ってから、度々コンドウは夢の中に姿を現した。
夢の中でしか話はできないけど、ぼくたちはすぐに仲良くなり、
たくさん言葉を重ねていった。
ある夜――コンドウが柔らかく囁く。
「……いつか、昼も会えるといいな」
胸の奥がじんわり温かくなる。
昼の世界で会うなんて考えもしなかったぼくの胸に、
光が差し込む。
「……そうだね、会えるといいね」
ぼくは、コンドウの手に体を寄せて、そう言った。
街を抜ける風が冷たくなった頃、
ある日の昼下がり、路地裏で、コンドウに出会った。
夢の中より、大きく見えた。
ぼくは反射的に逃げそうになったけど、振り返り、コンドウを見上げた。
コンドウは、ぼくを見て少し驚いた顔をすると、
小さく息をつき、ゆっくりと近付く。やがてぼくの前にしゃがんで、笑った。
ぼくの顔をじっと見たまま、手を差し伸べる。
「やっと、会えたな。……カズネ」
ぼくは、その手に、近寄る。
おなかの下に、大きくて暖かい手が差し込まれ、世界が、揺れる。
コンドウは、ぼくを抱えたまま、店の引き戸を開け中に入った。
店の中では、美味しそうな匂いと、硬いリズム。
小走りで近付く、足音。
「コンドウさん、子猫?」
「ああ、良いかな?」
「うん。可愛い」
額を撫でる指の優しい感触、穏やかで、少し寂しそうな声。
――ああ、ヤヨイだ。
ぼくの顔を覗き込んで、笑いかける。
頭の上から、ふたつの宝物の声がする。
「店の名前、決めたんだ」
「何?」
「かずね」
「ふうん、なんて意味?」
「人が集まって音を重ねる。和音って意味」
「良いね、良い名前」
「……コイツの名前だ。カズネ」
「へえ……よろしくね、カズネ」
ふたりは、ぼくを見て笑いあう。
ぼくも小さく鳴いて、コンドウの手に額をこすりつけた。
カウンターの下の、少しくぼんだ場所。
ぼくは、そこに座ると、顔を上げて、ぐるりと周りを見渡した。
欠伸をひとつすると、ぐーんと伸びをして、
丸くなって、目を閉じる。
ああ、暖かいな……。
少し遠くから聞こえる、コンドウの声。優しい気配。
横を通る、足音。カタカタと、良い匂いのする鍋の音。
カワハラと、ミチコの笑い声。
背中を撫でる、ヤヨイの指。
それは、初めて手に入れた「居場所」だった。
ぼくは、もうひとりじゃない。
コンドウとヤヨイの間で、安心と希望を知ったぼくは、
静かに、でも確かに、未来を夢見る。
それからしばらくしてこの店に明かりが灯り始めた。
賑やかな、たくさんの音が重なっていく。
ぼくは、カウンターの下の、この場所で、
それを少し遠くに聞きながら、丸くなるんだ。
おしまい




