第1話・居酒屋『かずね』
シャッターは、まだ半分しか
上がっていない。
東京の、結構大きな繁華街の路地裏に居酒屋「かずね」はある。
気が付いたらそこにあったように街に馴染んだ、小さな店だ。
カウンター8席と、4人掛けのテーブルが3席。
メインメニューは、焼鳥と、刺身だが、料理上手の店長と従業員が、
言えば何でも作ってくれるので、何でもあって、何でも美味しいと、
なかなかの人気店だ。
店の中では、炭がはぜる音と、包丁がまな板に当たる
乾いたリズムが響いている。
コンドウはカウンターの内側で、焼き台を整えながら、
無意識に時計を見た。
「あと二十分だぞ」
「はいはーい」
返事をしたヤヨイは、帳面を片手に、
冷蔵庫の中を覗き込んでいる。
「今日、発注刺身少なめにしとくー?」
「天気悪くないし、いつも通りでいい」
「了解」
それだけのやり取りなのに、店の空気がきちんと整っていく。
俺は、こういう時間が嫌いじゃなかった。
「店長、これ、もうちょっと切っときますか」
ネギのみじん切りがもりもり入ったボウルを手に
顔を出したのはコウだ。
コウは、地元の大学に通う3年生。
キッチンリーダーのくせに少し頼りない。
ま、かわいい奴なんだが。
腰のサロンの紐が、また少し緩んでいる。
「ああ、切りすぎるなよ」
「はい」
素直に引っ込む背中を見て、ヤヨイが小さく笑った。
カウンターの端、いつもの場所に、
茶虎の猫が座っている。
カズネは、開店前になると決まってそこにいる。
「お前、今日も一番乗りだな」
声をかけても、猫は瞬き一つしない。
ただ、店の奥と入口を、交互に見ている。
「何か来る?」
ヤヨイが猫に尋ねる。
カズネは、入口を見て、ひげをピンと立てた。
「いらっしゃいましたー」
ヒロミの明るいの声がして、シャッターが全開になる。
彼女はいつも、店が開く五分前に滑り込んでくる、
ホールリーダーの女子だ。
女子と言っても、今年確か27で、3歳の娘がいる、シンママ。
その明るさが常連客に人気で、ヒロミに会いに通ってくるやつも多い。
「今日、ヒラリちゃん、保育園、ぐずらなかった?」
ヤヨイが自然に聞く。
「先生に、成長早いですねって言われました」
「それ、毎回言われてない?」
「気のせいです」
バタバタと着替えながら、ヒロミが答える。軽口が飛び交う。
店は、いつもの夜に向かって動き出した。
最初の客は、
ほぼ毎日来る常連二人組。
「お、今日もやってるね」
「そりゃやってるわよ。
いらっしゃい、ザキさん。いつもの?」
「おう、ヒロミちゃん、久し振り」
「昨日も会ったじゃない」
ヒロミと、常連客ザキのいつものやり取り。
「シンさんも、いらっしゃい」
ヒロミが、連れの常連客シンに声をかける。
シンは笑って、わずかに首を下げた。
生ビールが置かれ、いつものつまみが並び、
やがて、愚痴が始まる。
仕事の話、部下の話、分かり合えない話。
ヒロミはいつもの調子で軽口を交えながら、
笑って常連の話に付き合う。
俺はその話を聞いていないようで、聞いていた。
必要なところだけ、拾って口をはさむ。
たまに少し説教じみてしまうのは、
元刑事だからか、それとも、年のせいか。
俺のそんなクセも、
この店の長所、ということにしといてくれ。
その客は、少し遅れて入ってきた。
木の引き戸を引く手が、一瞬だけ迷う。
それを、俺は見逃さなかった。
「いらっしゃい」
「……一人ですけど」
「どうぞ」
女性は、コートを脱ぎながら、店を一度だけ見回した。
探しているものがあるようで、ないような目。
カウンターの端に座る。
「生、ください」
ヤヨイが頷き、コウがはい!と威勢のいい返事をして
グラスを用意する。
注がれたキレイな生ビールを差し出しながら、ヤヨイが笑顔を向けた。
「いらっしゃいませ。どうぞ。......今日は寒かったですね」
「ええ」
それだけで、彼女の肩から少し力が抜けたのが分かった。
「仕事帰り?」
俺は、いつもの調子で聞く。
初対面なのに、友達のような口調で。
女性は、一瞬ひるんだが、すぐに笑顔を返して来た。
「はい。原稿、出してきました」
「ほう」
「締切の日なんで」
言い方が、どこか苦笑いだった。
「なあなあ、お姉さん」
ザキが、すぐに絡んできた。
俺は、黙って会話に耳を傾ける。
「原稿って何の?」
「雑誌の...…」
「へー、すごいね、お姉さん、作家先生なの?」
女性は、顔の前でぶんぶんと手を振る。
「いえいえ、そんな。......ただ女性誌でコラムの連載持ってて」
「そうなんだ。どんなの?人生相談みたいなの?」
女性は、一拍置いてから頷いた。
「うーん...…そんな感じです」
「大変だな。答えなきゃいけないんだろ?」
その瞬間、
カズネの尻尾が、ゆらりと動いた。
「答えは……」
女性はグラスを見つめたまま、言った。
「出してるようで、出してないです」
「どういうこと?」
「...…その人が選びやすい言葉を、並べてるだけ」
ヤヨイが、はい、どうぞ、と女性の前に焼き鳥を差し出す。
ヒロミが、コップの水を足す。
店のリズムは、途切れない。
「それ、読んだ人進めんの?しょせん都合のいい言葉じゃない。
......あなたも、進めるの?」
話に混ざってきたシンが、にやにやと笑いながら聞く。
「分からないです」
女性は、はっきり言った。
「自分がちゃんと前に進んでるのか、読者の背中を押せてるのか、迷います」
「進んでるよ」
女性が、顔を上げた。
俺は、焼き台から目を離さずに言う。
「迷ってる自覚があるうちは、進んでる。......迷ってないふりしてる人の方が、
止まってるんじゃないか」
その時、
カズネがカウンターに飛び乗った。
女性のグラスの横で、丸くなる。
彼女は、それをなぜか懐かしいような目で見て、言った。
「猫……」
「何も考えてない顔してるだろ」
「...…名前、あるんですか?」
「カズネってんだ。店と同じ名前。
コイツは、腹減ったら動く、眠くなったら寝る、そんなもんだ」
女性が、猫を見つめてふっと小さく息を吐く。
コウが、ぽつりと言った。
「それ、楽ですね。...…いいな、何も考えないで、生きてるなんて」
「そうだな。......でも、楽じゃない日もあるだろ」
俺は、カズネを見たまま言った。
「ただ生きるって、意外と難しいからな。......でも、無理はしない、コイツはな」
女性は、少しだけ笑った。
「……今日の答え、出さないで、持ち帰っていいですか」
「どうぞ」
ヤヨイが言う。
「ここに置いていく必要、ないですから。
答えのない夜だって、あるんじゃないですか?」
女性は、ふと天井を見上げると、
猫を見つめて黙り込んだ。
傍らでは、常連2人とヒロミの楽しげな笑い声がしていた。
会計を済ませ、
ごちそうさまでした、また来ます、そう言い残して、女性は店を出る。
そういえば、名前を聞かなかった。
閉じられた引き戸の外で立ち止まる気配がして、
やがて足音が遠ざかる。
賑やかな常連客が、ごちそうさん、もう来ないよ、と
いつもの一言を残して帰り、暖簾をしまって、店じまいをする。
ヒロミとコウは、わいわいとやかましい。
「口だけじゃなくて、手も動かせよ、賄い、あるからな」
奥に声をかける。——こいつら、まだ喋り足りないのか。
「はーい、ありがとうございます」
調子のいいヒロミの声がして、コウ、早く片付けよ、お腹すいた、だの、
そうですね、今日の賄い、何ですかね、だの口も手も動かしているやかましさは続いた。
炭を片付ける俺の前で、ヤヨイが、カウンターを拭きながら言った。
「ねえ、あの女性、私と同い年くらいかな?
なんか、持って帰った顔してたね。...…無理しなきゃいいけど」
俺は、何も考えてないようなカズネの横顔を見つめて、答える。
「そうだな......」
カズネは、入口と俺の顔を、一度づつ見ると、
カウンターのいつもの場所に丸くなり、目を閉じた。
――その夜、俺は、少し変な夢を見る。
まあ、いつものこと、...…それだけだ。
(つづく)




