「本当にあったかもしれない」部分
最初から、あまり相性はよくなかったんだ、と苦いものを吐き出すような口調で望月君は言った。
もちろん、離婚した彼の元奥さん、夏海さんとのことだ。
二人は学部は違うが同じ大学の出身で、僕らと同じ物作り系のサークルで活動していたのが縁で付き合い始めた。
このサークル、男女の仲がものすごくいい上に、皆で濃密な時間を過ごすことが多かったせいか、それ目的のお遊びサークルって訳でもないのに、やたらカップル成立率が高く、望月君と夏海さんも、そのうちの一組だったのだ。
ただ、他のカップルは急速加熱に急速冷凍という感じで、すぐ盛り上がってはすぐに冷め、くっついたり離れたりをくり返し、2年も経つ頃には全て別れてしまっていたのに、望月君と夏海さんたちだけは、マイペースでずっと順調にお付き合いを続けていた。そして、大学卒業後数年して華燭の典を挙げ、つい最近、結婚10周年を迎えたばかりだったのである。
学生時代はともかく、30歳を超え、家庭を持ったり子どもができたりすると、それぞれいろいろ、笑えない事情が増えてくる。
僕のように女性とは全く縁のないまま社内の雑用ばかり押しつけられ、ヒイヒイ言ってる者がいるかと思えば、結婚したはいいものの相手の浪費癖に手を焼き、カードローンで青息吐息のヤツ、子どもができたはいいが、奥さんが子どもにかまけすぎて夫婦仲は最悪、子どもを介してしか互いに会話を交わさない、家庭内別居状態に陥ってしまったヤツもいる。そんな中、子どもさんもいないのに相変わらず仲がよく、一緒に買い物に出かけたり、旅行に出かけたりする望月君たちはまさに理想の夫婦で、既婚組は、どうしてああなれなかったのかとうらやみ、僕達独身組は、いつかああいう家庭を作りたいものだとひそかに憧れていた。
なのに、ああそれなのに急転直下、離婚と相成るとはなにごとか、きっとなにか、深いわけがあるに違いないと、サークルの同窓会にかこつけ、あまり気乗りのしない様子の望月君を無理矢理引きずってきた酒の席で飛びだしたのが、先の発言だったのである。
「相性が悪かった?バカ言うなよ、付き合い始めた頃から、ずっと仲良かったじゃないか。学内でも、一緒にいるところよく見かけたし」
サークル内のムードメーカだった――そしてやたら酒に弱く、既に顔を真っ赤にしてややろれつが怪しくなっている――ワタナベが、からかい半分にそう言うと、望月君、顔をしかめ、ふん、と鼻から息を吐く。
「逆だよ、逆。学内でだけ一緒にいたんだ。サークルもあったし、安い喫茶店も本屋も図書館もあったから、学内でだけは、なんとか二人でいても時間がつぶせたんだ。それ以外のところじゃ、全く別行動だったよ」
「え、そうだったのか?」
かなり意外な答えに面食らったのか、ワタナベが思わず真顔になったところで、
「そうだよ。考えてみろよ、あっちは体を動かすことがなにより好きなアウトドア派で、みんなとワイワイやるのが大好き、それに対してオレは、静かなところでゆっくり本を読んだり、ゲームをしたりするのが好きっていう、典型的なインドア派だ。二人一緒に楽しめるところなんて、一体どんなところがあるっていうんだよ」
と、さらに追い打ちをかける。
「いや、でも、ほら、一緒に買い物に行ったり、旅行にだって……」
同じく困惑顔のアラキがさらに抗弁。だが、
「一緒に買い物に行かなきゃ、食卓に好きでもないものばかり並ぶことになるんだよ。お互い、食の好みも全く違ってたから。旅行もそう。向こうはアミューズメントパークに海水浴、こっちは博物館に美術展と、目的が全く違うから、せめて日程と目的地、泊まるホテルだけは一緒にしておくことにしてたの。現地じゃ、全く別行動だよ」
と、これも粉砕される。
てっきり仲良し夫婦と思っていたのに、内実はそんな感じだったのか、と皆がしょぼんとしてる中、望月君は再び鼻を鳴らした。
「いや、夫婦として仲は悪くなかったと思うよ?でもそれは、互いによく話し合って、妥協点を見つけて、納得して行動してきたから、別れるまでいかなかったってだけ。お互いの努力の結果だよ。そもそもあっちはなにをするにもがさつで大ざっぱ、多少のことは笑ってごまかすテキトー人間、オレはかなり神経質で、なにごともきっちりしておかないと気が済まない、細かい人間だ。絶望的に相性が悪いんだ」
再び吐き捨てるようにそう言うと、望月君、腹立ち紛れにごくごくとジョッキを飲み干した。
皆がなんだかしょぼんとする中、一人考えこんでた遠藤君が、ぼそっと口を開く。
「でもさ、そこまで相性が悪い相手と、ついこの間まで10年以上も一緒に暮らしてきたんだろ?」
「そうだよ。いろいろ我慢して、妥協しながらな」
「なのに、なんだってここへ来て、いきなり別れちゃったんだ?よほど我慢できない、妥協できないことでもあったのか?」
昔から遠藤君は、ぼけっとしているようでいて、一番するどい。
この時も、遠藤君の発言に、皆、そう言われればそうだな、と改めて望月君の目をのぞき込んだ。
「やれやれ、昔からかなわねえよ、遠藤には……」
そう言うと望月君、データ入力でもするかのように、指先でテーブルをいらいらと叩き……やがて、大きなため息をついたのである。
その日、望月君は珍しく真夜中過ぎまで起きていた。
仕事が精密機械設計という神経を使うもののため、休前日でもない限り夜更かしなどしないよう心がけているのだが、この時ばかりは我慢できなかったのだ。
風呂の排水溝が真っ黒だったのである。
望月君は、生まれてから結婚し独立するまで、都心の高層マンションで両親と同居してきた。母親はまさに専業主婦の鏡のような人で、家の中はどこもかしこも常にピカピカ、料理は栄養バランスを考えた手作りの品が、毎食テーブル一杯に並ぶ。風呂に入ればタオルから下着からパジャマから、全てが脱衣所に用意され、ベッドにはいつも必ず、真っ白でのりのきいたシーツがぴしりとかけられている、という具合。望月君はただ勉強さえしていれば、それ以外の生活の準備は、朝起きてから夜寝るまで、なにひとつする必要がない生活を、25年間、ずっと続けてきたのである。
そのせいか、望月君はやや潔癖症となってしまい、汚いものや場所には、手指が触れられない(本当のことを言えば、トイレで出すものを出した後、自分の尻を拭くことにも若干抵抗がある。が、さすがにこれだけは、誰かに拭いてもらうわけにもいかず、拭き終わった後、入念にアルコール消毒の上、石けんでしっかり手を洗うことで、なんとか妥協している)。だから、今まで――去年までは、排水溝の汚れが目に入るなり、妻の夏海さんにお願いし、きれいに掃除をしてもらっていたのである。
ところがこのところ――今年に入って、歯車が狂い始めた。
夏海さんは結婚してらずっと「家でゴロゴロしてばかりなのは性に合わないから」とスーパーにパートにでていたのだが、海釣りが趣味であることから自然に磨かれた「魚をさばく腕前」を見込まれ、この四月から正社員に抜擢され、鮮魚部門のリーダーになったのである。
そもそも体を動かして思い切り働くことの大好きな人であるし、皆からその働きぶりを認められての抜擢だから、夏海さんも、そりゃあ張り切って仕事に打ち込んでいる。それ自体は素晴らしいことだと望月君も思っているのだが……その実、気が気ではなかった。
朝から晩まで、日がな一日魚をさばいたり、刺身に切り分けたりという仕事である。制服にゴム引きのエプロン、厚手のゴム手袋にゴム長靴という完全装備で行うとはいえ、どうしたって臭いが残る。
それが、小バエを引き寄せそうで怖いのだ。
ずっと清潔な環境で暮らし、幼い頃から習い事ばかりでろくに公園にも行かなかったせいか、望月君は虫が大嫌いだ。どんな雑菌を運んでくるか分かったものではないし、ぎくしゃく動いていたかと思うといきなりブーンと飛びかかってきたりと、次になにをするのか全く読めないところも恐ろしい。コガネムシやバッタのような、比較的「無害でかわいらしい」とされる虫でさえ、望月君、見ているとぞくぞくと体が細かく震えてくる(ああいう虫を森に入ってわざわざ捕ってくるなど、狂気の沙汰以外のなにものでもないと、固く信じているぐらいだ)。いわんや、毛虫やミミズのような「這いずる」系の「蟲」など、想像ずるだけで吐き気を催すし、ありとあらゆる「害虫」類は――それがたとえ、体長3ミリにも満たない小さな羽虫であっても――一目見るなり顔面蒼白で逃げ惑うことになる。
小学校などで時々授業中に羽虫が迷い込み、女の子がキャアキャア大騒ぎしたりすることがあるが、望月君ときたら、男の子でありながら、虫が入り込むたび、彼女たちの数倍の声で泣き叫び、逃げ惑っていた。そのせいで、よくからかわれ、夏の終わりになると、死にかけの蝉を持った悪ガキどもに追いかけ回されたりもした。そのたび、笑いものにされ、弱虫呼ばわりされる自分を情けなく感じたりもしたが……それでもやっぱり、怖いものは怖い。
そんなこんなで望月君、物心ついてから今に至るまでずっと、虫とみれば即座に逃げ出すか、誰かに泣きついて退治してもらうかという生活を送ってきたのである。
だから、夏海さんの海釣りの趣味だって、できることなら結婚を機にすっぱり辞めてほしかったのだが、それをいうと、自分の趣味である鉄道模型やゲームなどを認めてくれている彼女に申し訳ないように感じ、仕方なく黙認していた。
それがある日、なんの気なしに冷蔵庫を開け、常備菜か何かかと思って中に入っていたタッパーを開けたところ、青くてらてら光る、この世のものとも思えぬほど無気味な蟲がうねうねうごめいてるのを見て、マンション中に響き渡る悲鳴を上げ、タッパーをあらぬところにぶん投げて家から逃げ出して以来――どれだけ台所を掃除するのが大変だったか、後から夏海さんにぶうぶう文句を言われた――お願いだからと拝み倒して、釣り道具の全ては実家においてもらうことで、ようやく納得したのである(できることなら、あのおぞましい生物が這い回ったマンション自体も引っ越したかったが、主に経済上の理由からそれは断念し、徹底的なハウスクリーニングをしてもらうことと、冷蔵庫を新調することで手を打った)。
望月君にとって虫の類いは、不倶戴天の敵にして、この世ならぬものと同等の恐怖の対象であり、それこそあらゆる手を打って、身の回りに寄せ付けないようにしなければならぬ存在だったのである。
ところが、せいぜいが月に一度の趣味の海釣りならばともかく、週5日フルタイム勤務の後、銭湯か実家の風呂に寄り道し、完全に汚れと臭いを落としてから帰ってこいとは、さすがに言えない。
仕方なく、スーパーから帰ったらすぐに風呂へ直行、着ていたものも全て洗濯機に放り込んでもらうことで手を打ったのだが、それでもやはり、なんだか生臭い臭いが漂うような気がしてならない。
臭い、してる?全然わかんないじゃない、気にしすぎでしょ、と夏海さんは笑い飛ばすが、気になるものは気になるのだ。
それに「おかず変質問題」だってある。
以前夏海さんがレジパートだったときは、パートの日で、彼女が食事当番の日だけ夕飯がスーパーのお惣菜になるぐらいで、特に問題はなかった(むしろ、夏海さんのかなり濃い味付けより、お惣菜の方がよほど舌に合うので、望月君、ひそかに喜んでいたくらいだ)。ところが今は、鮮魚担当だけあって、持ち帰るのも魚まるごととか、捨てるはずの部位とかになる。これらを適当に焼いたりして出してくるのだが、味はいいとして、当然骨やらエラやらひれやらといった「食べられない部位」が大量に残り、ゴミ箱行きとなる。これが、虫を引き寄せないかと、望月君、大変心配なのである。
その上さらに深刻なのが、「家事手抜き問題」だ。
夏海さん、毎日生き生きと楽しそうに働いてはいるのだが、なにぶん今までより格段に拘束時間がのびた上、慣れない仕事で神経を使うのか、仕事を終え、帰るときにはへとへと、ということが増えつつある。
その分、これまでもかなり手抜きだった家事が、ますますおざなりになってきているのである。
いや、通常の掃除や洗濯、炊事などはいくら手を抜いてもらっても構わない。その分、望月君が分担すれば済むことだ。
だが、生ゴミが増えつつあるのに寝坊してゴミを出し忘れたり、週に3回はしてもらっていた排水溝の掃除が週1回とか、半月に1回とかになってしまうのだけは、どうにも困る。
腐敗した生ゴミは虫を引き寄せるし、汚れた排水溝は、通り道になる。
汚いままで放置して、もしもそこから害虫がコンニチハしたら……!そしてその害虫が、「害虫界の帝王」「黒い悪魔」の悪名高い、あの「G」であったりしたら!
そう思うといても立ってもいられない。だが、そうやってあせる一方、汚い生ゴミは排水溝に手を触れるのは――そしてもし、既に繁殖していた蟲に触れでもしたら!――絶対にいやだった。
だから、手を変え品を変え、脅したりすかしたり、怒ったり懇願したりと、ありとあらゆる手を使って「排水溝の掃除と生ゴミ処理」を、夏海さんにやってもらおうとしたのである。
だが、夏海さんもよっぽど疲れていたのか、「そんな、2、3日で虫がわいたりしないって。大丈夫。明日の朝掃除するから、今日は寝かせて」と彼の訴えを全く取り合おうとせず、さっさと寝室に引っ込み、横になってしまったのだ。
ここで話は、「その日」の冒頭に戻る。
望月君は、困り果てていた。
確かに、少々放置しておいたところで、虫などわきはしないのかもしれない。でも、もしわいたら最後だ。できる限り、そんな危険性は排除しておくに越したことはない。
とはいえ、自分が、あの真っ黒な排水溝に触る?早くも傷み始め、濃厚な臭いを発し始めている魚の残骸を手でつかみ、処理する?
無理だ。そんな体に臭いが染みつきそうな不潔極まりない行為など、到底できっこない。
でも、もし万が一、虫がわいたら……。
いやしかし、あれに手を触れるなんて……。
………………。
半泣きになりながら、そんな堂々巡りの思考を一時間以上もくり返したあげく、望月君はようやく、心を決めた。
まずは、念のために買い置きしておいたレインコートを三重にして、着込む。その上で、花粉症防止ゴーグルをメガネの上から装着。さらに、大型のマスクを二重にして身につけ、その上から背後に空気穴を開けたビニール袋をかぶり、万が一、万万が一にも腐汁が顔に飛んだりしないようにする。
そして、レインコートの袖から突き出した手には、手術に使われる薄手のゴム手袋を二重にしてつけた上、厚手の炊事用ゴム手袋を重ね、さらにその上に厚手のビニール袋を三枚ほど巻き付け、わずかな触感すら感じぬようにする。
その姿で、ともすれば吐きそうにあるのを必死で我慢しつつ、台所の隅に設置してある四角いゴミ箱とシンクの三角コーナーから生ゴミを回収。三重にした分厚いポリ袋に入れて、きっちりと口を縛った上、ガムテープをすき間なく貼り、不格好なバスケットボールのようになったそれをさらにビニール袋に入れ、絶対に虫がわかぬよう、冷凍庫に隔離する。
さらに、風呂場と洗面所、シンクの排水溝のふたと側壁にへばりついた黒いヌメヌメした汚れを、涙目になりながら、シャワーと歯ブラシで、納得がいくまで徹底的に洗い流す。
それら全ての作業を終えた上で、まずは丁寧に顔の一番外側のビニールを裏返しにしながら外してゴミ袋に放り込み、用意しておいたウエットティッシュで丁寧に顔と手を拭く。それから、また1枚ビニールを裏返しにして取り外しては手と顔を拭き、という手順を繰り返し、最後にじっとりと汗で濡れたゴーグルとゴム手袋、レインコートをくしゃくしゃにして、ゴミ袋に放り込み……装備の残骸で大きく膨れ上がったゴミ袋の口をしっかり結んだ上、ガムテープですき間全てを埋め、ベランダに隔離する。
最後の仕上げに、身につけていた全ての衣服を全自動洗濯機に放り込み、徹底的に洗い、乾かす。その間に望月君自身は風呂に入り、穢れてしまった体を何度も何度も洗ってはまんべんなくシャワーを浴びて……ようやく一大プロジェクトを終えたのである。
数時間かけて一連の作業を終え、肉体的に、そして精神的に多大な疲労を感じながらベッドに転がり込んだ時には、既に日付が変わってから数時間が経過しており、夏海さんはすうすうと気持ちよさそうに寝息を立てつつ、すっかり寝入っていた。
人の苦労も知らないで、いい気なもんだよ……。
もちろん、今回の重労働は自業自得、自分自身の性向でいらぬ苦労をしただけだとは分かっているのだが、それでも思わず、望月君は夢の世界で無邪気に遊ぶ夏海さんをにらんでしまう。
だからオレは反対だったんだよ。別にフルタイムで働く必要なんかない、パートで十分だったのに、自分から進んで正社員になるなんて!そのおかげでオレの仕事に支障が出たら、意味ないじゃないか!全く、少しは考えて……わあっ!
八つ当たりの愚痴のような繰り言を頭の中でくり返しつつ、なおも望月君、険しい顔でじっと夏海さんを見つめていたのだが、ふと、その顔の中心――鼻のすぐ横あたりに何かがふわりと舞い降りたのを見て、あやうく大声で悲鳴を上げそうになった。
飛び退くようにベッドから後退し、敵陣の様子をうかがう歩兵さながら、マットレスの縁に両手をかけ、おそるおそる顔だけ突き出して、もう一度目をこらし、よくよく夏海さんの顔を見る。
間違いない。目に見えるか見えないかというぐらいに小さくか細いけれど、確かに虫だ。大きさの割にちょろちょろ素早く、形がややはっきりしないように見えるのは、きっと高速で羽ばたきつつ移動しているからに違いない。
本当は虫など見たくもないのに、「もし油断してこっちに来たらどうしよう」という恐怖感から、ただただひたすら、じっとその虫を見つめていた――見つめざるを得なかったその時の望月君の心境といったら、なんとも複雑だった。
ほら見ろ、やっぱり虫がわいたじゃないか、排水溝も生ゴミも毎日きちんと処理しなきゃいけないんだよ、という感じの勝利感――喜びがあるかと思えば、すみかとエサがあればこんなにも早く姿を現すのかという慄然とした思いもあり、お願いだからこっちへ来るなという恐怖や、早くどこかへ行ってくれと切望する思い、ひょっとすると掃除の際、幼虫に触れてしまったのではないかと改めて畏れ、後悔する思いやこれからどうしようという途方に暮れた思いなどが複雑に交錯し――それでも、そんなケシ粒ほどの小さな虫ならば、指で押しつぶすなりなんなりしてさっさと退治してしまえばよい、とは決して思い至らないところが、いかにも望月君らしい。
結局、なにもできず、凍りついたように固まったまま、数分間虫を見続けていただけだったのだが……その時、思いも寄らないことが起きた。
夏海さんの顔の上を動き回っていた羽虫が、何かの拍子に、ふっと鼻の穴に入り込み、そのまま、見えなくなってしまったのである。
ええっ!と思って思わず身を乗り出しそうになったのだが、そこで、さすがに違和感に気づいたらしい夏海さんが眉をひそめ、「う~ん、うにょむるんにをむ……」などと言葉にならないことを発しながら寝返りを打ち、壁の方を向いてしまった。
虫の行方は、分からずじまいとなってしまったのである。
翌朝。
出勤までリミットぎりぎりという時間にようやく起きてきた夏海さんは、居間のソファーで丸くなっていた望月君に、
「おふぁよう……」
と寝ぼけ半分で声をかけた。
あの「事件」以降、夏海さんの横で寝転がる気になれず、居間に来たものの、他にもひょっとしたら虫がいるかも、と思うと恐ろしくて眠るに眠られず、ソファーで一晩中寝返りを打ち続けていた望月君は、その声に飛び起き、
「おはようじゃない!昨日、君が寝てから大変だったんだぞ!」
と、息せき切って一部始終を話し始めたのである。
熱っぽい口調で必死にまくし立てる望月君とは対照的に、夏海さんは冴えない「ぬどーん」という感じの表情のまま、一通り話を聞いたところで、ぐっと握りしめた両手を天に突き上げ、思い切りあくびをした。
「ふああああああ…………んで?」
「いや、んでって!大変だろ、鼻の穴に虫が……」
「てか、本当に虫だったの?ホコリとかじゃなくて?」
そう聞かれると、なんだか見間違いだったような気もしてくる。けど、大声で騒ぎ立てた手前、なかなかそうも認めがたく、望月君はあえて、ぶんぶんと首を振った。
「いや、絶対に虫だった!君、早く病院に行って……」
だが、夏海さんは大きくため息をついただけだった。
「大げさだな、大丈夫だよ。すぐ出ていったって」
「いや、少なくともオレは目にしてないし、医者にしっかり調べてもらった方が……」
「体調も悪くないし、平気だって。小さい羽虫なんでしょ?そんなの、もし鼻ん中に入ったとしても、今頃鼻水に絡まって鼻クソになってるよ」
「いや、君、そう言うけど……」
「それより、手袋とかポリ袋、どんだけ使ったの?まさか、ストックしておいた分、全部使ったんじゃ……」
「そりゃもちろん、完全防備のためだから、使えるものは全部使ったよ」
そう言うと、夏海さん、世にも情けない顔になった。
「やっぱり!なに勝手なことしてくれてるの!起きたらあたしがやるから、それまで待ってっていったじゃない!今時、ゴム手袋とかゴミ袋も安くないんだよ!」
「いや……だって虫が……」
怒るのそこかよ、と思いながらも、家計で購入したものを勝手に無駄遣いしたことは確かなので、望月君、つい反論の勢いが鈍る。
夏海さんは、そんな彼を無視して収納へ向かい、中を確認した。
「あーあーあーあー!薄手の手袋もポリ袋もビニール袋もゴム手袋も!全部すっからかんじゃない!せっかくドラッグストアの安売りを狙って、大量に買い置きしてたのに!」
「いや……だから……我慢できなくて、それで……」
「自分勝手なことばかりして!これだから、潔癖は困るんだよ!使った分は、全部新しく買っておいてよね、あなたのお小遣いで!」
「いや……はい……」
夏海さんの剣幕に押され、納得できないながらもつい望月君、非を認めてしまう。
「お願いね!……んじゃ、ちょっとそこどいてくれる?さっきからあたし、漏れちゃいそうなんだけど」
そう言われてようやく、自分がトイレの真ん前に立っていたことに気づき、あわててそこから飛び退くと、夏海さん、やや内股で、足早に扉の向こうへと消える。
中から勢いよく水音が――エチケットのため水を流している音だと信じたい――響いてくるのを聞くともなく聞きながら、望月君はずっと、いや、確かに虫がわいてたし、不潔だし、虫は鼻に入って出てこなかったんだ、オレはなにも悪いことなんかしてないんだ……と、唇をとがらせたまま、ずっと頭の中でくり返していたのだった。
それからしばらくの間、望月君は夏海さんと一緒に過ごしている間中ずっと、さりげなく彼女の様子を観察していた。だが、彼女はいつもと変わらずはつらつと元気なままで、いつまでもくよくよとあの晩のことを気に病んでいる彼の方が、よりやせて青白く、病人じみた雰囲気の顔になっていった。
毎朝そのげんなりした冴えない顔と鏡で向き合うたび、あの晩見たものは幻覚ではなかったのか、見間違いではなかったのか、という疑念がどんどん大きくふくらんでいき……一週間も経つ頃には、あの晩、慣れない作業をしたことで疲れてたからな、誤認したっておかしくないよな、などと自分を慰めるようになっていたのである。
その晩のことだった。
このところ就寝前の習慣となった、台所の三角コーナーと、水回りの排水溝の点検を終え――どちらもいやな臭いもせず、黒ずんだネバネバも発生していなかった――穏やかな気持ちで望月君はベッドに横になった。
しばらくの間、スマホで読書に興じた後、そろそろ寝ようかと枕元の灯りに手をのばした、その時。
不意に、隣で既に寝入っている夏海さんが、えぐじゅ、と大きくくしゃみをした。
なんだか湿った音だったな、と思いつつそちらへ目をやると、鼻の下辺りに、黒々とした塊がへばりついている。
望月君は、顔をしかめた。
なんだよ、鼻クソか?きったないな、オレが拭きとるのは絶対いやだし、本人起こしてティッシュでぬぐわせようか、と右手を肩に伸ばしかけ……そこで凝固した。
黒い塊が、もぞ、と動いた気がしたのだ。
見開いた目の中で、瞳孔が点のように小さくなる。
それでも目を離すことができず、おそるおそる顔を近づけていくと……。
いきなり、もぞむぞむぞもぞ、と塊がその形を崩し、不定形に広がりだした。
それは、いつか見た小さな羽虫によく似た虫が何十、何百と重なったまま、鼻汁でくっついていたものだったのである。
「ひゃあああああああーーーーーっ!」
あまりのことに喉が詰まり、かろうじて声になるかならないかのか細い悲鳴を上げながら上体をのけぞらすのと、ようやく体の自由を取り戻した虫たちがそれぞれ勝手に這いずり、動き、羽を震わせ飛び上がるのと、ほぼ同時だった。
「ひい、ひいい、ひいいいい……」
涙を流しつつ、なんとかその場から逃げ出そうとするものの、腰が萎えてしまったのか、立ち上がることさえできない。
と、ここで、夏海さんがゆっくり寝返りを打ち、その顔をこちらに向けた。
スタンドの明かりに照らされ、口を半開きにし、まぶたをうっすら開けて白目をむいたまま、子どものようにぐっすり寝入っているのが見てとれる。
その彼女の鼻の穴から、またしても「もぞり」と黒い塊が這いだしてきた。
鼻だけではない。唇のすき間からも、羽虫が這いだしてくる。
はじめは、ばらばらと。そして次第にその数を増し、黒々と、黒いよだれが、鼻水が流れ落ちるようにどろどろと、大量の羽虫が湧き出す。
「はああああああああああああ……っ!」
思い切り悲鳴を上げたいのに、肺の中から残らず押し出された空気は、ただため息のように空気をかき回すだけだ。
そこへ、夏海さんの目に白い涙が浮かんだかと思うと、それが、頬に転げ落ちた。
涙ではない。小さくか細い、一方の端に薄茶色の頭部がちょんとついた幼虫が両目の瞼の奥に湧き上がり、溢れかえって、のたくりながら頬を伝い落ちてくるのである。
気がつくと、鼻や口からあふれる虫も羽虫から幼虫へと変化していた。
糸くずのようによじれ、絡み合ってて噴き出す無数の虫が、外へ出るなりほどけ、広がり、うねうねとのたくりつつ顔中を追い尽くすように広がっては、ぼたぼたとベッドの上に落ち、生地の糸目の間へと消えていく。
「ひ・ひ・ひ・ひいい……!」
もはや息も続かず、失神する一歩手前のもうろうとした状態で、望月君はがくがくと体を震わせていた。
とめどなく涙があふれ、流れ出る鼻水もそのままに、顔面を思い切り横に引き攣れさせ、ただただむせび泣く。
と、夏海さんからあふれ出し、糸目の奥に消えたはずの虫が、ダブルベッドの深い谷を乗りこえ、こちら側へじわりと侵食してきたのを目にして、ついに彼の凍結が溶けた。
「あはう、ああう、ああうっ……」
信じられない勢いで失禁しながら、両目をぎょろぎょろと動かし、ベッドから文字通り転がり落ちて、這いずるように部屋の外へ逃れる。
そのまま居間へ、そして、ぴっちりと扉が閉められる風呂場へと退避したところで、望月君は力尽きた。
扉に体をもたせかけたまま、涙と鼻水で上半身が、小便と床の水気とで下半身がべしょべしょになるのも構わず、朝まだひたすら、むせび泣き続けたのだった。
「……それで?」
一部始終を聞き終わった後で、あまりの衝撃に皆が固まっている中、最初に口火を切ったのも、やはり遠藤君だった。
「それでって?」
「いや、その後どうしたのかなって」
望月君が、ふん、と鼻を鳴らす。
「どうもこうもねえよ。それで終わりだ。あの後オレは一度もあのマンションには戻らず、実家に帰り、弁護士を通して離婚を申し立てた。夏海も、なにか察するところがあったのか、素直に同意してな。それぞれ荷物を持ち出し、マンションを引き払って、それでおしまいだ」
「え、じゃあ、その夜から夏海さんとは……」
「全く会ってねえよ。一目でも見たら最後、盛大に吐くか、悲鳴を上げて気絶するかするだろうしな」
「ああ……」
遠藤君が黙り込んだところで、望月君は、ふう、と軽くため息をついた。
「全てが終わった今だから思うけど、あれだな、合わねえな、と感じたときに、変に妥協とか我慢とかせず、さっさと別れるべきだったのかもしれんよ。そうすりゃあ、あんな、トラウマになるような目にあわなくて済んだんだから」
そして、望月君、少々酔ったのか、縁がほんのり赤く染まった、けれど妙に鋭く、切迫した感じが漂う目で僕ら皆を見回すと、
「お前たちも、気をつけろよ。どんだけいいと思った女でも、落ち着いて、よくよく確認してから結婚しろよ。そして、ちょっとでも違和感があったら、すぐに別れろ。じゃないと、どんな目にあうか分からないからな。本当に、女は分からねえよ……」
しみじみとそう言ったのである。
「本当にあったかもしれない」部分投稿。
残りの「ある意味怖い話」部分は、来週月曜日に投稿予定。