生贄。
彼女ならば、僕は共にいたとしても、苦しまずに済む。
「こんなことをして、ただで済むはずないじゃない」
彼女の笑顔は花のようにうつくしいんだ。白い肌は陶器のようになめらかで、艶のある黒髪は長く腰までたれている。目は凛としてまっすぐで、きりりとした眉と筋の通った鼻が強気な印象を与えている。けれど、笑うと儚さを思わせるくらいにあどけないんだ。紅を引いた真っ赤な唇は熟れた果実のように揺れている。
「あなた、自分がなにをしたかわかっているの? 神に逆らう行為よ! これで村は滅びてしまうわ」
縄で縛られていても、その強い態度は変わらない。芯をもった、なにものにも折れない、そんな彼女だからこそ、昨夜ひとり泣いていたのを見て、僕の心は揺さぶられたのだ。
洞窟に声は響く。湿った空間で、岩肌から落ちる水滴が妙に大きく聞こえた。僕ら以外に生き物の気配はなく、ただ、奥の方は暗い闇に呑まれている。
彼女は生贄だった――百年にひとり、村から神へと捧げられる贄であった。毎年生贄にされるのは、兎や鹿などの様々な動物であったが、百年に一度だけ、人間が捧げられることになっている。
生贄には、村いちばんにうつくしい娘が選ばれる。娘に拒否権はなく、縄で縛られて塩漬けにされ、神の供物として神の社へと運ばれ、三ヶ月間そのままにされるのだ。その間はだれも社へ入ることは許されず、もしこの掟を破った者がいれば、その日から一生、村人は神に呪われて生きていくのだそうだ。
僕がこの村の存在を知ったのは、一年ほど前。旅をつづける傍ら立ち寄って、一晩泊めてもらった。そしてその村にはうつくしい娘がいたのだ。娘はいつも笑顔で、村の子供たちからは慕われ、大人たちからは頼りにされ……僕にはまぶしく見えた。
僕が旅をすることになったのは、力があるのを疎まれたからだ。故郷ではもう生きていかれなくなり、一定の場所に落ち着かず、漂浪の旅をすることにしたのだ。
力とは、地位のことでも腕力のことでもない――これは能力だ。人の心を読めてしまうという、数奇な能力……人々は僕を気味悪がり、そして僕は人々を怖がった。
どんな声でも聞こえてくる。真っ黒い心、蔑みのまなざし、そしてなにより――僕を化け物と呼ぶ、その声が。
だから僕は笑うことをやめた。否、それができなくなってしまったんだ。
けれど――。
「君だけは、ちがったんだ」
声に出して僕は言い、そっと彼女の頬に手を這わせる。
そう、彼女だけはちがった。彼女の心だけは、どうしても読めなかった。どうしても、見えなかった。その声は、聞こえなかった。
村で過ごした数日、ずっと不思議でたまらなかった。どうして彼女の心を読むことができないんだろう?
僕は村を出て、また旅をつづける。それでも、どうしても胸に引っかかるのは彼女のことばかり。気づけば自然に、足は彼女の村へと向いていた。
このままではらちがあかない、そう思い、一か月前、この村へと再びやってきたのだった。
ところが、そのときにはすでに、彼女は『生贄』と決定されていた。赤い着物を着て、着飾って、静かに死のときを待つようにして過ごしているのが哀れだった。けれど、彼女は笑っていたから――彼女の心を読めない僕は、これでいいのだと、村の掟なのだと、そう思って、あきらめることにしたんだ。
村を発とうとした、夜。彼女が生贄として捧げられる前夜――僕は最後に一目笑顔を見ようと、そっと彼女の家に忍び込んだ。
「あたし、とうとう逝けるのね」
僕が見たのは、そうこぼす彼女の姿だった。縁側でただひとり、そっとつぶやいている。
「まだ生きたかった……でも、潮時なのね」
彼女は死にたくないのだ――心臓が鷲掴みにされたようだった。ただならない衝撃とともに、僕はあることに気がついてしまった。
心は固まった。
「生贄を盗むなんて、なんてことをしてくれたのよ……」
黙り込む僕に、彼女は責めるような声をあげる。僕は彼女から手を離すと、肩をすくめて言った。
「でも、村人はこのことに気がついていないよ。だれも、君が社から連れ出されることを知らないんだから。三か月経ったころには君の姿はない――きっと、神が天へ召されたのだと思うだろうよ」
この言葉に、彼女はなにも言えないようだった。そう、つまりは何の問題もない。
彼女は黒い瞳をキッと引きつらせて僕をにらむと、声を低めて言った。
「あたしをどうする気? 言っておくけれど、あなたの言うことなんて――」
「君は生贄だよ、僕の」
彼女の言葉を遮り、きっぱりと言う。そして、拘束していた縄を外してやった。きょとんとする彼女に苦笑しながらも、僕は確かめねばならぬことを口にした。
「君はもう、死んでいるのだろう?」
これは憶測でしかない。けれど、真実であろう。
僕は生き物の心が読める。どんな感情だって、考えだって、見てとるようにわかってしまう。けれど、彼女だけはちがったんだ。
僕が心を読めるのは、生きているモノに限られるから。
水をうったように、その場はしんと静まりかえった。ややして、衝撃を受けたように呆然としながらも、彼女は口をひらく。
「……山で足を滑らせて死ぬなんて、信じられないでしょう? あたしには、弟も妹もたくさんいるの……働き手を失ったら、生きていけない」
ぽろり、と彼女の眼から涙がこぼれた。
「明るく見えても、うちの家族は特に貧しいの。だったらせめて、あたしが生贄に選ばれれば、村からお金が入るわ……生贄なんて無意味だって知っていたけれど、どうせ死ぬなら、そうやって死にたかった」
緊張がほどけたのか、一気に声をもらして彼女は泣く。その肩をやさしくつかんで、僕は彼女を抱きしめた。
「君は僕に捧げられた生贄だよ……僕と共に生きて」
だれにも渡さないよ。君は、僕のもの。
ねえ、君の名はなんというの?
ああ、ヨミって名前なんだね。
僕はソコネ。
一緒に神の国に行こうか? 愛しい、僕だけの、生贄――。
それでも君は、僕の生贄。
そして僕は、君の虜。
僕の愛しい人。どうか、死なないで。どうか、神様のもとへなんかいかないで。
……このフレーズが、ふっと頭に浮かんできた。
いつものように、唐突に書きはじめてしまったものです。
はじめ、『彼』に能力なんてなかったし、『彼女』は生ける屍などではなかったけれど、書いていくうちにこんな風になってしまいました。
名前も、後付けです(笑
ちなみに日本神話から、ヨミは黄泉の国から、ソコネは底根の国から拝借しました。
この話は結構削りました。
やっぱり私は短編には向いていないのかもしれない…
本当に涙が出るほどまとめられないような感じがする。^^;
設定がどうしても、長編向きのものしかつくれないというか……
解説を入れたほうがいいような気がするけれど、ここでは自重しておきます笑
よくわからなかった――と言われればそれまでですが、なにかしら楽しんでいただければ嬉しいです!
ここまで読んでくださり、本当にありがとうございました!