35 氷の魔法その一
ずっと近づいていく距離。
透き通るように、過去すらも溶けそうなほどに、熱を帯びている。
反射することがないと思っていた気持ちは、どこに向かっているのだろうか。
行方のない意識が開けば、水の膜を張った視界が広がっている。
「……泣いてるのか? てか、寝てたんだ……」
手で水を拭えば、視界は天井を映していた。
どうやら、帰ってきてから寝落ちしてしまったようだ。
以前咲月に使った、造花の魔法。それを更に繊細にするため、慣れない努力を創一さんの元でしていた影響だろうか。
重たい上半身を起こした時、ベランダから風の当たる音が聞こえた。
俺は迷いもなく、ベランダに出ていた。
「……咲月」
「やあ、純星。起きた?」
「なんでわかるんだよ」
ベランダに出ると、相向かいのベランダに咲月の姿があった。
当たり前ですけど、のように肌着でいる咲月には苦笑するしかない。
「ふふ。純星の瞼、少し赤いから、寝ている時に涙したのかな、って」
「人が寝ているの前提で話を進めるなよ」
寝ていたのは事実だけど、こうも読まれているともどかしさを感じる。
分かりやすいのも困りものだ。
ベランダの縁にもたれかかり、前屈み気味で笑顔をみせる咲月が無邪気に見えた。
「……こうして、ベランダ越しで話すの懐かしいね」
「そうだな」
今思えば、最近は咲月が家に居ることが多かった。
だから自然と、ベランダで会話する機会は減っていたんだ。
田舎道……星空や月明かりを頼りに、咲月の顔を見て話すこの機会が。
相変わらずキャミソール姿は目に毒だけど、俺だけ、の前なら嬉しいものだ。
別に、不純な考えはなくて……咲月が離れないでほしい。
……俺は何を考えているのだろうか。
「そうだ純星、今日は作り置きでごめんね」
「別に気にするなよ。咲月は家族と居る時間を大切にしてくれよな」
「純星は優しいね」
「優しくねえよ。……普通に考えただけだ」
咲月は当たり前のように俺の家に蔓延っている。
だけど本来は、咲月は家族との時間を大切にするべきだ。
俺の両親がいくら離れた場所で過ごしているからとはいえ……咲月がその代わりを補う必要はないんだ。
「――純星も、私にとってはかけがえのない家族だよ」
「え?」
「ふふ、なんでもない。純星が鈍感かつ、努力馬鹿で助かる、って話」
「なんだよそれ。てか、さりげなく罵倒するな」
くすくすと笑う咲月には困ったものだ。
俺だって……咲月をしっかりと見れるように、努力している。
つもりとか言う気はない。本当に、咲月を見ている。
「の割に、純星は嫌じゃなさそうだよね」
「まあ、咲月だしな」
「まさか、純星にエムっ気が!?」
「なわけあるか!」
咲月には感覚をずらされる。でも、それが咲月らしくて、それでいて笑顔が絶えないよさだ。
ふと気づけば、透き通るような黄緑色の髪が、星の明かりを浴びて夜に溶けていた。
呑み込む息はとても熱く、呼吸の仕方を忘れそうな程に。
笑っていた咲月は、そっと息を吐いていた。
「純星はさ、過去をどう思うの?」
「いきなりどうしたんだよ」
「うーんとね。……氷を過去だとするなら、映すのは今なのかな、って」
「哲学か何かなのか?」
「失礼な」
と言って咲月は頬を膨らませた。
膨らませると同時に、ある膨らみも強調されるから、目に毒だ。
「過去が氷だって言うんなら、俺は溶けない氷を持ってるだろうな」
「その心は?」
「失いたくないものがある。だから、溶かしてはならないんだ」
「……そっか。でも、それはきっと溶かさないと、気づけないものがあるよ」
屋根の間に月明かりが差し込んだ時、咲月の顔を青白く照らした。
ハニカム笑みはどこか冷たいのに、温かさを覚えさせる。
……溶かさないと、気づけないもの……。
俺の溶かしたくない過去は、過去じゃない――今でもあるんだ。
咲月と一緒にいられる時間になった過去を、この距離を、俺は扉に閉したままでいたい。
一緒にいられる時間を探す、そんな理由を作りたくないんだ。
幼馴染だからとか関係なくて、咲月じゃないと、ダメだと知ってしまったから……。
握りしめた拳が痛かった。
「純星も、迷ってるんだよね」
「まあな」
「ねえ、純星」
「なんだよ」
「その氷が少しでも溶けたら――デート、してみない?」
「咲月とか?」
「もー、私以外に誰がいるの?」
「そうだな。デートか。そういや、こんなに一緒にいるのに、したことがなかったな」
「――関係が幼馴染だった、からね」
深みのある言い方をする咲月に、俺は首を傾げるしかなかった。
ふと気づけば、咲月はほっそりとした腕を手で軽く擦っていた。
「少し冷えてきたね」
「……咲月、寝る時間は?」
「もう少ししたら寝るかな」
「それまで、俺の部屋で話さないか?」
「ふふ、そうこなくっちゃっ」
ウインクする咲月は、相変わらず無邪気で変わることのない愛らしさがある。
久しぶりのベランダでの会話に区切りをつけ、俺は咲月を受け止め、自室で会話をするのだった。
――心を見抜く、透き通った氷のように。




