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重々しい扉が音を立てて開くと、外の冷気はたちまち遮られ、穏やかな光と温もりがあふれた。
ジゼルが足を踏み入れた先は、広々とした玄関広間だった。
天井から吊るされたシャンデリアには、炎を灯したロウソクが揺れ、その光を受けたカットガラスが煌めきを返し、広間を輝きで包んでいた。
床は磨き上げられた大理石で、深い灰と白の縞模様が波のように走っている。壁には深紅や藍のタペストリーが掛けられ、緻密な紋様が荘厳な趣を添えていた。高く縦に伸びた窓には繊細な刺繍の施された厚いカーテンが閉ざされ、わずかな隙間から月光が淡く差し込んでいる。
まるで物語りの中のような光景に、ジゼルは立ち尽くす。
夜の冷気に慣れた身体を、屋敷の温もりと光が包み込み、胸の奥にかすかな圧迫感をもたらした。
先を歩いていたエミールが振り返った。
シャンデリアの光に照らされたその横顔は、外で見たときよりも一層、柔らかく、温かな気配を帯びている。彼は口元を綻ばせ、落ち着いた声で告げた。
「ようこそ、我が家へ」
「……お招きにあずかり、光栄です」
ジゼルは小さく会釈をする。
屋敷の威容に圧されるような感覚が残っていたが、それを表には出さず、舞台の上と変わらぬ優雅な態度で応じた。
すると奥の扉が静かに開いた。
現れたのは、この館に仕える執事だった。
黒を基調とした燕尾服に白いシャツと端正なタイを合わせ、裾に折り目正しいズボンと磨き上げられた革靴を身に着けている。その背筋は真っすぐに伸び、まさにこの屋敷の格式を体現する姿だった。
その横には、一人の若くて小柄なメイドが立っていた。
深い紺色のロングスカートに白いエプロンドレスを重ね、襟元には小さなリボンをしている。髪はきちんとまとめられ、頭には清楚なカチューシャを載せている。あどけなさを残すふっくらとした頬が、彼女をいっそう幼く純真に見せていた。
執事は歩み寄ると、恭しく一礼し、低く落ち着いた声で言葉を発した。
「おかえりなさいませ、エミール様」
後ろに控えるメイドの少女も、ぎこちなくスカートの端を摘まみ、小さく頭を下げた。
「ああ、ただいま。……ジゼル、紹介しよう。こちらが我が家の執事、アルド。そして後ろにいるのが、メイドのサラだ。――ほかにも使用人やメイドはいるけれど、今夜はもう休ませてある」
エミールに名を紹介されると、アルドは年輪を刻んだ穏やかな眼差しを向け、恭しく深々と頭を下げた。
「お初にお目にかかります、ジゼル様。どうぞごゆるりとおくつろぎくださいませ」
サラは慌てたように一歩進み出て、改めて小さな礼をした。
「よ、よろしくお願いいたします……」
まだ初々しくて、拙さの残る声が広間に響き、ジゼルは思わず目元を和らげる。
「アルド、サラ。……支度を頼む」
エミールは二人を見遣り、ごく自然な調子で告げた。
「支度を頼む」と、その一言を聞いたジゼルは予感する。
これは男が女を抱く前に口にする、決まり文句のようなもの。つまり、この後、自分は求められるのだと。
思いは、自然とその先の場面へと移っていった。
きっと彼の寝室は、瀟洒で贅を尽くした空間なのだろう。高くそびえる天蓋付きの寝台に、絹やビロードの重たい布。揺れる蝋燭の光が壁に影を映し、柔らかな香が漂う中で、しなやかな白いシーツが体を迎える。彼はその整えられた寝台で、どんな風に自分を求めるのだろうか。
「かしこまりました」
アルドが静かに頭を垂れると、サラもそれに倣い、ぎこちなく一礼をした。
二人は身を翻し、奥の廊下へと消えていく。
広間には、蝋燭の炎の揺らめきと静けさだけが取り残された。静まり返った空間に、エミールの声が落ちる。
「この館は、もともと曾祖父の代に建てられたものなんだ。格式を重んじる人でね、壁の装飾から調度品に至るまで、そのこだわりが残っている」
ジゼルは視線を巡らせ、重厚な彫刻の施された柱や、美しく磨かれた彫像に目を留める。確かにそこには、年月を経ても色褪せぬ威厳が宿っていた。
「……まるで時が止まっているかのようだわ。長い歴史が、空気にまで染み込んでいるように感じます」
彼女の言葉に、エミールは静かに頷いた。
「そうかもしれないね。幼い頃は堅苦しく思ったものだけれど、今ではこの重みを守ることが自分の役目だと考えるようになった」
「その役目を、重荷だと感じられることはありませんでしたか?」
「……時にはね」
エミールは肩をすくめるようにして、軽く息を吐いた。
「けれど、こうして誰かを迎えて話をするたびに、祖先が残したものの意味を思い知らされるんだ。きっと、今夜もそうだ」
エミールの言葉を聞きながら、ジゼルは意外に思っていた。
彼の口ぶりには、よくある誇示や自慢めいた響きがない。
ただ、自分がこの館を受け継ぎ、守っていくのだという素直な思いがにじんでいる。それは彼女にとって新鮮だった。格式や伝統を語っているはずなのに、不思議と堅苦しさはなく、むしろ彼自身の人柄がそのまま言葉に乗っている。
会話は館のことを指していながら、耳を傾けていると自然に彼自身の素顔が見えてくるようだった。ジゼルはただ、そうした調子に心を引かれ、気づけばじっと言葉を追っていた。
「――さて、そろそろ準備も整った頃合いだろう。……行こうか」
やがてエミールは歩み寄り、自然な仕草でジゼルの手を取った。彼女は温かな掌に、指先を重ね合わせるようにして応じた。
ゆっくりと歩き出すエミールに導かれて隣を歩く。
シャンデリアの下を抜け、静まり返った廊下へと進むと、足音だけが大理石に響いて夜を刻んだ。
やがて彼は足を止めた。ほかの扉よりひときわ大きく、装飾も凝らされた一枚の扉の前。そこに立っただけで、この先が特別な部屋であることが分かる。
エミールは振り返り、ジゼルの視線を静かに受け止める。言葉はなくとも、その眼差しが告げていた。
――これから先は、彼女だけに開かれる場所なのだ、と。