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 最後の音を吐き終えると、静かに唇を閉じた。

 しばしの沈黙の後、酒場の広間はどっと拍手に包まれる。

 粗野な男たちの掌が鳴り響き、熱に浮かされた眼差しが壇上の彼女に注がれた。

 その喝采のざわめきの中で、彼女の視線は酒場の片隅に座るひとりの青年をとらえた。

 スモーキークォーツの輝きを思わせる明るい茶の髪。

 真っ直ぐに通った鼻梁に、よく形の整った唇。澄んだ瞳は曇りを知らず、きりりとした眼差しは、場末の酒場の埃に触れるにはあまりに清らかすぎた。

 着ている衣服もまた、擦り切れた常連たちの上着とは違う。

 仕立てのよい布地、無造作に見えて整えられた襟元から、良家に育ったことが否応なく漂っている。

 大方、良い所のお坊ちゃんが、物珍しさに紛れ込んできたのだろう。ジゼルは唇の端をほんの少し上げた。


 ――ああ、からかってみよう。


 舞台の上から目を絡めるだけで、彼のような青年なら容易く赤くなるに違いない。

 ゆるやかに視線を落とし、舞台の上からその青年に微笑みかけた。

 唇に艶を帯び、眼差しには妖しげな翳りを宿す。これまで幾人もの男たちを虜にしてきた微笑を、拒める者などいないと知っていた。

 だが――。

 青年は一瞬もたじろがず、無垢な眼差しでまっすぐに見返してきた。

 その顔に浮かんだのは、熱に浮かされた欲望の色ではなく、子どものように澄んだ微笑だった。場末の酒場の濁った空気にはあまりに似つかわしくない、清らかで真直ぐな笑みに、ジゼルは思わず目を瞬いた。

 ひと呼吸おいてから、視線をそっと外す。

 拍手の名残に包まれながら、艶やかな靴音を響かせて男たちの間を抜け、奥の扉へと向かった。歩みの合間に、ふと先ほどの澄んだ眼差しがちらつき、思わず唇が綻んだのだった。



 奥の扉を押し開けると、部屋の中ではオーナーが待ち構えていた。

 彼は両腕を広げ、恍惚とした笑みを浮かべながら近づいてくる。

「ああ、ジゼル。今宵の歌は、まるで月光に濡れた夢のようだったよ……。ひとつひとつの響きが肌を撫で、心を絡め取り、私はただ君に囚われていた……」

 ジゼルは漂う熱にすぐ気づいた。

 彼は舞台の自分を見つめながら、欲望を抑えきれずに自らを扱き、昂ぶりを吐き出していたのだと悟る。その刹那、オーナーの腕が荒々しく伸び、彼女の肩を引き寄せた。

「ジゼル……」

 掠れた声が耳にかかり、酒と煙の匂いが絡む。

 次いで、唇が荒々しく奪われた。

 強く吸い寄せられ、歯が打ち鳴り、唇が乱暴に押し潰される。

 舌が無遠慮に押し入ってきて、濡れた音を立てながら口内を探り回る。

 息苦しいほどの熱と汗の匂いに絡め取られながらも、ジゼルは微笑を崩さず、静かに瞼を閉じて受け入れていた。

 やがて、ひとしきり貪ったのち、オーナーは喉を鳴らしながら名残惜しげに唇を吸い上げる。

 濡れた糸を引き、ようやく顔を離すと、唇を舐めて恍惚と呟いた。

「……ジゼル……永遠にこうしていたい……」

 陶酔の余韻に浸りながら、しばし抱きしめ続け、それからようやく思い出したように声を潜める。

「だが、今宵は、ぜひ紹介したい方がいらっしゃる」

 ジゼルが首を傾げると、オーナーは意味ありげに微笑んだ。

「我らが店を影から支え、君の歌を何より愛してくださっている――パトロン様だ」

 パトロン、この酒場の影の支配者。これまで噂でしか聞いたことのない存在だ。

 オーナーの言葉が終わるや否や、扉が鈍い音を響かせながらゆっくりと開いた。開いた扉の向こうに立っていたのは、さきほど客席で無垢な笑みを向けてきた青年だった。


 思わずジゼルは息を呑み、目を瞬かせる。――まさか、あの青年が。


 青年は彼女の驚きを知ってか知らずか、穏やかな足取りで室内に入ってくる。

 その所作は落ち着いていて、一片の気負いもなく、まるでここが自らの居場所であるかのように自然だった。

 燭火に照らされた淡い髪がやわらかに揺れ、清らかな気配が部屋に満ちていった。

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