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 ファム・ファタルの歌姫――。


 それがジゼルに与えられた名だった。

 客前に立てば、ジゼルの歌声は天上の聖歌にも似た清らかさで、聴衆の胸を深く揺さぶった。彼女の歌は人の罪を赦す祈りにも似て、誰もがそこに救済を夢見た。


 しかし幕が下りれば、その姿は一変する。


 ジゼルが微笑を浮かべただけで、男たちは自我を失い、心を掻き乱され、彼女の前に跪いた。

 指先ひとつの戯れに昂ぶり、囁きひとつで身を焼かれる。彼女は容赦なく彼らを弄び、望みを与えては奪い、歓喜と苦悶の狭間で魂を削ぎ落とした。


 歌で天を思わせ、微笑で地獄を開く――。


 その両極をあわせ持つ存在こそ、ジゼルであった。



 窓の外の闇は重く、風もない夜だった。

 酒場の奥の部屋で、ジゼルは身を沈めるように椅子に腰かける。グラスを煽っていると、昨晩の記憶がじわじわと甦る。

 祭壇に響いた鋼の衝突。

 男たちの激情、血の匂い、倒れた身体。


 そして、熱に浮かされた瞳で縋りつき、足に唇を押し当てた男の姿――。


 その吐息がまだ肌に残っているような気さえした。

 思考を沈めていると、軋む音を響かせて扉が開いた。姿を現したのは、酒場のオーナーだった。

 彼は言葉もなく歩み寄り、椅子に座るジゼルを乱暴に抱き寄せた。

 彼女が手にしたグラスは傾き、床には真紅の斑が散る。ジゼルは抵抗せず、くすくすと喉を震わせ笑った。


「……ジゼル、今宵も美しい」


 オーナーの声が熱を帯びて低く響く。


「あら、昨夜も一昨日も……ずっとそう言っていたじゃない」

「言わずにいられるものか……。君は毎晩違う顔を見せる。笑うたび、歌うたび、私は新しい君に溺れていくんだ」


 オーナーの吐息が、ジゼルの頬をなぞった。

 彼の唇は彼女の耳朶に絡みつき、噛みしめる。唇を塞ぐように重ねられた口づけは、執拗さを孕み、乾いた喉を掻きむしるような熱を彼女に押しつけた。

 柔らかなふくらみを掌の中で揉み崩し、その豊かさを余すことなく確かめる。

 やがて彼の手がジゼルの腿に這い上がり、指先はその奥を探り当てた。

 布越しに、なぞり、圧し、擦り上げる。

 同じ場所を何度も往復し、濡れるのを待ち望むかのように強さを変えながら撫で続けた。

 だがジゼルの瞳は揺れない。その白い頬は一片の紅さえ帯びず、まるで人形のように冷ややかな静けさを纏っていた。


 やがて、壁に掛けられた古い時計が短い鐘を鳴らす。

 ステージの刻限が迫っている。ジゼルは彼の腕をするりと振りほどき、身を翻した。乱れを払うように衣と髪を整え、背を向けたまま囁く。


「そろそろ時間だわ。またね、オーナー」


 無邪気に唇を吊り上げて囁くと、扉の向こうへ消えていった。

 残されたオーナーは、熱に灼かれたまま荒い息を繰り返す。

 求めた衝動は寸前で断たれ、胸の奥で渦を巻きながら行き場を失っている。

 燃え立つ欲望を押し殺すにはあまりに苦しく、額には汗がにじんでいた。

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