第2章 予兆の影、揺らぎ始める調和
王都アルカディアの「星の祭典」から数週間が経った。しかし、エリオットの胸に去来した不穏な予感は、決して思い過ごしではなかった。聖樹の森で感知された異常な魔力の変動は、日を追うごとに強まり、王都全体を覆う魔法の結界にも、目に見えないひび割れを生じさせていた。
「団長、下層区での餓死者が、この一ヶ月で倍以上に増えました。また、奇妙な病が蔓延し始めているとの報告も」
騎士団本部の会議室で、セドリックが重い口調で報告する。彼の青みがかった銀の瞳には、明らかに疲労と、そして憤りが浮かんでいた。エリオットは静かに耳を傾けながら、その報告書に目を通す。そこには、第1章で描かれた王都の華やかさとはかけ離れた、冷酷な現実が綴られていた。魔法によって維持される豊かな上層区とは対照的に、下層区は既に地獄と化しつつあった。
「聖樹の森の魔力変動が、王都の魔力供給に影響を与え始めているようです。結界の維持に異常なほど魔力が必要となっており、その分、下層区への配分が削られていると…」
別の騎士が続けた。王室は依然として状況を楽観視し、宰相と貴族院は「聖樹の巫女」であるリリアーヌの力があれば全て解決すると喧伝するばかり。民衆からの税は増え続け、その金は聖樹の儀式のためと称して、貴族たちの懐へと消えていく。
「こんな状況で、貴族たちはまだ舞踏会を開き、贅沢三昧か!」
血気盛んな若手騎士の一人が声を荒らげた。エリオットは何も言わない。しかし、彼女の琥珀色の瞳は、深く冷たい光を宿していた。
騎士団長の顔には、深い疲労が刻まれていた。
「我々騎士団は、王家の犬だ。民衆の苦しみを知りながら、上からの命令に従うしかない。情けないことだがな…」
その言葉に、エリオットの心は激しく揺さぶられた。彼女は騎士として、王家に忠誠を誓っている。しかし、その忠誠が、目の前の民の苦しみを無視することに繋がるなら、それは本当に正しいことなのか?
一方、ヴァレリアン公爵邸では、リリアーヌが自身の魔力の異変に直面していた。
「どうしてなの…? このフローラ、何度癒してもすぐに枯れてしまう…」
彼女が手をかざす花々は、聖樹の巫女の魔力で常若に保たれるはずなのに、最近では生命力を失っていく一方だった。聖樹の森で異常な魔力変動があるという報告は、彼女の耳にも入っていた。森と巫女の魔力は繋がっている。これは、その森の異常が、巫女である自分にも影響しているということなのか。
その日の午後、リリアーヌは、エリオットが久しぶりに公爵邸に戻ってきたことを知った。彼女はすぐにエリオットの部屋を訪ねた。
「エリオット! あなた、最近あまり戻ってこないけれど、何かあったの?」
エリオットは、制服のボタンを外し、剣の手入れをしていた。彼女の顔色は少し悪く、普段の冷静な表情の裏に、深い疲労が滲んでいる。
「リリアーヌ様。少し王都の外縁部の警備が強化されているだけです。ご心配には及びません」
いつものように曖昧な答えだ。だが、リリアーヌはその言葉の裏にある「何か」を感じ取っていた。
「…嘘でしょう? 私の聖樹の魔力がおかしいの。森の魔力変動が原因だって、あなたは知っているわよね? このままじゃ、きっと…」
リリアーヌの言葉に、エリオットの手がピタリと止まった。彼女はゆっくりと顔を上げ、琥珀色の瞳でリリアーヌを見つめた。
「…リリアーヌ様。あなたは、この国の希望です。その希望を守るためならば、私はどんなことでも…」
「そうじゃない! 希望が、こんな閉ざされた場所で、真実を知らずにいて、何ができるというの!?」
リリアーヌは、自身の「檻」に苛立ち、声を荒げた。その時、セドリックが部屋の入り口に現れた。彼の表情は、普段の柔和さからは想像できないほど険しい。
「エリオット様! 緊急の報です! 下層区で、大規模な暴動が…!」
その言葉に、エリオットの体が硬直した。リリアーヌの顔から血の気が引く。
「暴動…?」
「はい…食料を求める民衆が、王都の食料庫に向けて押し寄せています。衛兵隊だけでは手が回りません。騎士団への出動要請が…」
セドリックは、エリオットに深々と頭を下げた。
「エリオット様。どうか、私にも同行させてください。あなたの剣が、今こそ必要です!」
エリオットは、セドリックの真剣な眼差しを受け止めた後、リリアーヌに目を向けた。彼女の瞳には、決意と、そして悲痛な色が宿っていた。
「リリアーヌ様。私は、行きます」
「エリオット!」
「これは、私の務めです。そして…騎士として、見過ごせない」
そう言い残し、エリオットは素早く部屋を出て行った。セドリックも、一礼して彼女の後に続く。
部屋に残されたリリアーヌは、身震いした。外の世界で、今、何が起きているのか。その真実を知ることが、こんなにも恐ろしいことだとは。
王都の下層区は、既に混沌と化していた。飢えと怒りに突き動かされた民衆が、王都の食料庫へと押し寄せ、衛兵隊と激しく衝突していた。投げられた石、叫び声、そして魔力を使った小規模な攻撃が飛び交い、街は戦場の様相を呈していた。
「これ以上、近づくな! 鎮圧せよ!」
騎士団の指揮官が叫ぶ。だが、民衆の数は圧倒的だった。彼らの目に宿る絶望と憎悪は、兵士たちの剣を躊躇させるほどだった。
その中に、エリオットはいた。彼女は最前線で剣を振るい、民衆を傷つけずにいなそうと奮闘していた。しかし、その顔は苦痛に歪んでいる。民衆から聞こえる悲痛な叫び、飢えに喘ぐ子供たちの声が、彼女の心を抉る。
「なぜ、我らはこんな目に遭わねばならぬ! 貴族は腹を満たし、巫女はただ飾られているだけか!」
「聖樹の祝福など嘘だ! 我らは見捨てられたのだ!」
エリオットは剣を振るう度に、その罵声が、真実の響きを帯びて心に突き刺さるのを感じた。彼女が守るべき王家は、本当に民を愛しているのか? この豊かさは、一体誰のためのものなのか?
その時、一人の痩せこけた男が、エリオットの隙を突いて食料庫の扉に魔法の爆弾を仕掛けようとした。
「やめろ!」
エリオットは叫び、駆け寄るが間に合わない。その時、彼女の横を、一つの影が素早く駆け抜けた。
「私が参ります!」
セドリックだった。彼は迷いなく男に飛びつき、爆弾を阻止しようとする。爆発の光が、あたりを閃光で包み込んだ。
「セドリック!」
煙の中から、セドリックの苦悶の声が聞こえる。爆発は小規模だったが、至近距離で受けた彼は、瓦礫の中に倒れ伏していた。その腕には、酷い火傷を負っている。
エリオットは駆け寄り、セドリックを抱きかかえた。彼の顔は煤にまみれ、意識は朦朧としている。
「バカなことを…なぜ一人で…!」
「あなたを、守りたかった…!」
セドリックは、辛うじてそう呟くと、意識を失った。彼の瞳は、最期までエリオットを見上げていた。
エリオットの理性の糸が、ぷつりと切れる音がした。怒りでもなく、悲しみでもない、ただ、彼女の心に、これまで感じたことのない激しい感情が渦巻いた。
このままではいけない。何かが、根本的に間違っている。
彼女は、傷ついたセドリックを抱きかかえ、立ち上がった。その琥珀色の瞳は、これまでの迷いを捨て、新たな決意の光を宿していた。王都の華やかな光は、もはや彼女の目には届かない。彼女の視線の先には、闇に沈む下層区の、民衆の悲鳴と、燃え上がる怒りの炎だけがあった。