第1章 華麗なる檻の輝き
王都アルカディア。その名は、遥か古の言葉で「楽園」を意味した。文字通り、この国の中央にそびえる都は、地上に築かれた奇跡そのものだった。魔法技術の粋を集めたクリスタルの尖塔は、夜空へと吸い込まれるように伸び、先端に埋め込まれた聖なる輝石が、満天の星々にも勝る光を街中に降り注ぐ。舗装された大通りには、魔法の動力で動く「風翔艇」が優雅に行き交い、その流線形の機体はまるで空を泳ぐ魚のようだった。
ヴァレリアン公爵邸は、そんなアルカディアの最上層区でもひときわ目を引く場所に位置していた。広大な庭園には、季節を問わず色とりどりの花々が咲き誇る。これは、純粋な魔力によって維持された奇跡の庭。そして、その奇跡の中心にいるのが、公爵家の一人娘、リリアーヌ・ド・ヴァレリアンだった。
「リリアーヌ様、今日の御召し物はこちらでいかがでしょう? 聖樹の巫女の儀式に相応しい、新緑を思わせる色合いでございます」
侍女の声に、リリアーヌは窓辺から振り返った。深緑のシルクに金糸で聖樹の紋様が刺繍されたドレスは、ため息が出るほど美しい。彼女は、この国の豊穣と民の平穏を司る「聖樹の巫女」として定められていた。遥か古代よりヴァレリアン家に受け継がれる血には、聖なる樹の魔力が宿る。リリアーヌの指先から放たれる微かな光が、枯れかけた植物を蘇らせ、実りに恵みを与える。その奇跡の力が、このアルカディアの繁栄の源なのだと、王は、宰相は、そして民は信じていた。
故に、リリアーヌの生活は、一切の不自由なく、そして一切の危険から隔絶されていた。彼女のいる場所は、最も安全な「檻」だった。
「ありがとう、マリア。でも、こんなに豪華な衣装でなくても…」
「とんでもございません! リリアーヌ様の聖なるお力があればこそ、この国は潤っているのです。巫女様の美しさは、この国の繁栄の象徴でございます」
マリアの言葉に、リリアーヌは微笑みながらも、胸の奥に小さな違和感を覚えた。本当に、そうだろうか? この繁栄は、本当に皆に等しく降り注いでいるのだろうか。
午後。リリアーヌは、公爵邸の図書室で、古びた地理書を広げていた。聖樹の巫女としての教養は、この国の歴史と魔法、そして「世界」を知ることだと言われている。しかし、書物の中で描かれる「下層区」の記述は、いつも曖カイで、現実味がなかった。
「…下層区の民は、王家の慈悲により慎ましく暮らしている…」
そう記された文字を指先でなぞる。果たして、本当にそうなのか?
「リリアーヌ様、休憩の時間ですよ」
背後から優しい声が聞こえ、リリアーヌは顔を上げた。そこに立っていたのは、すらりとした長身に、銀色の髪を短く切り揃えた、凛々しい騎士、エリオット・ド・グランヴィルだった。王宮騎士団の黒い制服に身を包んだ彼女は、騎士団の中でも一目置かれる存在だった。
「エリオット、もう時間?」
「ええ。あまり根を詰めると、御体に障りますから」
彼女は男として育てられ、王宮騎士団へと入った、リリアーヌの幼なじみであり、最も信頼する近衛騎士だ。彼女の騎士としての腕は誰もが認め、若くして騎士団の小隊長を務めるほど。その瞳は常に理性的で、感情の揺らぎを見せることはほとんどない。だが、リリアーヌは知っていた。彼女の瞳の奥に、自分と同じ、いや、それ以上に深い思考が宿っていることを。
「ねえ、エリオット。この本には、下層区のことが、とても穏やかに書かれているけれど…本当にそうなの?」
リリアーヌの問いに、エリオットは一瞬、表情を硬くした。
「…公爵邸からでは、見える景色も限られますから。書物の内容は、時に古く、そして都合の良い記述に塗り替えられることもあります」
エリオットはいつも、こうして曖昧な答えを返す。決して嘘は言わないが、真実の全てを語ることもない。彼女のその慎重さに、リリアーヌは漠然とした不安を覚えるのだ。
その時、図書室の扉がノックされた。
「エリオット様、失礼いたします。警備隊長から、巡回報告でございます」
現れたのは、エリオットの部下であり、常に彼女の傍らに立つ騎士、セドリック・ド・ラ・クロワだった。彼はエリオットより少し年下だが、真面目で実直な性格だ。青みがかった銀の瞳は、常にエリオットの背中を、まるでひだまりを求める子猫のように慕っているのが、リリアーヌには見て取れた。セドリックの想いが、エリオットに届いているのかどうかは、誰にも分からなかった。
「わかった。すぐに行く。リリアーヌ様、失礼いたします」
エリオットは一礼すると、セドリックと共に図書室を出て行った。セドリックは、エリオットの背中を追いながら、時折、彼女の顔を心配そうに覗き込んでいる。その姿に、リリアーヌは寂しさを覚えた。自分には知りえない、彼らが知る「世界の影」があるのだろうか。
その日の夜、アルカディアの夜空を彩る「星の祭典」が開催されていた。王宮を舞台に、貴族たちが豪華絢爛な舞踏会に興じ、魔法の光が街中を覆い尽くす。王都全体が、まるで一つの巨大な宝石箱のようだった。
リリアーヌも、エリオットの護衛のもと、舞踏会に参加していた。軽やかなワルツの調べがホールに響き渡り、貴族たちは笑顔で杯を傾けている。誰もが、この繁栄が永遠に続くことを疑わない、完璧な世界。
エリオットは、そんな喧騒の中で、一人静かにホールを見渡していた。彼女の瞳は、華やかな装飾や楽しげな人々の奥にある、何かを見透かしているようだった。彼女の視線が、ふと、窓の外に向けられる。王宮の高い塔からしか見えない、遥か彼方の闇。クリスタルの光も、魔法の祝福も届かない、王都の「外側」だ。
「エリオット、どうしたの?」
リリアーヌが尋ねると、エリオットは微かに首を振った。
「いえ。ただ、この光景が、あまりに完璧で…」
完璧すぎるゆえに、どこか危うさを感じる。エリオットの心に広がる、漠然とした違和感。
その時、エリオットの懐にある、王宮騎士専用の小型通信機が微かに振動した。それは、緊急時を知らせる信号だった。彼女は周囲に悟られないよう、そっと手を伸ばし、通信機に触れる。
受信した情報は、たった一言だった。
『魔力の変動を確認。王都西方、聖樹の森方面より。異常な高まり』
エリオットの表情から、一瞬にして感情が消えた。瞳の奥に、警戒の色が宿る。リリアーヌは、その変化を見逃さなかった。
「エリオット…何かあったの?」
エリオットは、リリアーヌに背を向け、窓の外の闇を見つめた。その先には、王都の光を隔てるように広がる、古くから神聖視されてきた「聖樹の森」がある。かつて、その森は聖樹の恵みと秩序の象徴だった。だが、今、その神聖な場所から、不穏な魔力の脈動が感知されたという。
舞踏会の音楽は、陽気に響き続ける。誰もが、この完璧な夜の終わりを疑わない。
しかし、エリオットの心には、既に嵐の予感があった。
この楽園の「檻」に、やがて来るであろう激しい嵐の兆候が。