3.魔王の側近
3.魔王の側近
魔族にとって、魔王は、絶対的な存在だった。
その眼光ひとつで、万の軍を黙らせる。
その咆哮ひとつで、天地を震わせる。
魔王直属の側近であるクルトは、魔王ジグラルドの圧倒的な力に心酔していた。
誰よりも高貴で、誰よりも孤高で、誰よりも美しい。
その背に立つ炎の如き威光に、クルトは心の底から憧れていた。
…それなのに。
「私は勇者に負けた。よって、人間界と和平を締結した。私は彼女と人間界で暮らす。留守の間、魔界をお前に任せたい」
そう言って、ジグラルドは玉座を去った。
ジグラルドが選んだのは――女勇者だった。
何故あの、忌まわしき勇者を?
光の神に選ばれし、人の希望。
剣を振るうと同時に、村では鍬を振るい、土を耕し、畑を育てる「泥まみれの聖者」。
かつて我らが国土を踏みにじり、配下の魔物を倒して回った、憎き敵。
「なぜあんな女が…!」
怒りと疑問が渦巻いた。
(私達は、勇者ごときにジグラルド様を奪われたのだ)
許せなかった。
魔王様が去ったあとの魔族の国は、まるで魂を抜かれたように静かだった。
その沈黙に耐えかね、クルトはある夜、勇者の村を訪れた。
そして、畑を壊した。
土を荒らし、作物を踏み、畝を崩し、苗を引き抜いた。
クルトは植えている作物の名も知らなかったが、勇者が大切にしている場所だということは、見ればわかった。
翌朝、泥にまみれながらそれを直している勇者の姿を、私は木陰から見ていた。
勇者は、息を呑んでひどく驚いた顔をした後、少し考えるそぶりをした。
そしてその後、ただ静かに畑を直し始めた。
…なぜ、怒らない。
なぜ、泣かない。
クルトには勇者の真意が分からず、ただその様子を眺め続けた。
少しすると、ジグラルドも作業に加わった。
その後、村人達も集まってきて、共に農作業を始めた。
クルトはその様子に、居ても立っても居られず、ついに姿を現した。
勇者は驚かず、優しい声で問いかけた。
「やっぱり、あなただったのね。気配、すぐに分かったよ。……あなた、ジグラルドの側近の人でしょう?何故こんな事をしたの?」
クルトは振り絞るように声を出した。
「このお方は……魔王様だぞ……。すべてを滅ぼすほどの力を持っている、気高く、強い方なのだ。……なぜ、お前みたいな……畑を耕すだけの女に……!」
クルトの声は怒鳴り声に変わっていた。それでも、勇者は穏やかな表情でこう言った。
「ジグラルドの手は、壊す為にあるんじゃ無いわ。美味しいご飯を作る事だって、壊れた畑をもう一度耕し直す事だって、人間界と魔界の和平を結ぶ事だって、何だってできるの。そしてそれは、あなただって、同じよ」
私は、彼女が憎かった。
…けれど、ふと見た先で――
ジグラルドは、勇者の方を見て、優しく微笑んでいた。
かつて、血と炎に染められた戦場で見せたことのないような、穏やかであたたかな笑顔だった。
(ああ、この方は……、こんな顔が、できるのか)
クルトがどれだけ敬意を持って仕えても見る事はなかった、その微笑み。
クルトは膝をつき、地面に額をこすりつけた。
「……ごめんなさい」
風が通り、土の匂いが香った。
「ジグラルド様のこと、ずっと憧れだったんだ。この方に相応しいのは、玉座だと思っていた。……でも、今、わかった。ジグラルド様が本当に笑える場所は、ここなんだ。あんたが……、あんたがジグラルド様の心を、救ってくれたんだな」
私は顔を上げ、深く頭を下げた。
「どうか、ジグラルド様の事を……よろしく頼む。エマ」
エマは、黙ってクルトの手を取り、汚れた手袋を外した。
その手は、優しい土と温かい太陽の匂いがして、少し泣きそうになった。
今まで黙っていたジグラルドが、初めて口を開いた。
「……クルト、お前も来るか?この村に。お前が来るなら、魔王城の守備は他の者に任せても良い」
クルトは泣きそうになりながら、ただ首を振った。
「……ありがとうございます。ですが、今の私には、その資格がありません。でも、いつか。いつかその日が来たら――。私も、畑を耕せるようになっていたら、そのときは、また、誘ってください。今は、ジグラルド様に代わり、私が責任を持って、魔王城を守ります」
その言葉に、ジグラルドとエマは微笑んだ。
太陽が沈み、土が赤く染まる。
「では、私は魔界へ戻ります」
クルトはそう言うとゆっくり立ち上がり、背を向けた。
「待ってるから」
クルトの背に、エマの声が届いた。
〜〜〜〜
穏やかな日々を覆すような事件が、嵐の様に突然訪れた。
クルトが人間界を去ってしばらく経ったある日、エマが突如姿を消した。
ジグラルドと村人が村中探し回るが、エマの姿はどこにも無い。
何か胸騒ぎがする。
ジグラルドは、1人、暗雲が立ち込める天を睨みつけた。