「よき隣人」はいかにして愛する女性をさらうにいたったか
よき隣人。
サイモン・プレインとその妻ヴィクトリアと短時間でも接したら、誰もがそんな印象を抱くだろう。夫妻は礼儀正しく、折り目正しく、相手に不快感を与えるような言動はしなかった。
どちらも大柄であることを除けばごく平凡な、平均的な容姿をしている。取り立てて美男でもなければ美女でもない。だが、醜い訳でもない。唯一、どちらも均一に染めたような、現実離れした綺麗な金髪をしているのだけは目をひいた。特にめずらしくもない茶色の瞳には怯えが見てとれる。
夫妻の没個性な顔立ちと高い身長、それに痩せていることから、ランウェイを自信満々で歩くモデルを連想していたジョナソン・ウィールは、ふたりがそういった感情――怯え、それに戸惑い、困惑、はっきりとした恐怖――を目にたたえているのに、奇妙な違和感を覚えた。実際のところ、ふたりがそういう表情をするのはなにも不思議なことではない。
しかしそれでも、ジョナソンはそれを奇妙だと感じていた。何故なら、このふたりの高校生の息子が目下、女性を誘拐して逃亡しているからだ。十代の荒れた子どもを持った親というのは、こんな憔悴した様子を見せるものなのか? 彼らがしっかり子どもを見ていなかったから、彼らの息子は犯罪に手を染めたのではないのか? 女性をさらうような少年の親ならばもっと憎たらしいのでは?
*
「トーマス?」
奇妙な抑揚のついた、か細い声がして、トーマス・プレインは振り返った。彼はクール・エイドのはいったプラスチックのグラスを持っていたが、実際のところ注いだ瞬間から中身はほぼ変動していなかった。時間が経って水分が蒸発した以外では。
常夜灯だけが点いているくらい廊下へ通じるアーチの下には、ミネコが立っていた。トーマスの家にホームステイしている、日本からの留学生だ。
ミネコ。
トーマスは彼女の名字を覚えるのに苦労していた。何度口に出しても、ミネコはゆっくり頭を振って、苦笑いになる。そうして、自分の名字の正しい発音を、トーマスという出来の悪い生徒になんとか教えようとしてくれるのだが、今のところそれはうまくいっていなかった。
彼女は小柄で、少しふっくらしている。頬などふくふくしていて、にこにこ笑っているのでとても子どもっぽく見える。そして、笑顔以外を見たことがないくらいに、いつも笑っていた。その為に、細い目が尚更細く見える。ちょこんとまるまっちい鼻で、アジア人らしい色の肌で、唇はうすい。きらきらした、石炭のような黒っぽい瞳だ。そして、完璧な形状の眉と、豊かで長い、ほとんど癖のない黒髪をしていた。
パーツを見ると、さほど美人ではない。だが、ミネコの顔は素晴らしく、バランスがよかった。彼女はあらたまった席以外では化粧をしないし、体型維持にも気を遣っている様子はないが、見る者に不快感を与えるような部分はなにもない。微笑んでいる彼女も満面の笑みの彼女も、たまに真剣な顔で課題に取り組んでいるのも、魅力的だった。トーマスはそれに嫉妬のような、羨望のような、なんとも云えない感情を覚えていた。彼女は街を歩いていて、他人に笑われているのではないかと怯えることは、一切ないだろう。誰かにばかにされているのではと考えて胃が痛くなることだってないに違いない。
「やあ」
トーマスは疲れた声を出し、グラスを持ち上げた。「飲む? 砂糖をいれすぎたから、甘いけど」
「うん?」
ミネコはここに来てからもうひと月経つのに、トーマスに馴れ馴れしくすることはなく、控えめな態度を崩さない。トーマスはそれを好ましく思っていた。幼馴染みの女の子に昔のように扱われるのは、近頃苦痛だったのだ。その点、ミネコはトーマスをひとりの人間として、一人前の男として扱った。
そして、彼女は英語をあまり理解していない。それも、トーマスの気持ちを楽にした。ミネコ相手になら、本音が出ても困らない。特に、トーマスが部屋でぶつぶつつぶやいているような汚い言葉は、ミネコは意味どころかその存在すら知らない。彼女に汚い言葉を聴かせるのはいやだったが、彼女と居るのはリラックスできることで、だからトーマスはつい、彼女に対して愚痴っぽくなってしまう。彼女が理解できない言葉を云ってしまう。
ミネコは猫のような足運びで、台所へはいってきた。彼女はふっくらしているけれど、あしおとをたてて動くことはない。いつでも静かに、ゆっくりして見えるのにすばやい動きで、いつの間にか傍に居る。君は猫みたいだと一度云ったことがあった。ミネコはくすくすして、何度かの話が通じないラリーのあとに、ミネコのネコは日本語だと猫と同じ音だと教えてくれた。
こうやって近付いてきたのが英語圏で育った人間なら警戒したが、ミネコは可哀相なくらい英語を理解できていないから、トーマスはそれで安心できる。わかってもいない会話を聴いてにこにこしている彼女を、愛しいとさえ思えた。一度など、トーマスの同級生達が彼女の前で露骨な話をしたのだが、彼女はにこにこして聴いていたくらいだ。意味がわからなかったのだろう。
トーマスはそいつをたしなめたが、彼はふざけて鼻先を舐める真似をしただけだった。ミネコに対してそういう不快な悪ふざけをする同級生に、途轍もなく嫌悪がわいたが、さりとてトーマスにできることは、そいつをたしなめるくらいしかない。日本人留学生達はよく、そういう愉快ではないからかいの対象になっていた。理解できなかろうとなんだろうと、彼らはほとんど常に微笑んで、めったに声を荒らげることもないからだ。ちょっとした鬱憤をはらすのに、彼らは丁度いい対象だと思われている。
近寄ってきたミネコは、トーマスが掲げたグラスを、まじまじと見た。めずらしく笑みが消え、可愛らしい眉間に皺が寄っている。どうしたのだろうとトーマスは不安を覚えたが、ミネコはグラスの中身の色を観察していたらしい。口のなかで転がすような発生で云う。
「変な色」
「そうかな」
「おいしい?」
彼女は乏しい語彙で、なんとかトーマスと話そうとしているらしい。トーマスは言葉ではなくとも彼女に伝わるようにと、大袈裟に頷いた。「甘いよ」
「座っても?」
「どうぞ」
ミネコと喋る時は、自然と簡単な単語や、短いセンテンスを選んでいる。トーマスはひとと喋るのは得意ではないし、好きでもない。ミネコは今のところ、トーマスにとって一番楽に会話できる相手だった。難しい言葉は出てこないし、指さしたり、場合によってはつたない絵で意思疎通を試みるのは、楽しいことだ。その相手がミネコのように愛らしい女性なら、尚更気分はよかった。
ミネコは猫のように笑みをうかべ、椅子をひいて、トーマスの隣へ座った。彼女は子どもっぽい、ひきずるような丈のワンピースを着ている。袖もゆったりした長いもので、体の線はまったくわからない。十七歳でこんな格好をする女の子が居るのかと、トーマスは彼女の服装を毎回信じられない思いで見る。
「それって寝間着?」
「そう」
ミネコはワンピースの裾を軽く掴み、揺すぶる。プレイン家は皆、背が高いので、椅子も高いものだ。ミネコは足が床に届かず、子どもっぽい靴下がちらちらと見えた。体格の割に小さな足をしているのが見えて、トーマスは心臓が一瞬、大きく打ったのを感じる。「これ、いいものなの」
「へえ……そう」
「トーマス?」
「うん」
「ごめんなさい、それはいらない」
ミネコは辿々しく云い、グラスを示す。「これって普通の色?」
ミネコの言葉に、トーマスはくすっとした。彼女が面白いことを云った訳でもないのに、笑いたい気分だったのだ。
トーマスはグラスを置くと、テーブルの上に揃えて置いてあるミネコの手を掴んだ。彼女は小首を傾げたが、まだ微笑んでいる。
「ミネコのおかげで、気分がよくなったよ。ばかどもの相手は疲れる。みんな、脳みその代わりにパスタでもつまってるみたいだから」
トーマスの云ったことの意味はわからなかったようだ。ミネコは反対に首を傾げた。トーマスはどうしようもない愛しさを覚えて、彼女を抱きしめたくなったけれど、しなかった。
*
「ミスタ・ウィール?」
廊下から、キャリーが顔を覗かせた。彼女の名字は聴いたのだが、ジョナソンはそれを忘れてしまった。当人もキャリーと呼ばれることを望んでいるようで、誰も彼女を名字で呼ばない。
ジョナソンは夫妻に断って、廊下へ移動した。リトルフォールというアメリカの片田舎のこの都市で、ここ〈アイリス〉は、一番大きなホテルだった。
そして今現在、このホテルは上からみっつの階が、ある人物によって貸し切られていた。ジョナソンが居るのは上からふたつ目の階で、そこには「事件」のごく近しい関係者、そしてその弁護士が集められている。
ただし、大多数の人間は「事件」とは云わなかった。そう表現することで事態が重くなると思っているみたいに、多くのひとが婉曲でもったいぶったいいまわしをした。プレイン夫妻の息子、トーマスが、ホームステイしていた女子留学生を車に乗せて、早朝に家を出て行き、それから五日も戻っていないというのに。
*
「ミネコ、頭痛はよくなった?」
トーマスが声をかけると、庭のデッキチェアの上に居るミネコは、ゆっくり振り向いた。豊かな黒髪がゆらゆらと揺れ、彼女の肩から落ちる。彼女の髪はしっかりとした質感で、触ると手に跡が残る。一度だけ触ったことがあった。たった一度だけ。あれはなんの時だったっけ? トーマスは思い出そうとしたが、できなかった。このところ、記憶が奇妙に虫喰いになることがある。常に疲れている気がして、集中力にも乏しく、なにをしていても中途半端になっている気がする。
トーマスはクッキーの袋と、ドクターペッパーの缶をふたつ持っていた。それを掲げ、ミネコに見せる。ミネコは現実感がないような微笑みをうかべていたが、表情がかすかにくもった。「食べない?」
「それ、さっきのでしょう」
少しだけ上達したが、それでもミネコはまだ、英語を辿々しく喋る。日本人同士だとなにやら楽しそうに日本語で、それも長文で喋っているが、トーマスはほかの女の子がぺらぺら喋るのと比べたらミネコは可愛いと思っていた。ミネコの少し高くて、日本語を喋る時に抑揚のつく声が、好きなのだ。彼女の喋る声には、なにかしら音楽的な響きがあった。
勿論それ以上に、意味がわからない、というのが大きい。ミネコは屈託がなく、ほかの日本人留学生達も柵のなかの羊のようにおとなしい。
とはいえ、きっと悪口や愚痴も云っているだろうけれど、日本語を理解できないから意味もわからない。どこか遠い国の音楽を聴いているようなもので、自分のことを笑っているのではないかと思いなやむ必要はなかった。ミネコがそんなことを喋る必要もないし……彼女だけはそんな話をしない気がする。
そういう理想や期待が大抵、無残に打ち砕かれるとトーマスは知っているが、それでもミネコのことだけは信じたかった。彼女だけは綺麗で、悪いものとは関係がないと思いたかった。
トーマスはミネコが座っているデッキチェアの、あいたスペースに、無理に腰掛けた。ミネコはいやがらず、少しだけ横にずれて、トーマスが座りやすいようにしてくれる。トーマスはクッキーの袋を掲げる。「はい」
「……いいの?」
「丸々一袋あまってたんだ。僕らが食べなかったら、両親はこんなものでも寄付にまわしてしまうよ」
ミネコの膝に、口を開いたクッキーの袋を置く。彼女は相変わらず、野暮ったい服を着ていた。体の線ははっきりせず、生地は無駄に重なってふわふわとひろがっている。
ミネコは何着もの服を持っていて、服装に気を配っていたが、おもに体を隠す方向にだった。彼女はスカートなら、膝下の丈のものしかはかない。そして、トーマスは彼女がずぼんをはいているのを見たことがなかった。上等そうな布をわざと沢山つかったような服は、日本人留学生以外の同年代の女の子達からは、子どもが親戚の結婚式に出るみたいな格好だと、こっそり笑われていた。もしくは、クリスマスカードの写真を撮る為に正装している幼稚園児みたいだと。ところが、親達やそれよりも上の世代になると、露出が少なくて大変宜しい、ということになる。
トーマスは袋から、その辺の赤ん坊よりも重たそうな/分厚い/チョコチップたっぷりの/たまごの香りがする/バターと砂糖をどれだけつかったか考えたくもないクッキーをとりだして、わざと音をたてて割った。大きなほうをミネコに渡すと、彼女は微笑んでありがとうと云ってくれた。そのことでトーマスは満足した。彼女は礼儀正しくて、俺を尊重してくれる。ほかの人間とは違う。彼女だけは俺をわかっているし、俺をないがしろにしないし、俺をばかにしていない。
割ったクッキーを、ふたりはかじる。そのクッキーは、トーマスの母親が持って帰ったものだ。職場でなにかいいことをし、そのお礼にもらったのだと云っていた。毎度のことなので、トーマスはしっかり聴いていなかった。母親の話をしっかり聴くことは、このところ苦痛だった。彼女は口を開けば、ひとの為だの、世界の為だの、そういうことを云う。最終的には、自分がどれだけ家庭、もしくは地域、またはアメリカ社会、ひいては世界に貢献しているか、という話になる。母親がはっきりとそう云う訳ではないが、トーマスは、彼女の言外に匂わせた自慢を、敏感に感じとっていた。だからしっかり聴かないのだ。いやになるのがっわかりきっているから。
ただ、あなたが食べたいならどうぞ、それかミネコにあげたら、と云われたのに頷いたのだけは、はっきり覚えている。
トーマスの両親は慈善事業に心血を注いでいて、それらはふたりの人生で大きな比重を占めていた。トーマスや彼の兄のジョージにも、両親は、そういうもの――慈善活動、ボランティア、社会貢献、世の為ひとの為になること――が人生においてどれだけ大事かを教えてきた。
人間はひとに認められ、信頼され、尊敬され、感謝されなくてはならない。
だから、ボランティアや、すすんでする親切、家の手伝いは、人生に欠かせないものなのだ。そういったコミュニティでの貢献が人間の価値を決めると、トーマスの両親は疑っていなかった。そして、それが世界平和や神の国の到来につながるのだと信じていた。
両親はよく、お礼にもらったとお菓子やなにかをもって戻ったし、実際にそれらは誰も手をつけないとどこかへ寄付される。ばかばかしいことに。
トーマスも兄も、家の手伝いはすすんでしたし、親のいいつけをまもって年長者へは敬意を払い、汚い言葉をつかわず、週末にはボランティアに参加した。兄は最近、それをいやがって両親と喧嘩しているが、トーマスはそんなことはしない。それが実際正しいかどうかは別にして、彼は両親の言葉に従っていた。正しいのではないかとトーマス自身も思っていたからだ。
だが、嘘もある。両親はいいことをすれば神さまがそれを見ていて、人生もいいほうへ向かって行くと教えてくれた。悪いひとには悪いことが起こり、善いひとには善いことが起こる、と。
トーマスは同世代の男の子達と比べて、自分は品行方正で触法行為をすることもなく、折り目正しい礼儀正しい人間だと思っていたし、そのようにしようと努めてきた。ボランティアだってやっていた。近所の草むしりや、お隣さんの車の整備を無償で手伝った。
でもいいことは起こらない。起こっていない、と彼は思っている。
ミネコがクッキーを割り、大きいほうをさしだす。トーマスはそれがどういう意味の行動か、しばらくわからなかった。ミネコが小首を傾げる。「いらないの?」
「……あ! ああ、ありがとう」
トーマスはどぎまぎしながら、クッキーをうけとった。彼女は、俺にくれたのか? クッキーを。その大きな欠片を。ふたつに割って、大きいほうをくれた。
そんなのは誰にだってすることじゃない。誰にでも出来ることでもない。
ミネコは微笑んで、自分の手に残ったクッキーをかじる。トーマスはぎくしゃくと、デッキチェアに缶を置く。遠くはなれた隣家から犬の鳴き声がした。この辺りはリトルフォールでも端のほうで、田舎のなかでも更に田舎だ。車で数十分かけないと、喫茶店にも行けない。
トーマスは空に星がちかちかと瞬くのを見ながら、自分の車を持っていないことをひどく残念に思った。母と父の車はあって、それを借りることも出来るが、その時ほど自分の車をほしいと思ったことはなかった。
もし自分の車があれば、誰にも秘密でミネコを街までつれていって(彼は自宅のある辺りは「街」の一部だとは思っていなかった。そういう行政的な区画は彼のなかでは小さなことなのだ)、記念日に家族で行くステーキハウスや、カラフルでおいしいケーキを食べられる喫茶店へ行ける。どういう訳だか、それを両親の車を借りて行うイメージはわかなかった。彼女とのことは静かに、密かに、ふたりだけのこととして行いたい。ミネコとふたりだけで、何日間も車を飛ばし、あてのない旅を出来たらどれだけ楽しいだろう。そんな根無し草のような生活は、両親が絶対にゆるしてくれない。堅実で、地に足のついた人生を送ることこそ、ひとにゆるされた最大限の神への奉仕だ。でも、短い期間の旅行だったらなんとかなるかもしれない……ああ、ふたりに頭を下げて物事を頼むのはいやだ……。
「トーマス、ありがとう」
「え?」
我に返り、トーマスは彼女を見た。彼女は相変わらず、いつでも笑顔だ。でも今は、その笑顔がいつもよりもかがやいていた。少なくとも、トーマスにはそのように見えた。まるで、彼女は内面から光りかがやいているみたいだ。「とってもおいしい。たまごが沢山」
「……もっとおいしいものがあるよ」
わからなかったのか、彼女は小首を傾げる。トーマスは、中古車をさがしに行こう、と思う。さいわい免許は持っているし、ほしいものを買う為にバイトの給料を貯め込んでいた。それは後回しにして、中古車を手にいれよう。
部品を大幅にとりかえないといけないものであれば、きちんと動く車よりも安く手にはいる。以前友人のダンカンが、ほんの700ドルでぼろぼろの車を手にいれたことを自慢していた。彼はそれを整備し、今ではその車で通学している。
ガレージには、両親が車の整備につかっている道具や、父親がたまに手にいれてくる部品があった。敬意を払って頼めば、部品をつかわせてくれるだろう。その分の代金だって支払える。
車を整備して、彼女をどこかへつれていきたい。どこでもいい。目的地が重要なのではなく、彼女と一緒にどこかへ行くのが重要なのだ。
*
キャリーの案内で、ジョナソンは上の階へ移動した。そこにはリトルフォールでは名の知れた政治家や教育関係者、実業家、正体不明のアジア人、保安官らしき人物、そしておそらく自分と同業らしき男性も居た。
最上階はワンフロア丸々、貸し切られている。彼らは広々した部屋で、ソファに腰掛け、或いは椅子に座り、もしくは窓の傍に立って外を眺め、していた。キャリーは彼らに軽くお辞儀して、奥へとすすむ。ジョナソンもそうした。知り合いを見付け、ジョナソンは軽くお辞儀する。
「マダム、おつれしました」
「ありがとう、キャリー」
しばらく歩いて、通されたのは寝室だった。
クイーンサイズのベッドの上、クッションに寄りかかって上体を起こしている黒髪の女性が、悲痛そうな声を出す。「お願い。お茶をもらってきて」
「はい、マダム」
「お砂糖は絶対にいれないで」
「かしこまりました」
キャリーが出て行く。
マダム、と呼ばれた女性は、胸におしつけるようにして電話を持っていた。ふっくらと肉のついた手をしている。ベッドの傍には十代と覚しい、アジア系の少年が立っていて、心配げに目をきょときょとさせていた。ジョナソンはその子と目が合い、かなり丁寧なお辞儀をされて面喰らう。
「ミスタ・ウィール?」
「はい」
はっとして女性へ目を戻すと、彼女は思いきり顔をしかめていた。
「わたしは誘拐されたミネコの母です」
被害者の母親、というのにジョナソンは、少なからず衝撃をうけた。ベッドに居る女性は声がやわらかく、顔がまるくて幼く、髪もつやつやとして、事前に聴いていた年齢に合致しない外見だ。
ここへつれてこられた時に、誘拐された女子生徒の母親が――というか家族が――ここを貸し切ったこと、母親が来ていることを聴いて、ジョナソンはできる限りどんな人物かを知ろうと、知っていそうな人物に片端から訊いてまわったのだ。女子生徒の母親は五十四歳だと聴いていた。プレイン夫妻はどちらも五十歳で、年相応の外見をしていたが、こちらの女性はまだ二十代と云われても信じるような見た目だった。
「マミと云います。我が家の名字はあなたがたには発音しづらいものだそうなので、そちらで呼んでください」
「マダム、わたしは」
「ええ、あなたはプレイン夫妻の弁護士ですよね? それにトーマスの?」
彼女は奇妙な抑揚のついた英語を喋っていた。「それはわかっています。わたし達のこの会見が、本来あまり宜しくないことだというのも」
「でしたら……」
マミはゆるく頭を振った。顔色が先程よりも悪くなっている。それを見ていると、ジョナソンは自然と口を閉じてしまった。
「でも、わたしは知りたいんです。ミネコはプレイン一家を信頼し、尊敬していました。ご夫妻のことも、長男のジョージという子のことも。なかでも特に、トーマスを信頼しきっていたんです。彼は紳士的で、礼儀正しくて、とても素敵な子みたいですね。ミネコが授業中に、先生がたの話す英語がわからなかった時には、ノートを見せてくれるだけではなく、ミネコが理解できるような簡単な英語で教えてくれるそうです。ミネコはトーマスを、おとぎ話に出てくる王子さまみたいだと云っていました。優しくて、素敵で、かっこよくて、いつも穏やかで。行方不明になる前日にたまたま、そんなことを彼女と電話で話したんです。彼女は有頂天でした。電話でどんな声を出していたか、あなた達に聴かせることができたらどれだけいいでしょう。ミスタ・ウィール、どうしてトーマスはミネコをさらったんですか? 彼女は彼を尊敬していました。わたしはトーマスが何故、ミネコに危害を加えたのかがわからないの。彼女の性格から、ミネコがトーマスに無礼な態度をとることはあり得ません。一体何故、うちの子が、信じていた相手にさらわれたの? 何故ミネコなの?」
残念なことに、ジョナソンはその答えを持ち合わせていなかった。
*
「プレイン、あのお姫さまと一緒じゃないのか」
トーマスはせなかをまるめ、思い切り肘でトーマスを「攻撃」したあとに声をかけてきた男子生徒を見ずに、口のなかで答えた。「彼女は今日は休みだよ」
「舞踏会でもあるのか?」
まったく面白くない冗談だったが、笑い声が複数聴こえてきた。トーマスは黙りこくり、唇を嚙む。
興味を失ったのか、彼をからかった生徒達は笑いながら立ち去った。壁になかばよりかかっていたトーマスは、姿勢を正し、ノートを抱えなおして、とぼとぼと歩く。彼は身長2m近いが、その背の高さを時折憎んだ。スポーツを生き甲斐にしているような連中は、トーマスのように体格に恵まれているのに、小さい頃に野球をやったくらい、という人間の存在を認めていない。素質のある者はスポーツをするのが当然だし、そうでないのなら背が伸びたのは間違いだと云わんばかりの態度をとる。そして、ああいうふうに、愚かにも実力行使してくる。
トーマスはスポーツに興味はなかった。見る以上の興味は。
たしかに、楽しいこともある。彼は小学生の頃、野球で完全試合を達成したことがあった。
当然、小さな子ども同士の話だし、トーマスはたまたまその時から背が高かったから、有利だったのだ。チームメイトも対戦相手の子達も身長1mそこそこなのに、トーマスは当時1m40cmほどあって――父方も母方も長身の家系だ。二歳上の兄のジョージは今、身長2m以上ある――、その差は大きかった。小学生にしては背の高いトーマスが振りおろすようにして投げる球は、「小さな子達」ではどうにも出来ないものだった。トーマスはあっさりと三振の山を築き、チームメイトとその家族は、十数年ぶりの完全試合に歓喜した。
だからトーマスは、スポーツに楽しい一面があることは承知している。勝負に関してすべてに云えることでもある。勝てば楽しい。だが、負けたら?
負け犬になるのはごめんだ。すでに人生がお仕舞を迎えそうになっているのに。いや、もうほとんどお仕舞みたいなものなのに。
俺ほどみじめな人間も居ない。
トーマスははじをかくこと、侮辱されることがこの世で一番きらいだった。この世で一番きらいなのに、神さまは彼をためすように、毎日のようにそんな場面をつくった。学校でこうやってからかわれ、小突かれ、ふざけ半分に殴られ、酷い時にはインクやジュースをかけられ、バイト先では理不尽な客に対応しなくてはならない。
トーマスはけれど、あらゆる面で優しい人間だった。頼まれれば断らずにひきうける。どれだけ無礼な言動をされても、自分はそんなことをしないように自制する。服が汚れたら洗えばいいし、洗ってもどうしようもなかったらこっそり捨てた。
だが限度というものはたしかに存在した。彼はそろそろ、自分が限界を迎えているのではないかと感じていた。特に、今年にはいってからろくなことが起こらない家が、苦痛で仕方なかった。
兄が合成麻薬を持っていることがわかり、両親は兄だけでなくトーマスの部屋まで定期的に「検査」するようになった。もともと見ていいTV番組ややっていいゲーム、読んでいい本に制限はあったが、それが更に厳しくなった。「友達もやってる」と交渉してなんとか残してもらったFPSをしていると、「こんなことを実際にやらないか心配だわ」としつこく云われ、いやになって結局しなくなってしまった。
両親が、信頼していた兄が、薬物だけでなくその後も度々問題を起こしていることで――兄はひとを殴って逮捕され、しばらくすると仕事を突然辞めてしまった――、子ども達をどう見たらいいかわからなくなってしまっていることは、トーマスにもわかる。だが、俺まで疑わなくてもいいじゃないかと、なにかにつけ怒りがわくのはどうしようもない。トーマスははじをかくのがいやだ。本当にいやなのだ。両親は今や彼に、日々、はじをかかせていた。疑いをかけ、心配していると口にすることで。
信用のない人間は価値がないのに。
「おかえりなさい、トーマス」
事故があったとかで道が封鎖され、遅れたバスで、日が暮れてから戻ると、エプロンを着けたミネコが台所に立っていた。彼女は今朝、熱を出し、寝込んでいた筈だ。
トーマスがなにも云えないでいると、ミネコはトマトを刻む手を停めた。こちらを向いた顔はいつもよりも少し白っぽい。ふんわりしたスカートに被せるみたいにつけた、フリルのエプロンが揺れていた。ほんの一日で少し、体重が落ちたのではないだろうか。頬がほっそりしている。微笑みも弱々しい。
だが、彼女はたしかに微笑んで、調理をしていた。しなくてはいけない作業をしているというよりも、楽しんでいるようにトーマスには見えた。「大丈夫。あと三回、抗生物質を服めば」
「ああ……そう。無理はしないで」
「うん。あなたのお父さまとお母さまは……」
ミネコは言葉が出なかったようで、外を示した。隣家の方向だ。それでトーマスは頷いた。「お産のことだね?」
ミネコには通じなかったが、そうとしか思えない。三日前から、隣家の飼い犬が苦しんでいるそうで、そのことをトーマスは聴かされていた。なにかあったら手伝いに行くとも。そういえば、ポーチに車が一台しかなかった。おそらく、獣医のところまで運ぶのを手伝っているのだろう。
ぱたんと音がして、自分が鞄を落としたのに気付いた。トーマスはのろのろと、それを拾い上げる。突然、手に力がはいらなくなった。それを意識する前に、鞄は意思を持っているみたいに床へ落ちていた。こいつまで俺にはじをかかせるのかと、不意に強い怒りがわいた。
「トーマス、疲れてる」ミネコの声はやわらかい。トーマスは頭を振った。今日、学校でなにがあったんだっけ、と思い出そうとして、ほとんどできない。なにもしていなかったみたいだ。ぼんやりして、無駄に生きているだけみたい。
「そうでもないよ」
「まってて」
ミネコは辿々しく云い、リビングを示した。「もう出来る。ジョージを呼んできて」
トーマスは笑ってしまった。彼女の、ジョージを呼んできて、は、母にそっくりだった。笑うと少しだけ呼吸が楽になって、呼吸が苦しかったことに気付いた。
ミネコは料理の才能があるようで、冷蔵庫のなかにあったものを組み合わせて、豪華なディナーをつくってくれた。粗挽き肉たっぷりのフレッシュなトマトソースが絡みついたペンネに、ここ何ヶ月かそんな用途にはつかわれていなかったオーブンでつくったシェパーズパイと焼きたてのパン、たまねぎとセロリがどっさりはいったスープ、こしょうが香る人参のサラダに、たっぷりのクリームとシロップ漬けのくだものをのせたカラフルなゼリーまで用意されている。
ゼリーはインスタントだが、それ以外は違った。ミネコはそれらを、冷蔵庫や保管室でしなびかけていた野菜や、かちこちに凍らせてあった肉からつくったのだ。信じがたいが、ミネコが辿々しい英語で説明してくれた。
忙しい両親も、誰からも料理を教わらなかった兄弟も、日常的には箱詰め、瓶詰め、缶詰の食品を愛用していた。インスタントのキャセロールやTVディナーが普通という食生活だ。勿論、お祝いや重要な行事の時には母がきちんとした料理をしてくれるが、このところはふたりともボランティアだけでなくジョージのことで忙しく、食事はなおざりになりがちだった。
トーマスが呼んできたジョージは、目をまるくして食卓を眺めていた。トーマスも似たようなものだ。図体の大きいふたりがそうしていると、滑稽だろうに、ミネコはくすりともしない。丁寧で落ち着いた手付きで、大皿から、料理をふたりにとりわけてくれる。「たべて」
「今日ってなんかのお祝いだっけ?」
ジョージが云い、ミネコは笑みをうかべた。細い目が一層細くなって、それが可愛いとトーマスは思う。それにやはり、猫のようだと。
おずおずと着席すると、ミネコはトーマスの前に、先に皿を置いた。「あじ、大丈夫かな」
兄弟は顔を見合わせ、お祈りをはじめる。ミネコはトーマスの斜に座り、肘をついてふたりを見詰めている。彼女はまだエプロンを着けたままで、袖はまくっていた。水滴がぽつぽつとついた前腕が、妙になまめかしくて、トーマスはお祈りをしながらそれを盗み見ていた。
料理は見た目だけでなく味も一級品で、ふたりはしばらくぶりに家で思うさま食べた。トマトソースは町のレストランで食べるよりもおいしかったし、ジョージは数回、スープをおかわりした。焼きたてのパンの香りの豊かさ、皮のぱりっと感、嚙みしめた時のもっちりした、おいしい食感は、なんとも表現しがたい感情を、兄弟に抱かせた。
しばらく夢中で食べ、おなかがいっぱいになったふたりは、口々にミネコに礼を云った。「おいしかったよ」
「ありがとう、ミネコ」
ミネコはくすくす笑いながら、残りをしっかりパックして、冷蔵庫へしまう作業を始める。兄弟は顔を見合わせ、汚れた食器を流しへ運び、まずはテーブルを拭いた。合板のテーブルは、よくよく見てみると朝よりも綺麗で、ぴかぴかとかがやいている。もしかしたらミネコが掃除をしたのかもしれない。
そう気付いたトーマスは、ジョージと並んで皿を洗いながら、リビングを見渡す。変化はあちこちにあらわれていた。床は隅々まで掃かれ、壁や天井を拭いた形跡もある。以前よりも清潔に見えるのだ。新聞紙や雑誌は一箇所にまとめられ、洗濯もの用のかごがからになっている。プレイン家では両親が忙しいので、手の開いている人間が洗濯をすることになっているのだが、トーマスは学業があり、ジョージは反抗しているのか、ここ数ヶ月洗濯には手をつけていなかった。乾燥機が壊れてからは、皆、更に洗濯が億劫になってしまった。洗濯かごには常になにかしらのものがあったのだが、ミネコはどうにかしてそれを片付けたらしい。
トーマスがミネコにそのことを訊ねようと口を開くと、丁度母親が這入ってきた。疲れ切った顔で、ふらふらと。
「あら、ふたりとも、偉いわね」
「ママ」
母は、TVに向かい合うように置いてあるソファに、体を投げるようにして座った。疲れがにじみ出ているが、表情だけなら満足そうだ。
洗った皿を乾燥機にいれていたジョージが、濡らしたタオルをもっていく。母はそれで目許をひやした。彼女はそれをよくやる。「ありがとう、ジョージ。あなた、今日は特にいい子だわ」
「パパは?」
「子犬達が路頭に迷わないように、飼い主をさがして電話をかけてるんじゃないかしら。それから、お隣のスティールさんに、母犬の去勢をすすめてるんだけれど、スティールさんはいやがってるの」
「ヴィクトリア」
やわらかい声で云いながら、ミネコが母に近付いていった。母はぱっとタオルをどけて、ミネコへ向けて微笑む。「ミネコ、ごめんね。あなた、具合が悪いのに、留守を任せてしまって」
「ううん。死にません。犬は死んだかもしれない」
ミネコは辿々しく云う。おそらく、自分は死ぬような状態ではなかったけれど、犬は危なかったと云いたいのだろう。彼女の優しさに、トーマスは胸を打たれた。そんなことを自然と口に出せるものだろうか?
ミネコはけれど、誇るようなことはなく、心配げにしていた。手にはいい香りを漂わせるマグを持っている。それをおずおずと母へさしだし、母は嬉しそうにうけとった。ひと口飲んで、ふーっと息を吐く。「ありがとう、ミネコ。あなたの淹れるコーヒーは凄くおいしいわ。あら、可愛いエプロンね」
「あの?」ミネコは冷蔵庫を示す。「勝手に……」
「ミネコが夕食をつくってくれたんだ」
トーマスは自分が喋ったことに驚いていた。
母が小首を傾げる。トーマスは云う。「ママ達の分もあるよ。あたためようか?」
「あら……ミネコ、そんなことまでしてくれたの? ありがとうね」
母が感じ入ったように、立ち上がってミネコの手を握り、優しく上下させた。感激した時に母がよくやる仕種だ。ミネコはほっとしたみたいだった。トーマスを見て、はにかんだように微笑む。
ジョージに肘で軽く小突かれた。トーマスはほっとしていた。彼女を助けることが出来た。彼女の不安をとりのぞくことが出来た。ああ、よかった。俺だって、ろくに言葉が通じない国で、なにかを説明しなくちゃいけなかったら、誰かに肩代わりしてもらいたい。それも、そうとわからないようにさりげなく。
今、できた。そのとおりに。
*
ジョナソンはマミのすすめでやわらかい座面の椅子へ腰掛け、脚を組んでいた。アジア系の少年は、ベッドをはさんでほとんど向かいで、同じような椅子に座っている。緊張しているのか、脚を組んでいない。彼は英語をしっかりとは理解していないようで、ジョナソンにはわからない言葉でマミと喋った。はりついたような微笑みだ。
ジョナソンが彼を見ているからか、マミが説明した。娘が居なくなって、疲れ、怯えている様子なのに。
「この子は日本に居た頃から、ミネコの友人なんです。同じ学校に留学するのが決まって、彼女は喜んでいたんです。友人がひとりでも居てくれたらありがたいって。彼女は引っ込み思案で、器用ではないというか、友人をつくるのがあまり上手ではなくて……」
「お嬢さんは優しくて、礼儀正しくて、可愛らしい子だったと、プレイン夫妻は云っていました」
ジョナソンは自分が喋るべきではないことは承知していたが、つい口を開いていた。
このようなケースははじめてなのだ。彼は戸惑い、うろたえ、心細さを感じていた。そこに、憔悴しきった様子のマミがあらわれ、結果として云うべきではないことを口にしてしまっている。
誘拐事件の加害者被害者、どちらの弁護もしたことはある。だが今回のように、誘拐なのか、それとも殺人なのか、トーマスは生きているのか死んでいるのか、なにもわからない状態で弁護をはじめたことはなかった。彼はどちらかというと、トーマスよりもその両親の弁護をするつもりでここへ来ていた。情況を聴いて、トーマスが生きているとは思えなかったからだ。一番いい結末だとしても、駈け落ちだろう。だとしたらどうして目撃者が、トーマスが女の子を無理に車へのせた、と云っているのか、わからない。それに……。
彼はまだ経験が浅い。弁護士になって間がなかった。プレイン夫妻から依頼が来たのも、夫妻の知り合いが以前つまらない訴訟を起こされ、ジョナソンがそれを依頼人の満足する形で決着させたからだった。そのもと・依頼人が、夫妻にジョナソンのことをすすめたのだ。
ジョナソンは唾を嚥む。マミがジョナソンを睨むように見ていた。少年ははりついた微笑みで、歌うような調子でなにか云い、マミが短く応じる。少年がまたなにか云う。ジョナソンは緊張に耐えきれず、再び口を開く。
「彼はなんと?」
「プレイン夫妻はいいかた達だと。それから、たまにトーマスを送り迎えしていたジョージはちょっと乱暴だったけれど、トーマスは優しくて、我慢強い子だと。だから今度のようなことは信じられないそうです。トーマスは不良ではないからと」
「彼はどこまで知っていますか」
ジョナソンがそう訊ねたのには理由があった。この……「誘拐事件」は、まだ事件にはなっていない。
誘拐された少女の家族は、なにか大きな権力を持っているらしい。警察が情報提供を呼びかけようとするのを阻止した、とジョナソンは聴いている。少女の家族から待ったがかかったのだ。
おそらく、彼らも駈け落ちの可能性を考えているのだろう。もしそうであれば、生きて戻った時に少女の名に傷が付く。だから大々的に報道することをゆるしていない。
サムライの家なんだよ、と、ジョナソンの顔見知りの警官が呆れ気味に云っていた。――サムライが、娘をさらわれたら、さらった男を殺すだろ。だから隠れてさがして、自分達で始末をつけるつもりかもしれないな。
「この子はミネコがさらわれたことは知っています」ジョナソンは思索からさめた。「彼女の靴が見付かったことは先程説明しました」
*
ミネコはいつも穏やかに微笑んでいて、英語を理解さえ出来れば勉強にも簡単についていった。彼女はばかではない。日本人留学生のなかで、一番成績がよかった。日本人グループはまったく生け贄の山羊のようで、よくカフェテリアや庭でかたまって、楽しそうにくすくす笑っていた。あのうちのひとりをそっとつかまえて、首をひねってしまっても、きっとすぐには気付かれないだろうとトーマスは思う。
「トーマス」
ミネコが両手をばたばたさせて走ってきた。日本人グループに目を遣ると、ミネコよりも小柄なシイナが、トーマスに大袈裟なくらいに手を振ってくれた。ほかの子達は軽く振るだけだ。トーマスは芝生に座りこんだまま、礼儀正しく微笑んで、手を振り返した。
ミネコはトーマスの隣へ、脚を折りたたむようにして座ると、肩にかけた鞄から、ジップつきの袋をとりだしす。「忘れてた」
「ああ、ありがとう」
トーマスは袋をうけとった。その時、ミネコの手に触れてしまった。やわらかくて、すべすべした手だ。ミネコはぱっと手をひっこめ、もうひとつ袋をとりだす。「これも」
「うん……」
トーマスは彼女が手をひっこめたことに動揺していたが、今度は手が触れあってもミネコがなにもしないので、ほっとした。単に、もうひとつの袋を渡したい気持ちが強かっただけだろう。
彼女が手をひっこめたことに動揺した自分にうろたえる。
トーマスはミネコと少し歩き、芝生に腰を下ろした。肌寒くなってきたので、ミネコはレースやフリルやリボンが沢山ついた、可愛らしい花柄の上着を着ていた。スカートのボリュームも増えている。
以前、夕食をつくってくれた日から、ミネコは頻繁に家事を請け負ってくれていた。両親はそれを申し訳ないと口では云うが、実際ミネコに頼り切っている。ミネコが食事をほとんどつくってくれるようになって、プレイン家は以前よりも、ぎすぎすした雰囲気がなくなっていた。両親は仕事に精を出し、トーマスは勉強に専念し、ジョージも破滅的な行動をしない。昼食も、ミネコがつくってくれるサンドウィッチがこのところは定番になっている。家に居るジョージにも、ミネコは丁寧に食事をつくって、あたためれば食べられるようにしていた。
ミネコは不思議なひとで、家事を苦にしていないようだった。トーマスにとって、家事はしなくてはならないものであり、家族という愛するひと達への奉仕、或いは家庭のなかでの自分の位置を確立する為の義務だ。けれど、ミネコにとっては料理も洗濯も掃除も、どれも楽しんでやること、大袈裟に表現するならば遊びのようなものらしい。彼女がトーマスの知らない歌を静かに口ずさみながら洗濯物を干しているのを、何度か目にした。その様子があまりに楽しそうで、トーマスは彼女を見ていたくて手伝いを買ってでた。以前なら、したくなくてもしなくてはならないことだと捉えていた家事は、ミネコがしているのを見るとなんだか価値のある行動のような気がしてくるのだから、不思議だ。
ミネコの行動がよい方向に影響したのかもしれない。ジョージはこの間、ふらっと出て行ったかと思うと、あたらしい職場をさがしだして戻ってきた。やきもきしていた両親に、車の整備士として雇ってもらうことになった、と平然といいはなったのだ。
ミネコは今、ジョージに、余分にクッキーやマフィンを渡している。力仕事だかららしいが、トーマスはそのことに、かすかに羨望を覚えていた。かなり強い嫉妬も。ミネコがジョージに、特別に気を配っているように思えるからだ。特別に配慮しているように。
だが今日は、サンドウィッチをいつもより多くくれた。ミネコは別に、ジョージを特に好きだから、余分にあげている訳ではないのかもしれない。彼女の云うとおり、ジョージの仕事が体力の要るものだからなのだろう。そのことにトーマスはほっとしていた。とても、安堵していた。
ミネコが不思議そうに自分を見ているので、トーマスは慌てて袋を開け、ライパンにチーズと、昨夜のローストチキンの残りをはさんだサンドウィッチをかじった。あるものを組み合わせただけなのに、ミネコのつくるものはなんでもおいしい。ミネコ自身はそれをなんでもないこと、普通のことのように捉えているが、これは得がたい才能なのではないかと思う。誰にでもできるようなことだろうか、これが。魔法みたいにおいしいものを用意して、嘘みたいに家中を綺麗にしてくれることが。
ミネコもサンドウィッチをかじり、トーマスを見ている。彼女は子どもみたいに、大きく口を開けてサンドウィッチをかじる。いつでもそうだ。クッキーも、大きな欠片を口へねじこむみたいにして食べる。それに愛らしさを感じ、じっと見てしまっていたトーマスは、ごまかす為に咳払いした。
「おいしいよ。ありがとう」
「うん」
「ねえ、シイナ達となんの話をしてたの?」
「海のこと」
ミネコはりんごとチーズのサンドウィッチを、おいしそうにぱくついている。トーマスも同じものをかじった。そちらのサンドウィッチは、パンもミネコがつくったものだ。「夏になると、行きたい。わたしは、泳ぐのは、好きじゃないけど、見てるのが好き。海を」
「そう……この近くの海は、綺麗だよ」
リトルフォールから、ほんの六時間も車を飛ばせば、すぐに海だ。夏になればその辺りのホテルは満室になる。トーマスも、去年までは毎夏、二週間ほどそこへ行っていた。バカンスではなく、両親の慈善活動に付き合って。
海の傍には盛り場があり、なにかしらの中毒になっているひとが大勢たむろしていた。ギャンブルでも酒でも薬物でも、なんでも。両親はそういうひと達を捕まえて、地元の支援団体へひきわたしたり、炊き出しに参加したりと、ボランティアをその時期にしていた。夏場なのは、自分達が大手を振って休みをとれるからだ。
だからトーマスにとってその海辺は、暴れるひと達を宥めたり、妙なものを吐くひと達を介抱したり、きっちり同じ量になるようにトレイに食糧を盛り付けたりする場所、なのだが、それでも海そのものはやはり綺麗だし、悪い印象は持っていなかった。
ひとりで買いものを出来るくらいになってからは、それを申し出て、行き帰りに必要もないのにゆっくりと浜辺や、海を見下ろせる崖を歩いた。背が高くしっかりした体付きのトーマスは誰からも子どもだとは思われず、絡んでくる人間も居ない。両親はトーマスが真面目にしているものと思って感謝するだけだ。
トーマスは自分が怠けているという後ろめたさと、なにも生み出せないことへの焦燥、自分で選んだのではないひとりぼっちの孤独や恐怖に小さく突き刺されるような感覚を覚えていたが、それを放っておいた。何度か、どうにかしようと手にとってみたけれど、どうにも出来なかったのだ。だから見ないようにした。忘れようと。最近は忘れようとしてもいないのに、時間がぽっかりと失われることが増えたけれど。コインの表も裏も結局はコインであるように、みじめな自分をひっくり返してもみじめなことにかわりはない。裏側は素晴らしかったなんてことはありえない。
トーマスはしっかりと、彼女を見据えた。彼女だけを。最近たまに、自分がなにを見ているか、なにをしているか、わからない時があった。視界がぼやけ、歪み、なにもかもが得体の知れない、正体不明のなにかに見えることがある。それは奇妙な心地だけれど、気持ち悪くはなかった。ただひたすらに空疎で、なにもない感じがするだけだ。でも彼女だけははっきりしている。しっかりと、そこに居る。
「トーマス?」
「ミネコ、一緒に海へ行こう。いい場所を知ってるんだ。凄くいいところ。海を見下ろせる。船が行き交っているのが見える場所だよ」
トーマスは、ミネコが英語の理解が辿々しいことを忘れていた。あまり意識していなかった。自分の云ったことならば、彼女は理解してくれると思った。
もしくは、理解しなくてもいいと思った。
「うみ?」
「そう。きっと、冬でも綺麗だと思う。もう少しお金を貯めたら、車を買える。いいのを見付けたんだ。約束もしてある。そうしたらジョージに手伝ってもらって、整備をして、そして……」
彼女は理解したのかしていないのか、微笑んで頷いた。「トーマス、授業がはじまってしまう」
「ああ、本当だ」
トーマスは彼女がもう食事を終えていること、自分が乾燥してしまったサンドウィッチを握りしめていることに気付いた。苦笑いでかじったサンドウィッチは、乾燥していてもおいしい。彼女はくすくすして、立ち上がる。たっぷりしたスカートをぱたぱたと叩く。その仕種を見ていると胸の奥がむずがゆい気がして、トーマスは目を逸らす。口のなかいっぱいに、サンドウィッチの味がした。彼女が日本へ戻ったら、こんなにおいしいものには二度とありつけないかもしれない。
トーマスは雷に打たれたようなショックに、動きを停めた。
ミネコは留学生だ。ずっとプレイン家に居る訳じゃない。いつか、日本に居る家族の許へ戻るのだ。
そのことを忘れていた。
ミネコはいずれ居なくなる。俺の前から。
彼女を失ったら、俺は本当の負け犬になる。
*
ジョナソンは脚を組みかえ、意識して呼吸を繰り返した。
キャリーが、ジョナソンにコーヒーを、そしてマミと少年にはお茶を持ってきて、配った。ジョナソンはマグを持ったまま、中身を飲めないでいる。マミはお茶をすぐに飲み干し、少年はキャリーに、お菓子を要求していた。微笑みはかわらないが、声にも体にも緊張感があふれている。随分冷静な子だと思っていたが、実際には違うのだろう。彼は緊張し、不安に思い、焦っている。だが、微笑んでいる、というだけだ。微笑んでいるからといって、彼が満足しているということにはなるまい。
キャリーは袋菓子を幾らか持ってきたが、少年はそれを断り、マミがなにか云った。キャリーはすぐに、アーモンド菓子のようなものを持ってきて、少年はそれに口をつけた。
「ミスタ」
ジョナソンは顔を上げ、少年を見る。彼は辿々しい発音で云った。「ミネコは、無事ですか?」
「それは……」
ジョナソンがなんとも云えないでいると、マミがなにか云い、少年がこわばった表情で頷いた。はじめて、微笑みが消え失せた。
「あなたのことを警察のかただと思っていたみたいです。プレイン家の弁護士のかただと云っておきました」
ジョナソンは迷って、結局マミに礼を云った。マミは少年にまた、話しかけ、少年は真剣な顔で頷いている。
「ミスタ・ウィール、僕、トーマスがどこへ行こうとしているか、知っているかもしれません」
少年が緊張をにじませながらもしっかりとした声で喋り、ジョナソンは口を半開きにした。
*
「トーマス」
トーマスが校舎へ這入ろうとしていると、シイナが駈け寄ってきた。トーマスは小柄なシイナを見下ろし、微笑みをうかべる。シイナは小柄なミネコよりも更に小柄だ。高校生には見えない。
「ミネコは……?」
「頭が痛いんだって。薬を服んだらよくなるって云ってたけど」
ミネコは昨日から、頭痛で寝込んでいる。彼女がつくって冷凍してくれているものがあるので、朝晩の食事には困っていないが、昼はりんごを持ってくるのが精一杯だった。ミネコが心配で食がすすまないから、トーマスは自分があまり栄養をとっていないことを、さほど深くは考えていない。
シイナはトーマスの云ったことを理解できなかったようで、困ったような表情をうかべた。トーマスは自分の頭を示す。「痛いんだって」
「ああ」
ミネコは今朝、薬を片手に台所に居たのだが、頭痛は以前からのことだと云っていた。そういえば数週間前にも、薬のシートを手にリビングのソファに座って、めずらしく無表情になったミネコを見たことがある。その数週間前にも、頭が痛いと云って、デッキチェアで横になっていた。どうやら、何週かに一回のペースで頭痛が起こるようだ。ミネコ当人は昨夜、いつもよりも酷い、と云っていた。トーマスは半月前に手にいれて、ようやくと整備の終わった車のことを口にして、病院へつれていくと提案したのだが、彼女は彼女らしくなくつめたく断った。にべもなかった。トーマスはそのことが、心に刺さった棘のようになっていて、そこから見えない血がだらだらと流れているように感じている。
トーマスの言葉を聴いたシイナは、得心した様子だ。おそらく、ミネコの頭痛を知っているのだろう。シイナとミネコは、幼い頃からの友人だと聴いている。本当に友人なんだろうか。
トーマスはシイナを見下ろしたまま、かたまっている。シイナはなにか喋っているが、トーマスはそれを理解できなかった。シイナの口がぱくぱくと動いているのをじっと見ている。もしかしたらシイナとミネコはなにか特別な関係かもしれない。なにかがなんなのかはわからないが、トーマスはそんなことを考えた。留学生グループのなかでも、ふたりは特に親しげにしていた。それにミネコが、シイナのことを楽しそうに話していた。何度か。彼女がそんなふうに話すのを聴くのは嬉しかったけれど、それが、自分以外の誰かに向けられた特別な感情に基づいたものだとしたら、面白くない。
特別な感情?
気付くとトーマスはたまに頷き、微笑んでいた。ありえない妄想をしているな、と思っていた。相変わらずシイナがなにを云っているかわからない。シイナは密やかに笑い、可愛らしく小首を傾げた。小さなシイナ。俺の片腕よりも軽そうなシイナ。簡単に殺してしまえそうなシイナ。
「トーマスの話をしてたよ」
「うん?」
「ミネコが」
ぐるぐるとまわっているみたいに見えた世界が、いつものように戻った。トーマスはききかえす。「なんだって?」
「ミネコが、一昨日、トーマスの話をしてたの」
シイナは可愛らしく云い、くすくすっと笑った。「彼女はあなたの話ばかりしてるよ」
「どんなことを……」
訊いてから、ミネコが俺の悪口を云っていたのなら聴きたくないと思ったけれど、遅かった。シイナはにっこりする。「あなたはとっても素敵だって。王子さまみたいって」
「彼女が、そんなことを?」
シイナはこっくり頷いた。子どものような仕種だ。トーマスはシイナの、細い目を尚更細めて笑っている顔を、じっと見ていた。ミネコに似ているけれど、シイナには特別な感情、特別に情緒を乱されるような、特別に執着するような気持ちが起こらない。ミネコが俺のことを噂していた。でも、陰口ではなかった。そうではなくて、俺をいい人間だと思っている。素敵だと。
シイナにとってはそれはなんでもない話だったようだ。そして、トーマスも同じ気持ちだと思ったらしい。ミネコの話をきりあげ、駐車場のほうを示す。「いい車だね」
「ああ……。兄貴と一緒に、整備したんだ」
トーマスはほとんど機械のように、シイナの言葉に応じていた。ジョージは、トーマスがたったの500ドルで手にいれた中古車を、一緒に整備してくれた。仕事だったら金をとるんだけど、とふざけて、でも決して金をとろうとはせず。塗装をし直したピックアップトラックは、この数日、トーマスとミネコが登校する時に活躍していた。
「あれで」トーマスは不意に、口にしていた。「彼女を海へつれていきたいんだ。ここから六時間もかからないくらいで……」
「ああ、彼女は海が好き」
シイナは大袈裟に頷く。「このことは、秘密にしておいたほうがいいよね」
「え?」
「彼女を喜ばせたいのじゃない?」
さっきまで憎たらしかったシイナが、天使のようにかがやいて見えた。なんて素晴らしいひとだろう。トーマスはシイナの肩を軽く叩き、ありがとうと云った。心から。そう、ミネコを喜ばせたい。彼女になんでもしてあげたい。それが自分の価値を高め、地位を確立する行動だから。
*
ジョナソンは少年と、こっそり、建物から出た。小柄な少年は弾むように歩き、ジョナソンの袖を掴んでひっぱる。高校生にしては幼い仕種だ。「ミスタ・ウィール、どれがあなたの車?」
「あのアイボリーのだよ」
少年はそちらへ行こうとしたが、ぴたっと足を停め、駐車場の柱に隠れた。ジョナソンもそうする。「君?」
「静かにして」
少年はついと、ふたりが向かおうとしていたほうを指さす。「トーマスの父親。あのひと、苦手」
覗きこむようにすると、成程少年の云うとおり、サイモン・プレインが居た。どうやら、車になにかをとりに来たようだ。ドアをすべて開けて、現場検証でもするみたいに姿勢を低くし、彼は小さな袋を拾い上げ、まともに施錠もせずにとぼとぼと歩いていった。
サイモンが消えると、少年はほっとした様子で柱の陰から出る。
「いいひとだけど、きらい」
「なんだって?」
サイモンに対してそういう評価をする人間が居るのが以外で、ジョナソンは思わず強めに返した。少年は傷付いたうさぎみたいな目で見てくる。ジョナソンは罪悪感を覚えた。「悪い、大きな声を出して。さあ、のろう」
「はい」
少年を助手席に座らせ、ジョナソンは車を発進させた。少年は地図を見て、なにやらぶつぶつささやいている。ジョナソンはとりあえず、〈アイリス〉の駐車場から車を出すと、彼に顔を向けた。
「水先案内人さん、どっちへ行けばいいの? ああ、ところで、君の名前を聴いていないね」
「アオイ」
少年……アオイは、ぱっと顔を上げた。「弁護士さん、あっちへ走って。多分この方向」
アオイの指示で車を走らせながら、ジョナソンはアオイから見たトーマスについて、彼の辿々しい英語で聴かされた。
トーマスは、礼儀正しく、英語に不慣れな留学生達を助けてくれて、「いいひと」だとアオイは感じたらしい。アオイ自身も何度も助けられたし、さらわれたミネコもそうで、彼女はトーマスを崇拝していた。
「ほかの子達は、ばかにすることがあったけど、トーマスは違う。彼はひとをばかにしない。凄く丁寧」
「ああ、それは聴いてるよ。彼のご両親から。トーマスは他人を傷付けるような子じゃない、そもそも悪口も云わないし、だからミネコをさらうなんて……どうかしたのかな」
アオイは顔をしかめている。「彼らはきらい」
「さっきもそう云っていたね?」
「何度でも云う。いいひとたちだけど、トーマスとは違う。彼らはきらい。トーマスは好き」
「それは、どうして?」
ジョナソンは純粋に疑問に思って、そう訊いた。アオイにとって、幼馴染みを誘拐したトーマスは、憎い相手ではないのだろうか。それに比べ、息子のしでかしたことをなんとか帳消しにしよう、息子の償いをしようと奔走しているプレイン夫妻は、好感が持てる。それが可能かどうかは別として。
渋滞につかまった。ジョナソンは減速し、車をほとんど停める。「アオイ?」
「あなたもだね。僕の名前をきちんと発音できない」
アオイはくすっとして、すぐに表情を曇らせた。
「あのひと達は、ジョージやトーマスより、慈善活動が大切だから」
「慈善活動をするのが悪いというのかな」
「そうじゃない! 程度の問題」
アオイはジョナソンを見る。ジョナソンはどきりとした。アオイの瞳は、深いブラウンで、それはジョナソンが子どもの頃、ポルトガル出身の祖母がつくってくれた焼きプリンの、蕩けるカラメルにそっくりだった。ここでそのひとが誠実かどうかわかるのよ、と祖母が云っていたことを覚えている。丁寧にプリンをつくるひとは、いつだって均一に綺麗にカラメルをつくる。粉の状態や、ワインの濃度や、オーブンのくせも理解して、おいしいものをつくりあげる。あなたも丁寧な仕事をしないといけないのよ、ジョナソン……。
アオイは子どもが大人の真似をするみたいに肩をすくめた。
「あのひと達はずるい。一方ではトーマスを子ども扱いして、でも一方では大人にした」
「……ええと?」
「トーマスは、いろんなものを制限されてた。本や、映画や……子どもだからだって」
「それはおかしなことじゃないだろう。日本では違うの?」
アオイは頭を振る。「同じだけど、大人扱いもしない」
「子ども扱いされてるのが嬉しいのかな」
アオイがなにか云ったが、日本語だったのでジョナソンにはわからなかった。アオイは腹立たしげに両手を激しく動かすが、言葉は出てこない。
それでもしばらくすると、彼はなんとか、ジョナソンにも理解できる言葉を口にした。「責任」
「え?」
「子どもに対する責任をとってない」
アオイの声はひややかだ。「トーマスを子ども扱いして制限をかけるのに、大人みたいになんでも自分で計画を立てて努力しろって云う。でも大人みたいに意見すると、子どもがくちごたえしたって怒鳴られる。彼、我慢してたんだと思う。一度だけ僕に話した。新年をお祝いしたい気分じゃなかったのに、親の機嫌が悪くなって、ゲームがどうとか遊びがどうとか云われたから、ご機嫌とりをしたって。したくもないのにパーティに参加して、お祝いを云った。そうしないと、なにかをとりあげられるかもしれないから」
アオイはいらいらと、床を一回蹴った。「彼ははっきり云わなかったし、忘れてって云ってたけど、不満を持ってた。親達に。自分が子どもなのか大人なのか、わからなくなってた。弁護士さん、考えてみて。対等ではないくせに対等のようなふりをするのは、単に威圧するよりも性質が悪いと思わない?」
*
「がっかりしたわ」
母親の声を聴きながら、トーマスは階段の途中でぼんやりしていた。がっかりしているのは俺だ。くだらない家族、くだらない親、くだらないルールやくだらない世のなか。
なによりも一番くだらないのは自分だ。
「トーマス、あなたどうしてこんなものを……」
母親が手にしているのは薬壜だ。部屋の姿見の裏に隠していたのに、なにかの拍子に見付けたらしい。どうして見付けたのか、母親ははっきり云わなかった。薬壜の中身は市販の、ごく一般的なものだった。憂鬱な気分に効く、と云われているもので、トーマスもそれを期待して購入したのだが、効果はいまいちだった。本当ならしっかりとカウンセリングをうけたほうがいいのだろうが、体面というものがある。はじをかきたくない。プレイン家で育ったトーマスの価値観では、精神科や心療内科に通うのははずべきことだった。そういう場所へは、弱い人間が行くのだ。弱くて、困難に立ち向かうことのできない、挫折した人間が。
みじめであることを自覚しても、それを他人に指摘されたくはない。
トーマスは肩をすくめ、二階へ行こうとしたが、無駄だった。薬壜を放り投げた母がトーマスの腕を掴み、階段脇の壁へおしつけたからだ。「きちんと話を聴きなさい」
トーマスは抵抗しなかった。暴力、腕力に対してやり返す気はない。
なにより、母親がそういう手段に出たのがショックだった。
鞄が肩から滑りおち、階段を転がっていく。今日は学校の放送機器を修繕する手伝いで、遅くなった。返った途端にこんなことを……。
「トーマス、あれはなに? 説明して」
ジョージは二ヶ月前、家を出た。職場に近い場所にアパートを借りたのだ。ここは町の中心地から離れすぎていて、出勤に時間がかかるから、同僚とルームシェアすると云えば、両親は納得した。薬壜には製造年月日が書いてある。ジョージが出て行った後に買ったことは母もわかっているだろう。だからここまで怒りを見せているのだ。トーマスがそんなものに手を出したと。
「母さん」トーマスは、苦労して声を出す。「あれは違法なものじゃない」
「だからなに? 違法じゃなかったらゆるされるの?」
「僕は単に……」
興味があった、ではだめだ。納得しないどころか、薬物に興味を持ったと「マーク」される。そうではない。
だが、憂鬱な気分をどうにかしたかった、と認めるのはいやだった。絶対に。それは、人生における敗北を、自分が負け犬であることを認めているのに等しい。
トーマスは自分の名誉と、人生における決まりとを天秤にかけた。嘘を吐いてはいけないという教えを破った。
「友達から預かったんだよ」
「なんですって?」
「そいつ、あれを家に置いておきたくないらしくて、だから僕が」
「トーマス、何故そんな嘘を吐くの? だったらどうして、あの薬壜と一緒にレシートがあったの」
レシートを捨てることができなくて、一緒に隠してあったことを忘れていた。トーマスは舌打ちしたい気分をこらえる。壁におしつけられたせなかが痛い。つめたい。
「どうしたの?」
はっとして、親子は体をはなした。
階段の下に、エプロンを着けたミネコが居る。彼女はまくっていた袖を戻す。
「ごはん……」
「ああ、ミネコ、ありがとう。ごめんなさい、あなたに任せてばかりだから、今日くらいはわたしも掃除をしようと思ったのに……」
それで俺の部屋に這入ったのか、と、トーマスは思う。
それから、彼女に見られた、と思った。母親に叱りつけられ、壁におしつけられているところを。
母親がはずかしそうに階段を降りていく。ミネコは足許に転がっている薬壜に気付いて、拾い上げた。
彼女の双眸がトーマスを捉えた。トーマスは目を逸らす。彼女にみっともないところを見られた。
「ヴィクトリア、これはわたしの」
「え?」
トーマスは信じられない思いで彼女を見た。
彼女は肩をすくめている。
「頭痛に」
「あ……あら……」母親がトーマスを振り返り、咎めるような目をした。「トーマス、それならそうと、どうして云わないの? そもそも、どうしてあなたの部屋に?」
「なくした」
ミネコは辿々しい言葉遣いだ。「トーマス、あなたが隠したの」
トーマスはなにも云わない。母親は溜め息を吐いて、ミネコの肩を撫でた。「ミネコ、ごめんね。トーマスはなにか勘違いしたんだわ。ジョージが妙なものに手を出したから、あなたもそうかと誤解したのね」
「ええと……?」
「あなた、頭痛が酷いって云ってたものね。トーマス、女の子の持ちものを勝手に触るなんて……気持ちはわかるけれど……」
母親がなにを云いたいのかはわかりきっていた。ミネコに謝るように促しているのだ。はっきり云わないところにいやらしさを感じる。いつも。ずるさを感じる。
「ごめん、ミネコ」
ミネコは頭を振る。母親は満足したようで、リビングへ這入っていった。トーマスはゆっくりと階段を降りる。ミネコはヴィクトリアを目で追っていたが、不意に、不安そうにトーマスを仰いだ。低声で云う。「ごめんなさい、トーマス」
「うん?」
「助けたかった」
「そう……ありがとう、ミネコ」
ミネコはほっとしたのか、いつものように微笑んだ。トーマスは、彼女を殺そう、と決意していた。
「トーマス?」
「行ってきます」
眠たそうな母親の声がしたけれど、トーマスは短く応じて階段を降りた。腕には眠っているミネコを抱えている。昨夜、あの薬を、のませた。クール・エイドにとかしたら、彼女は疑わずにのんだ。以前は断ったから今度は断らないでと頼んだ。しこたま砂糖をいれたから味も変だとは思わなかっただろう。ただ甘かっただけに違いない。
外の空気はつめたかった。車に彼女をのせるのに少してまどる。犬の鳴き声に顔を上げると、隣家の住人が数匹の犬をつれて歩いてくる。結局、子犬の引き取り手は半分しか見付からなかった。残りは隣家の住人が飼っていて、母犬はトーマスの両親の助言で去勢された。
「おはようございます、スティールさん」
トーマスがにこやかに告げると、彼は笑顔で応じたが、その顔がふと曇った。「トーマス、そのお嬢さんはどうかしたのか」
「いいえ、別に」
トーマスは苦労して、ミネコにシートベルトをさせ、助手席のドアをばたんと閉める。運転席へまわり、のりこんだ。開いた窓から身をのりだして、隣家の住人へ笑顔で手を振る。「それじゃあ、スティールさん、また」
「トーマス、待ちなさい……」
トーマスはアクセルを踏み込み、けたたましい犬の鳴き声から逃れた。
「海をみたいって云ってたよね」
トーマスは機嫌よく、彼女に云う。
「海は好きだよ、僕も。君に見せたいと思ってた。君をつれていきたいって。なにも計画しないで、ただ車を走らせるだけの旅をしたかったんだ。というか、君と居たかったんだよ。ずっと。なにも考えずに、誰にも邪魔されずに、ただ君と過ごしたかった。なにもせずに」
ミネコが唸る。トーマスは笑う。
「ごめん、君の上着を忘れてた。寒くない?」
「……トーマス?」
「こんなふうにはしたくなかったんだ。ほんとだよ。でも君が来てくれるかわからなかった」
ちらりとミネコを見て、トーマスは安堵した。ミネコは微笑んでいた。いつもみたいに。
景色がいいところがいい。
崖の上からは海がはっきり見えた。
トーマスは崖の縁に立っているミネコを見る。
彼女は先程までとは違う靴で歩いていた。折角、寝ている彼女に靴をきちんと履かせてつれてきたのに、どこかで脱げたらしく裸足だったから、買ったのだ。トーマスはそれに気付かなかった。彼女に対して喋るのに夢中で。彼女はトーマスがばかみたいに喋るのを、ひたすら聴いてくれた。頷いて、共感を示してくれた。途中、喫茶店で食事をとった時も、なんでもない土産物屋へ寄って靴を買った時も。
「それで、ばかみたいだけど僕は腹をたてたんだ」
「ばかじゃない」
「そうかな。とにかくいやだったんだよ。母さんの親戚とパーティなんて。それなのに母さんは僕らをひきずりだした。大嫌いだ、あんな集まりは。みんな死んでしまえばいいのに」
ミネコ相手だとどうしてこんなに素直に言葉が出てくるのかと、疑問はあったけれど、トーマスはそれを脇へ置いた。それよりも彼女とふたりで、誰にも邪魔されずに過ごしていることが重要だった。
そっと彼女へ近付いていく。
「僕は、でも、いい息子だと思うな。自分を。親の云うことに従って、決まりをまもってきたから」
「うん。あなたは立派なひと」
「君に誉めてもらえて嬉しいよ。ねえミネコ、僕は君を愛してる」
するりと言葉が口をついて出た。口に出して、トーマスは笑いそうになった。そうだ。俺は彼女を愛しているんだ。だから彼女を殺す。昨日、俺を助けた彼女を。俺を憐れんで、あんな嘘まで吐いた彼女を。
せなかに手を添えると、ミネコはゆっくりとトーマスを仰いだ。「可哀相」
「え?」
「トーマス、あなたのご両親は間違ってる」
みぞおちの辺りが痛くなった。
「僕の両親を侮辱するの」
「ええ」
ミネコは臆面もなく認めた。彼女はもう笑っていなくて、きらきらした目でトーマスを見ていた。海風が吹きつけて、彼女の髪の毛がふわっと舞いあがる。
「わたしが正しい。それは譲らない」
*
信じられないことに、アオイの推理はあたっていた。
リトルフォールから少しはなれたところにある海辺の町に、トーマスの痕跡はあった。写真を見せると、この女性が買いものをしたという土産物屋があったのだ。
「どうして……」
楽しそうに買いものをし、出て行った、という店員の証言を聴いて、外に出たジョナソンは、頭を抱えた。目撃者である、プレイン家の隣人、スティール氏に拠れば、ミネコは死んだように動かず、犬達が吠え立てても反応しなかった。その為、死んでいる可能性もあるとジョナソンは思っていたのだが。
「ミネコはそういうひとだよ」
アオイはなんでもないみたいに云う。「トーマスも」
「なあ、君。それじゃあどうして、こことは反対の町で、彼女の靴が見付かったんだ」
「ミネコの仕業じゃないかな。自分達を隠したかったんだと思う。彼女は凄いひとだよ。なんでもできる」
ジョナソンは口をあんぐり開ける。警察は、こことは反対方面を必死にさがしている。ミネコの靴が出てきたのがそちらだからだ。道路の途中に落ちていた。かなり距離を開けて、右足用も左足用も。
この辺りもさがしていないとは思えないが、しかし、さらわれたミネコ自身が上手に姿を隠していたとするならば……。
アオイは頭をかく。「例えばだけど、荷物の積みかたが適当な車って、あるでしょう。そういうのに、彼女が靴を置いたら?」
「……どこかはなれたところで、靴が落ちる?」
「確実じゃないけどね」
「だが、それをやったのはトーマスかもしれない」
「それはないよ。トーマスは彼女の靴を奪ったりしない」
「自由を奪ってるぞ」
「そもそもミネコにきちんと靴をはかせてからつれていったのに?」
いいかえしたかったが、なにもいいかえせなかった。
黙りこむジョナソンに、アオイは云う。
「とにかく、この辺りをさがそう。どっかに居ると思う。彼女は強いから」
*
「銃を買うつもりだったんだ」
「うん」
安宿で、ミネコはベッドに腰掛け、トーマスは床へ座りこんで、TVをじっと眺めていた。家を出てくる時持ってきた小さな鞄には、乱雑に紙幣をつっこんでいる。銃を買う為に金を貯めた。でも、途中で目的を変えた。車を買った。ミネコをのせる為に、
「銃を買って、ひとを殺そうと思った。兄を……」
「うん」
ミネコはなにを云っても、トーマスのことを否定しなかった。ただ、頷いてくれる。
トーマスはニュース番組から目を逸らし、ミネコを見た。彼女は微笑んでいる。「君に触れてもいい?」
「どうぞ」
トーマスはベッドへよじ登り、彼女の手を掴む。せなかをまるめ、彼女の脚に顔を埋めた。そうすると安心するのに、気分が悪くて、涙が出てくる。ミネコはなにもかもわかっているみたいに、トーマスのせなかを撫でる。「やりなおせばいいの。ひとつひとつ。あなたは間違わなかった。ただ優しすぎるだけ。わがままになって」
「本当に? 本当にそれで、なんとかなるの?」
「わたしは正しい」
ミネコの声は確信に充ちていた。トーマスは唸って、目を瞑り、彼女の匂いを肺一杯に吸い込んだ。
*
ジョナソンはマミに連絡をいれた。彼女は警察に話してくれるそうだ。
アオイが走って戻ってくる。「弁護士さん、多分見付けた」
「なんだって?」
「いいから車を出して」
アオイの指示どおりに車を走らせると、いかがわしい安宿の建ち並ぶエリアに辿りついた。アオイにせかされて一軒々々訊いてまわるのは、ジョナソンには大変な仕事だった。可愛らしいアジア人の少年をつれた男が来たと通報されかねない。
しかし、苦行の甲斐はあった。七軒目で、ランドリールームで椅子に腰掛け、脚をぶらぶらさせる、丸顔の少女を見付けたのだ。
その隣には背の高い、金髪をうなじでくくった少年が居て、アオイとジョナソンを見ると項垂れた。「ああ、シイナ、君に見付かると思ったんだ」
*
結局、事件はもみ消された。ミネコに傷ひとつなかったからだ。最終的に、ふたりは婚約し、ミネコはその後もずっとトーマスと一緒に居る。最近、ふたりはリトルフォールの中心地に引っ越した。小さなアパートで、ふたりで楽しく暮らしているようだ。
ジョナソンはマミの依頼で、トーマスとミネコの様子を定期的に見ることになり、ひと月に一回彼らに会っている。プレイン夫妻との面談も繰り返していた。夫妻はトーマスとミネコ、それからやはり家を出ている長男のジョージへの干渉をやめることができず、最近ふたりともカウンセリングへ通うようになっていた。子ども達への過干渉をやめ、慈善活動中毒をどうにかする為に。
あの、安宿でふたりを見付けたあと、マミに連絡をとったジョナソンが戻ると、ミネコははやくちでアオイに喋っていた。アオイのことをシイナと呼ぶので、ジョナソンはアオイにそのことを訊いた。彼はアオイ・シイナと云うらしい。呼びやすいほうでいいよと云ってもらえたので、シイナと呼ぶことにした。
ジョナソンは、トーマスの飾らない、真摯な言葉に耳を傾けた。
*
「僕はミネコを殺そうとしたんだ」
とんでもない告白にジョナソンは言葉を失ったが、トーマスはミネコを見て、愛しそうに彼女の髪に触れた。「でも考え直した。ミネコが、それは間違ってるって云うから」
「僕もそう思うよ」
なんとか同意を示す。隣でシイナが頷いた。トーマスは笑う。
「僕、銃を買おうと思って……」
「なんだって?」
「銃を買って、ジョージを殺すつもりだった。それから、シイナも。なによりもミネコを。でも、車を買ったから、お金が足りなくて。それから、一番はミネコにするって、この間決めて、彼女をつれだした。海を見たいと云ってたから、見せてあげようと思って」
トーマスの言葉にはちぐはぐさがあった。ジョナソンは違和感に首を傾げる。彼はミネコを大切にしているのに、彼女を殺そうとしている。
「君がなにを云っているのか、悪いんだが、うまく理解できない」
「ああ、そうだと思います。ミネコがわかってくれたのがおかしいんだ。僕はおかしいから。ミネコが、わがままになれって云うんです。多分だけど、僕はなにもかも、利他的すぎるって、そんなふうに云ってる」
「利他的?」
相手の意思も確認せずに車につめこんで、何時間もはなれたところにつれていくのが、利他的な行動だろうか。
シイナが肩をすくめた。ミネコが日本語でなにか云い、シイナがそれを翻訳する。「自分が海を見たいって話したから、トーマスがつれてきてくれたんだって云ってる。トーマスは優しくて、なんでもしてくれて、頼めば自分の命だってさしだすようなひとだって」
「ああ、やっぱりそんなふうに云ってたんだね」
トーマスはミネコの手を握りしめ、ミネコはトーマスの目をじっと見ている。ジョナソンは恋人同士の雰囲気に辟易して、喚くように云った。
「トーマス、だとしても彼女の意思を考えて……」
「ええ、そうなんです。彼女からも云われました。あなたは間違ってるって。いや、そうじゃなくて、僕の親は間違ってるって云うんだ」
「どういう意味だ?」
プレイン夫妻は非の打ち所がない「親」だとジョナソンは感じていた。子どもを慈しみ、叱るべきは叱り、きちんとみている親だと。それにしてはトーマスが犯罪に手を染めるなんておかしな話だと思ったくらいに、しっかりしている。
トーマスはぼんやりした目でこちらを向いたが、ジョナソンは彼と目が合っている気がしなかった。
「彼女は、自分のしてほしくないことを他人にしないのが正しいって云う。母親からそう教わったって。僕は、自分のしてほしいことを他人にするようにって教わってきました。そうすることで自分が認められるから。誰かの為に、自分のしてほしいことをするのは、つらくても正しいことだって。僕はそれを常にまもってきた。したくなくても、誰かが肩代わりしてくれたら嬉しいだろうなと思ったから、家事をして、両親がはじをかかないように親戚とのパーティに参加して……でも近頃、凄く疲れていて、してほしいこと全部はできなくなってしまった。だから、一番してほしいことをすることに決めたんです。僕の大好きなひと達に。僕を助けてくれた、僕の為になにかしてくれたひと達に」
トーマスはミネコを見詰め、愛をささやくみたいに云った。「僕は誰かに殺してほしかったから」